4.片思い?(葉月)
喧嘩した兄が、仏頂面であっても自らの誕生日会にやってきて、一応「おめでとう」と言ったことで、祖父の機嫌は直った。
……かに思えたのに、また別件で喧嘩して、兄は下宿先にとんぼ返りしてしまった。
久々の兄の帰宅にはしゃいでいた弟の智樹は、そのせいで今朝、奈落に落ちたような顔で、「姉ちゃん、兄ちゃんまた連れ帰ってくれ……。お願い、絶対に!」と葉月に念押しして、部活に出て行った。
(もう高校生になろうってのに、あのブラコン坊主、面倒くさい)
内心で毒づきながら、葉月は祖父の部屋を訪ねる。
入室を願う葉月に、了承を返してきた祖父は、床の間の前に正座し、日本刀の手入れをしている最中だった。機嫌は……よくない。
開け放たれた障子、縁側の向こうには、祖母が好きだったという庭が見える。梅が盛りを迎えていて、香りが漂ってきた。
祖父が手入れの終わった刀を鞘に納める。
まるでそのタイミングを知っていたかのように、母が茶を運んで来た。
「せっかくなので、お茶にしましょうね」
ふすまの向こうに正座して、そう微笑んだ母は祖父の返事を待たぬまま、盆を持って立ち上がり、すっと部屋に入ってきた。
「おじいちゃん、兄さんのお見合いの話、本気? まだ二十一、しかも進学だよ? 就職すら決まってないじゃない」
「先様がそれでいいからと仰っている。婚約だけでもいいそうだ」
「今時青田買いってやつ……それ、先方が嬉しいだけで、兄さんにはいいことないじゃない。怒るの、当たり前でしょ」
最低という目線で、「私も見損なった」とはっきり怒りを見せた葉月に、祖父、江間茂樹は軽く眉を顰める。
「婚約者でもできれば、あの浮ついた振る舞いも納まる」
「浮ついてない。そりゃあ、見た目はおじいちゃんの好みじゃないかもしれないけど、あれぐらい今は普通だし、中身は昔から変わってない。馬鹿真面目なまま。警察官は人を見るのが仕事って言ってたくせに、なんでわかんないかな」
警察官として長年共に過ごしてきた同僚にも剣道仲間にも恐ろしいと言われてきた目付きで茂樹が見つめても、孫娘の葉月はまったく動じない。むしろ恐ろしい目つきで睨んでくる。
「葉月、おじいさまは和樹が心配なのよ。初孫でかわいくて仕方がないの」
急須で茶を回し入れた母が湯呑みを茂樹に出し、そう言ってにこりと笑った。
祖父はその母に渋面を作ったが、何も言い返さない。
ちなみに、これが葉月の場合は「女孫だから」、智樹の場合は「末っ子の孫だから」で、どのみち「可愛くて仕方がない」に繋がる。その通り祖父は兄妹全員を可愛がってくれているが、やり方が時代錯誤過ぎることが少なくない。
「和樹もわかっていますよ。これ、誕生日のプレゼントだそうです」
「……」
続いて差し出された茶菓子は、祖父が贔屓にしている隣町の和菓子店の塩羊羹だ。
祖父は面白くなさそうに鼻を鳴らしたが、迷わず口にして一瞬口元を緩めた。
「じゃあ、お母さんはお見合いに賛成なわけ?」
「まさか」
「……一度お会いするだけお会いしてみればいい。先様のお嬢さんとは私も面識があるが、控えめで落ち着いた感じの方だ」
従順かと思いきやまったくそうではない――義父の意に反することを、反していると知りながらにこやかに言ってのけた息子の嫁に、茂樹は渋い顔で反論を試みる。
「控えめ……? 今時、親に頼っていきなり婚約に持ち込もうと画策する人が? 知ってるのなんて、どうせ兄さんの見た目と大学名だけでしょ」
「葉月、よく知らない方のことをそんなふうに言っては失礼よ」
「お母さん、どっちの味方なの」
「そうねえ、敢えて言うなら、和樹と和樹の片思いのお嬢さんの味方?」
茂樹が湯呑みを口に運ぶ手を止めて、呆然と「かた、おもい……? 和樹が? 片思い?」と呟いたが、江間家の女二人はかまわない。
「え、なに、お母さんも知ってるの?」
「あら、葉月も知ってるの? そうねえ、あなたたち、昔から仲良しだものね」
「私は昨日知った。兄さんが帰る気になったの、その人のおかげなの。去年の秋、おじいさんが亡くなったらしくて、会える時を大事にって言ってくださったの」
「……離れて暮らす妹さんに付きまとわれているという子よね? 確かおじいさんと二人暮らしじゃなかった?」
眉根を寄せた母に、「そんな複雑な家の子を和樹に近づけるな」と茂樹が言った瞬間、葉月が噛みついた。
「家の事情なんて人それぞれでしょう? 彼女のことを知りもしないで、そんなふうに言わないで。私のことも助けてくれたんだから」
葉月が隠したいことを察してその通りにしようとし、兄の大事な場所を同じように大事にしてくれて、会ったこともない祖父を思いやって兄に帰るように勧め、迷惑をかけまいと葉月の誘いを断る人なのに、と葉月は祖父を睨む。
「……お前も同じことをしたじゃないか」という祖父の声は、聞こえなかったことにした。
「というか、お母さん、なんで知ってるの?」
「和樹が大学に入って……いつぐらいだったかしら、わざわざお父さんに約束を取ってから帰ってきたことがあったの。交友関係を妹にぐちゃぐちゃにされている子がいるけど、なんとかできないのかって、相談していたから。法律では難しいと言われて、絶望的な顔で帰っていったもの。ただの友達じゃないってお父さんですら気付いたくらい。その後もお父さんとはその件で時々話しているみたいよ」
「……そうなの?」
「となると、去年の秋に友達を少し滞在させてもらえないかと言ってきたのも、その子だったのかしら……? 急に一人暮らしになって危なっかしいとかで。その後音沙汰がなくて忘れていたのだけれど……」
そして、母は「そう、おじいさま、お亡くなりになっていたの……。なら、無理にでも連れてくればよかったのに」としんみり呟いた。
「そんな人間、うちの敷居は跨がせん」
「そんな人間って何よ、せめて会ってから言ってよ」
「それ以前に無理でしょう。だって、どう聞いても和樹の片思いじゃない」
「ますます許さん」
「おじいちゃんは口出ししないで。兄さんも片思いだと思ってるみたいだけど、そうじゃないかもって思う。けど、あの態度じゃ無理。猫かぶり大得意なくせに、その人の前だとものすごく感じ悪いの。めちゃくちゃその人のこと心配してるっぽいのに、憎まれ口叩いて傷つけて距離置かれて……要領悪いにもほどがある」
「あら? あらあらあらー、そうなの? じゃあ、なおさら連れてきてもらわないと。お母さん、一生懸命おもてなしするのに」
「だから許さんと言っている!」
「はあ? つまり、兄さんが片思いなのも許せないけど、両想いでも許さないってこと? ……ありえない」
「……」
葉月が冷たい視線を向ければ、祖父は声を詰まらせた。
「大丈夫よ、葉月。和樹がそこまで好きになる子なんだから、おじいさまも必ず気に入るわ」
「……貴子さん」
「はい。羊羹のお代わりはいかがですか」
そう言って母はあらかじめ用意していた皿をさっと出し、不機嫌な祖父ににこりと笑いかけた。
「お見合いも大丈夫。おじいさまのことだから、もうお断りになったはずよ。和樹があれほど嫌がったんですもの。そうですよね?」
「そうなの?」
「……」
祖父は仏頂面で母と葉月からそっぽを向くと、庭の梅を見つめながら、新しい羊羹に手を付けた。
「……葉月、一度連れてくるように和樹に伝えなさい」
「いや、だから、妹さんのせいか、兄さんの態度のせいか知らないけど、兄さん、その人に距離取られてるから。付き合ってもいない相手の家に、ほいほいと来る感じの人じゃないし」
「そんな情けない男に育てた覚えはない!」
「……応援してるの? 反対してるの……?」
「お母さんもそんな風に育てた覚え、ないわねえ」
「本人に言ってよ」
葉月はため息をつくと、冷え切ったお茶に口を付けた。