20-2.人事と天命
『ありがとうございました』
直径三十センチ、深さ三十センチほどの籠いっぱいの土蟲を抱えて、皆にささやかながらお礼を渡して、領主の館を目指す。
『お待たせして申し訳ありません』
郁の詫びに、ゼイギャクは頷くと歩き出した。
『それをどうするのかね』
『食べます。と言いたいところですが、村の人たちに止められました』
『……止められなければ、食べるのか』
厳つい顔に、一瞬戸惑いが浮かんだような気がする。
『まあ、とりあえずは観察を。どうにかできないかと』
『……稀人は、人のために神が遣わした御使いだ。人はその代償を求められる――我々はそう習う』
稀人はただの人だ。御使いなどであるわけがない。ならば、代償など存在しない――そのことを誰より良く知っている“稀人”の郁は、立ち止まって、ゼイギャクの皺と傷だらけの顔を見つめた。
『人事を尽くして天命を待つ――我々はそう習います』
できることをやる、助けられる人は助ける。江間と一緒に、リカルィデとそう約束したのだ。いるかどうかわからない神様の意図より、その約束を果たすことの方が、郁にははるかに大事だ。
でも、この世界の住人であるリカルィデはどうだろう?
ふと気になって横を見れば、彼女は真剣な顔で頷いてくれた。郁は目元を緩ませると、その頭を撫でる。
『私はできること、すべきことをします』
もし、この世界に来たのがどこかの神のせいだとして、その意図に反して罰を受ける結果になったとしても後悔はしない。
『……そうか』
並んで歩くゼイギャクがいかめしい顔を緩ませて、微かに笑った気がした。
ゼイギャクに続いて、領主の館の外郭をくぐる。門兵が緊張を露に最敬礼をし、憧れと畏怖を持った目で、ディケセルの戦神を見つめる。
その後、彼はフードをかぶったリカルィデの顔を訝し気に覗き込み、ぱっくり口を開けた後、真っ赤になった。ちなみに、最後の郁はスルーされた。いつものことだ。
そうして、従者の滞在場所となっている別棟にむけて、庭園を進んでいく。
背丈八十センチほどの、八重のチューリップに似たオレンジ色の花が、風に揺れながら、日差しを反射している。
(――江間だ)
青い花を咲かせる植物が絡んだ、藤棚そっくりの構造物の下にいた。木漏れ日を受けながら、彼は今日も人に囲まれている。
「……」
(茶会で慣れないものを、口にしていないだろうか?)
郁は江間の全身にざっと目を走らせ、変わった様子が特にないと確認すると、息を吐き出した。
『すごい人だね……』
リカルィデに言われてみれば、彼の周りにいるのは、女性たちの他に、シャツェランとその護衛としてよく見かける二人、シドアード、アムルゼ、コルトナ。
近衛のグルドザは知らないが、他の人たちは皆独身のはず。全員見た目もいい方だし、ディケセル人的に素性の知れない江間はともかく、他はいいところの家の出のはずだ。シャツェランに至っては、良い家どころか王子様だし。
「……」
『……』
(気付かなかったことにしよう。声なんかかけた日には、面倒なことしか起こらない)
その意図を込めてリカルィデを見れば、彼女も目を眇めて頷いてきた。
あの中に堂々と入っていける外見をしているのに、しかも元は王女なのに、中身が郁同様残念な彼女に親近感を覚える。同時に「まだ若いのに、それで本当にいいのか」とも思うが、ゼイギャクがいるので、とりあえず今回は触れないことにした。
『ただいま戻りました』
そのゼイギャクにより、あっさり目論見を潰された郁とリカルィデは、彼の後ろで顔を見合わせる。
「……じゃあ、次」
「頭ペコリ作戦……しょっちゅうそれだね、ミヤベ」
シャツェランへと歩み寄るゼイギャクの行く先で、人垣が割れる。モーゼの海割を思わせるその光景を横目に、郁はシャツェランたちへと頭を下げて、歩み去ることにした。江間と視線が絡んだが、その目も「とっとと行け」と言っている。
「ミヤベっていい性格してる」
「そう言いながら、一緒に来るリカルィデも大概になってきた」
「そうかも」
くすっと笑ったリカルィデに郁も笑うと、土蟲のうごめく籠を抱えて、足を速める。
『――ミヤベ、リカルィデ』
またも顔を見合わせると、郁とリカルィデは、同時にため息を零した。
『……随分急ぎのようだな』
そう笑うシャツェランの口元は、引きつっている。無礼だという心の声を出さないのは、周りに人がいるからこその郁たちへの配慮だろう。そこだけは感謝しておくことにする。
郁たちの方へと移動してくるシャツェランに、周囲の人たちもぞろぞろと続いた。
『――泥がついている』
江間が一足早く前に出てきて、郁の頬に触れた。彼は「失敗したな」と苦笑しながら、心持ち郁とリカルィデの前に立ってくれて、シャツェラン以外の人々の視線の多くが遮られた。
彼の横に並んだシャツェランが、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
『それは例の件か? 成果はあったのか?』
『まだ何とも』
郁は土蟲がかさかさと動く籠をシャツェランの前に差し出し、蓋をとろうとした。が、彼の顔が微かに引きつった。
(ああ、そういえば、こういうもの、嫌いだったっけ)
自由研究で蝶の卵や幼虫を集めていると話した郁に、彼が『頭がおかしい』と心底気味悪そうに言っていたことを思い出す。
となると、個人的には是非蓋を開けたいところだが、その後がこれまた面倒なことになる。
『殿下に対してのご無礼、目に余りますわ』
ここの領主の娘だという、十七、八の美しい女性がシャツェランの横に歩み出た。双月家――ディケセルでは、二番目に位の高い貴族らしく、露骨に郁たちを見下げてくる。
『申し訳ございません』
美しく着飾った彼女に不快そうに言われて、だからとっとといなくなりたかったのに、という愚痴を押し隠して、郁は謝罪を口にした。
『そこのあなたもフードをお取りなさい』
汚いものを前にしたように眉根を寄せ、心持ち身を引きながら、娘はリカルィデを指した。
(……自分のためにやめておいたほうがいいのに)
顔に出たらしい。目の合った江間が人悪げに笑った。
『……失礼しました』
リカルィデが土まみれの手で、深く引き下ろしていた布を払った。
土が付いていてなお白い、美しいとしか言いようのない顔が露になった。優しく吹いてきた風に金の髪が舞って、キラキラと光を反射する。日差しを受けた瞳は、どこまでも深く青く澄み、薄桃色の唇と頬の可憐さを彩る。
案の定絶句した周囲の人間に、案の定リカルィデは嫌でしょうがないという顔をした。
『私同様、土にまみれておりますので、お目汚しになっては、と』
郁はリカルィデの顔の土をさらに広げつつ、彼女のフードを再び下ろした。
『……あ、あなたが先ほどから持っている籠には、一体何が入っているのですか? ここは我が父がお預かりしている土地であり、シャツェラン殿下がご滞在になっている以上、不審なものを持ちこませるわけにはまいりません』
リカルィデのフードについては口を噤むことにしたらしい、賢明な領主の娘は、再び郁を睨みつける。
『そもそもあなたのような素性のしれない男を館に入れることに、私は反対なのです』
『であれば、俺もですね、大変失礼いたしました。殿下、辞去のお許しを』
ここぞとばかりに、シャツェランへと微笑みかける江間に、彼は苦虫をかみつぶしたような顔をし、娘は『いえ、エマのことでは……』とうろたえた。
『――キュズィル殿、その者たちの人物は、私が保証いたしましょう』
郁と江間、リカルィデのみならず、シャツェランの目も一瞬まん丸になった。
声の主を確認すれば、やはりゼイギャク――。
全員が驚いたように彼を見つめているが、ゼイギャクの表情は微動だにしない。
『……我がリィアーレ家でも、彼らを後見しております。どうかご理解を』
リィアーレ家の次代当主であるアムルゼが、最初に我に返り、なんとか空気が戻ったが、郁は警戒を露に、ゼイギャクを見つめた。彼は軽々しいふるまいを好まないはずだ。
(なのに、よく知りもしない私たちを保証? なぜ? まさか……)
「……」
郁はちらりとリカルィデに目を向けた。
(彼女がアーシャルだと気付いている? 彼がグルドザの規範に忠実なのであれば、既に死んだことになっているとは言え、元王族の彼女のために、それぐらいのことはするかもしれない。だが、その場合は? この先、彼はリカルィデをどう扱う気だ――)
『そ、それでも、その不審な荷は、確かめさせていただきます』
娘の声に、郁はゼイギャクへの疑問をとりあえず脇に押し遣った。
『お勧めいたしかねます。ご容赦を』
『分を弁えなさい。私への指図は許しません』
『指図などと恐れ多い。御身のために、と』
『あなたごときに気遣われる謂れはありません。良いから見せなさい。私には私の責任があります』
領主の娘の物言いは、いかにも身分社会の高位の人間のもので、好きになれない。だが、誰が何を言おうと、自分のすべきことをするという、彼女の姿勢には敬意を払うべきだろう。
何より――自分への敵意にもちゃんと対処すると、江間に約束したのだ。
郁が微かに笑えば、その江間は顔をひきつらせたが。
『では、おそれながら』
『おい』
シャツェランの微妙にうろたえた声は、当然気付かなかったことにする。一石二鳥だ。
郁は乗り気でないような顔をしながら、籠をキュズィルの美しくも細い腕へと差し出し、恭しく蓋を取った