20-5.“消える”(シャツェラン)
時が進み、場が落ち着いてきた。中央付近では領主ナルカィがゼイギャクと話し込み、そこかしこの長椅子では、主に若い男女が歓談に興じている。
シャツェランが領主の娘キュズィルと共にいた“語らい”の場にも、複数人が入ってきていて、そのうちの一人がキュズィルに話しかける。シャツェランは幸いとばかりに中座すると、バルコニーへと出た。
『……』
季節は生中の期、木々の若葉が芽吹き出しているとはいえ、吹き付けてくる夜風はまだ冷たい。
(昔、アヤがセルとニホンの季節感は、同じぐらいなんじゃないかと言っていたな……)
ならば、ここは日本より暖かいということになる、とぼんやり考えながら、雲一つない夜空を見上げた。青月は満月からわずかに欠け、黄の月は半分の大きさとなって、寄り添うように中空に漂っている。
『殿下、バルコニーであっても、お出になる時は、一言お声がけください』
『目敏いな、シドアード』
背後の扉が開き、自軍の筆頭兵士団長であると同時に、スオッキの兄弟子でもあるシドアードが顔を出した。年齢は三十で、シャツェランより六つ上だ。実の兄であるディケセル王よりよほど近しく感じている。
『少し酔った』
『疲れがあると、酒は早く回りますからね』
『酒も社交の“語らい”も嫌いだ。ああして話をすることで、関係を深めていく? 周囲から好奇の目と監視を受けながら? ――煩わしいにもほどがある』
『また子供のようなことを……まあ、これからの滞在先、ことごとくこんな感じでしょうから、愚痴ぐらい聞きますよ』
そうシドアードは笑う。自分と彼の師であるゼイギャクには、絶対にない感覚だな、と思いながら、シャツェランも笑い返した。
『お? エマとミヤベだ』
『……』
シャツェランの目は、即座にシドアードの視線を辿った。
身分低き者たちの逗留先となっている建物から出てきた二人は、月明かりのあたる場所まで歩いて行った。
江間が手にしているのは、昼に郁が持っていた土蟲の籠だ。
嫌な記憶に顔を顰めるシャツェランと、目を丸くしたままのシドアードの視線の先で、二人は石畳に下した籠に手を突っ込み、それぞれ虫を取り出し、並べていく。
そしてその目の前にしゃがみ込んだ。何かが彼らの手元で光った。……鏡だ。
『何やってるんだ、あいつら』
明らかな呆れを含んだシドアードの声に、シャツェランは曖昧に頷いた。きっと彼らはまた、自分たちにはわからない、“稀人の考え方”で動いているのだろう。
江間が郁に顔を向け、何か話しかける。月明かりに照らされ、表情がよく見えた。
江間は人懐っこく、よく笑い、よく話す。その上シャツェランと並んでも遜色ない、あの顔立ちだ。
嫌がるのを無理やり連れ出した昼の茶会でも、その笑顔と話術で、あっさり場に溶け込んでいた。当初身分が低いと同席に難色を示していたキュズィルすら、江間と話してからは、明らかに好意を示すようになったほどに。
ただ、ああいう場で見せる人目を引く笑顔を、彼が郁に向けることはない。今、彼が彼女に向けているのもごく自然なもので、話に合わせてか、楽しげだったり、むっとしたり、悩んだり、と表情が絶え間なく変わる。
だが、その江間に応じる郁の横顔は、いつもどおり無表情で、可愛げの欠片も見当たらない。江間がなぜ郁にあれほど構うのか、本気で不思議になる。
(……昔はあんなふうじゃなかった)
唐突にそう思い出した。
佳乃やキュズィルのように、いつも微笑を湛えているなどということは、もちろんなかったが、笑いたければ笑い、怒る時は怒って、悲しい時は悲しいという顔をしていた。
性格だって、あんなふうにひねくれてはいなかった。頭が良いのは変わらないが、むしろひどくまっすぐで、人が良かった。
(だから、ヨシノにもむざむざと傷つけられて……いや、)
≪――アヤじゃない。ミヤベです≫
(傷つけたのはむしろ……)
『……っ』
一瞬だけ、郁が江間に向かってひどく柔らかく、そして幸せそうに笑った。
シャツェランの記憶にある彼女の笑顔は、正面のものだ。でも今自分が見ているのは、横顔――その事実に、シャツェランは自分でも驚くほど動揺する。
『仲、いいですねえ。やっていることの意味は、まったく分かりませんが。そろそろ私も身を固めてもいいかもしれないという気にさせられます』
『……後半には賛成しない』
『殿下も往生際が悪いですね』
江間がその郁に向けて、幸福そのものという表情で微笑んだのが、目に入ってしまう。
彼は郁の背後から手を回し、彼女の頭を自らの肩へともたれさせる。そしてその頭へと唇を寄せた。慌てて離れようとする郁を、抱き寄せて押しとどめる。そのうち諦めたのか、郁の動きが止まった。
『……何がいいんだろうな』
『結婚ですか? 殿下の場合は、特に難しいですからね』
――そうじゃない、郁だ。江間は郁の一体何がいいのか。
シドアードの誤解を無視し、シャツェランは月明かりの中に寄り添う二人をじっと見つめる。
江間の容姿に頭脳、性格を考えれば、相手は選り取り見取り。郁でなくてもいいはずだ。
郁は話していて面白いが、もともと普通程度の見た目な上に、あの美しい髪さえも切ってしまっていて、男にしか見えない。着飾ることにも無頓着だ。
性格も可愛げがないし、それどころか憎たらしいと思えることも頻繁にある。江間の前でだけ、可愛くふるまっているということもないはずだ。十年会わなかっただけで、あいつがそんな小器用さを身につけられるはずがない。
(エマが異性愛者だというなら、一度ふさわしい女を適当に見繕って、引き合わせてやるか)
大きい方の影を見つめながら、シャツェランは目を眇めた。
彼であれば、女のほうが惚れ込む。そこにあの能力が加われば、この世界であっても養子や婿にしてもいいという家が、必ず出てくる。稀人だと明かせば、なおのことだ。
彼らの妹ということになっている、あのリカルィデとかいう娘もそういう意味で、使い出がありそうだ。素性ははっきりしないが、何せ美しく、賢い上に、性質も素直なようだ。これだけ調べて何も出てこないのだから、どこかに紐づいているということも、おそらくない。であれば、いっそオルゲィやゼイギャクあたりの養子にして、嫁がせてしまえば、こちらの手駒を増やす材料になる。
(残る郁は、江間やリカルィデのように誰かと娶せる、か……?)
『……』
なぜかひどく不快な感情が沸き上がってきて、シャツェランは眉をひそめた。
そもそもあんな癖のあるのを引き取ろうとする人間は、そうそういないはずだ。
江間ぐらいだろうと思ったところで、眉間にさらに深い皺を寄せ、そのアイディアを即座に否定した。江間は江間で、他の人間に縁付かせたいのだ、自分の政治的な思惑のために。
だから、二人をあのままにしておく選択肢はない。
(では、どう扱うか……)
キエル――。
その瞬間、そんな確信が浮かんできて、シャツェランは息を止めた。
≪わかった。もういい≫
十年前の別れの晩、郁が見せた怒りと悲しみ、失望の混ざったあの目が、脳裏にまた蘇る。
彼女が自分の前に再び現れたと確信させたのも、あの目だ。財務司長の話題がリィアーレ一族となった時、彼女は激しい怒りを含んだ目で、自分を見た。あんな目でこの自分を見る人間は、彼女しかいない。
つまり、十年前のあの晩の喧嘩は、郁の中でまだ続いている、と考えついた瞬間、シャツェランは唇を引き結んだ。
それだけじゃない。郁はその喧嘩を終わらせる必要性を感じていない。
見知らぬこの世界に来てなお、自分を頼ろうとしなかったのも、再会を喜んで駆け寄った自分を冷めた目で見たのも、『アヤじゃない』と否定したのも、江間にはするのに、自分に向かっては昔のように笑わないのも、すべては、彼女がもう自分を信頼していないことの表れなのだ、とようやくシャツェランは悟った。
(つまり、もう一度会いたいと思っていたのは、自分だけ――……何様のつもりだ)
イラっとする一方で、確信もあった。自分の意のままにふるまえば、郁は“また”自分の前から消えるだろう。あの晩かき消えて、その後いくら願っても二度と会えなかったように。泣くどころか、罵りの言葉もさよならすらも言わず。
『……』
彼女を永遠に失ったと悟った、十年近く前の感覚が蘇って、胃がギュッと縮んだ。
ふざけるなと思う一方で、郁が望んでシャツェランの元に来たわけじゃないのは事実だ、と頭の冷静な部分が告げてくる。
“アヤ”だと、シャツェランと旧知だと、認める気も全くなさそうだし、頼ってくる気配も一切ない。ボルバナに『文字も読めないくせに』と言われた時は、メゼルを出て行くと即断していた。
≪ずっと一緒にいられたらいいのになあ、きっと楽しいのに≫
今の郁はもうシャツェランと一緒にいたいなどとは、間違っても思っていない。
つまり、彼女にとって、あの日の言い合いは喧嘩ではなく、決別だった――。
『……戻る』
シャツェランは奥歯を噛み締めて視線を逸らすと、眼下の二人を見ないようにして、踵を返した。硝子越しの広間の明かりが目を刺して、ひどく苛ついた。