2.兄妹
「わあ、眺め、いいですね」
予想通り、屋上の扉に鍵はかかっていなかった。押し開ければ、冷たい風が首筋を撫でていく。だが、日差しはだいぶ温かくなっていて、空には雲一つない。
五階建ての年季の入ったその建物の屋上からはキャンパス、そして周辺の街並みが見渡せた。澄んだ空気のせいだろう、遠くには青い山脈が薄っすらと見える。
「あー、またいないー、どこほっついてるんだろ……」
「確認してきます」
郁は葉月の服装を見、そう声をかけると、右手奥に設置された高置水槽の梯子に手をかけた。
「……」
上っていく郁へと、葉月が面白そうなものを見る目を向けてくる。
「江間君?」
郁の予想通り、江間は高置水槽の上で顔に本を乗せ、寝ていた。いくら日当たりがいいとはいえ、まだ二月、寒くないのだろうか、と思いながら、すぐそばに膝をつくと、その身を揺すった。
「江間君、お客さま」
「……んー」
寝ぼけているのか、江間が寝返りを打ち、郁の膝に体が触れた。慌てて距離を取ろうとした弾みで、後ろに落ちそうになったが、江間に腕を掴まれて難を逃れる。
が、彼は目すら開けない。
膝に伝わってくる体温と放されない腕に焦りながら、「江間君、起きてるでしょう」と改めて声をかけるが、「……めんどい」とぼそりと呟いた彼は、そのまま狸寝入りを決め込んだ。
怠惰すぎると眉を寄せながら、郁は開いた方の手で彼の肩辺りに再度触れ、少し乱暴に体を揺らした。
「もう少し寝かせといてくれ……」
いつものパターンだ。仮眠をとるから何時に起こしに来いとか、一方的に言っておきながら、実際に起こしに行くとこんなふうに起きず、半分寝ぼけたような感じでそのまま一時間ぐらいグダグダとしている。
ため息をついた瞬間、江間がまた身動ぎし、繋がったままの手が引き寄せられた。江間の上に倒れ込みそうになった郁は、咄嗟に自由なほうの手をタンクの上について身を支える。
心臓が早くなったのを隠そうと、慌ててもう一度肩を揺する。
「今日は諦めて。妹さんがいらしてる」
「……い、もうと?」
「――そう、妹。私」
「っ、葉月っ?」
「おはよ、兄さん。邪魔してごめんねー」
水槽にかかったはしごの中途から顔をのぞかせた葉月が、ガバっと起き上がった江間を白い目で見ていた。
「あー、無理。俺、今日泊まり込み。もう装置動かしてるし」
「何とかしてよ。今日だって、ずっと前から言ってあったでしょ?」
「忘れてた。まあ、よろしく言っといてくれ」
「せめて自分で言いなさいよ! おじいちゃん、あれからずっと不機嫌なんだから!」
「お前が機嫌とりゃ、一発でご機嫌だろーが。ってことで、よろしくな」
「私と兄さんは別枠なの! いい加減理解しろ!」
「……」
(責任は果たしたし、もう行っていいのかもしれないけど……)
兄妹喧嘩を前に、郁はなんとなく立ち去ることができない。
江間とおじいさんの喧嘩の原因がわからないから、口出ししていいのかわからないけど、と郁は、自分の祖父の顔を思い浮かべた。昨年の秋に彼が他界し、郁はもう二度と彼に会うことができなくなった――お墓ですらも。
「江間君、例の実験なら代わりにやっておくから。私も今日泊まり込む予定だし」
おせっかいかも、と思いながらの提案に、同じ形の二組の目がばっと郁を向いて、少し怯んだ。
「ありがとうございます、宮部さんっ」
「余計な口出しすんな、宮部」
(実験を途中で人に任せたくないという気持ちはわかるけど、一応共同で進めている研究なわけだし、もう少し信頼してくれてもいいのに)
かわいい葉月と対照的に、江間にはけんもほろろに断られた。確かに余計なことだったけど、と郁は短くため息をつく。
(この上、今のは予備実験、途中でやめても問題ない、なんて言おうものなら、また嫌味を言われまくることになるな……)
郁は口を噤む。
「宮部さんがわざわざそう言ってくださってるのに、二重に失礼じゃない?」
「別に宮部の問題とは言ってない」
「じゃあ、なんなのよ?」
怒気を含んだ葉月の顔は美しくて、それゆえに恐ろしい。
江間は顔を逸らすと、「別になんだっていいだろ」と投げやりに言ったが、そこは妹だ。「よくない」と断言して、江間を睨みつけた。
「しつこいな。会おうと思えばいつでも会えるんだから、そのうちまた帰るって」
「今日! 節目の年だから、ちょっと豪華にお祝いしようって話だったでしょ」
「しつこい。大体お前の独断だろーが。押しつけがましいっての」
「はあ?」
葉月の顔色が変わったのがわかって、郁は口をへの字に曲げる。
険悪になっていく兄妹の空気に、郁は迷いながらも「その、お節介を承知で、なんだけど……」ともう一度口を開いた。
もし、江間がおじいさんを本気で嫌っているのであれば、それでもいいと思う。けれど、多分違うはずだ。
≪爺さんが、下宿に押しかけて来たんだよ……。で、その髪はなんだとか、規則正しい生活をしろとか、一晩中説教……≫
一年の夏休み前、授業中珍しく転寝していた江間が、郁にノートを見せてくれと言って来た時そんな話をして、おじいさんのことを「どうしようもない頑固爺」「いつの時代だよ」と愚痴っていた。
なのに、愚痴の後、小学生の頃、朝暗いうちから虫取りに付き合ってくれたとか、庭にツリーハウスを作るのを手伝ってくれたとか、悪さした時には一緒に謝りに行ってくれたとか、素敵な話が延々と続き、微笑ましくて郁が思わず笑ったら、「……いい所もなくはないってだけの話だ」と、江間は顔を真っ赤にしていた。郁同様彼がおじいちゃん子だと知って、嬉しくなった覚えがある。
「会いたいと思っても、会えなくなる時はいつか来るよ」
「……」
目を見開いて郁を見た後、江間は「……いっやな奴。それ、お前に言われたら、逆らえないって知ってて言ってるだろ……」と呻き声をあげた。
「ごめん」
その通りだ。郁がついこの間祖父を亡くしたことを、江間が知っていると知っていての言葉だ。後ろめたさもあって困った顔をした郁に、江間は口を引き結んだ。
葉月が驚いたように、そんな二人を見比べる中、江間は右手で頭の毛をぐしゃぐしゃとかきまぜた。そして、「……最近、不審者が多いだろーが」と拗ねたように呟き、そっぽを向いた。
思わず葉月を見れば、彼女も目をまん丸くして郁を見る。
「不審者って、理系の学部やサークルの部室辺りに夜遅くに出て、女子の後を付けて来るって話? この間は学舎にまで入って来て、騒ぎになったって……」
「そんな話があるんですか」
「あのなあ、法学部の葉月が知ってることをお前が知らないってのが、そもそも問題なんだ。なんでいつも変なとこで抜けてんだ、もう少し周囲に気を配れ」
「何その言い方……? 宮部さんを大事に思うから心配してるんでしょ? そう言えばいいだけじゃない」
「……そういうんじゃねえよ。一緒に研究してるやつが犯罪に巻き込まれたら、後味が悪いってだけだ」
葉月の言葉に一瞬息を止めた郁は、不機嫌にそっぽを向いた江間に、すぐに自分の馬鹿さ加減を思い知る。
はっきり「宮部とか論外」と言っていたじゃないか。彼はただただ親切なだけだ。今晩のことだけじゃない、祖父の死の後のことも、ボッチの郁を何かと気にかけてくれるのも。
(当然だ、私も彼が好きじゃないし、むしろ嫌いなんだから――)
「ふうん、そうは見えないけど」
「江間君は親切ですから」
視線を伏せながら、郁は静かに江間の言葉を肯定した。
自分でも全部わかっている。自分を大事に思ってくれる人はもういなくなったし、この先も現れない。ずっと一人だ、生きている限り。
郁は小さく頭を振って思考を切り替える。江間の視線を感じたが、そっちは見ないようにした。
(なんにせよ、彼が私みたいな人間でも心配をするお人よしであることは、確かだから……)
「じゃあ、私も今日は早く帰ります……?」
そうすれば、江間はおじいさんに会いに行くだろうか……?
「…」
目のあった江間が眉間に深く皺を寄せた。
「お先に失礼します」
自分が屋上に、特に江間と一緒にいたことを誰かに見られるわけにはいかない。
江間とここで会った後はいつもそうしているように、郁は屋上の入り口で江間とその妹に別れを告げ、頭を下げた。
「うちのせいで、今日早くお帰りになるんでしょう? せっかくですし、宮部さんもおいでになりませんか? 祖父も両親も喜びますから」
「……」
そこで、葉月に何気なく誘われて、郁は目を丸くした。
まじまじと見つめてしまったが、彼女の表情には純粋な好意しかない。
こんなふうに誰かに誘われることは、郁にはもうずっとなかった。なんていい子なのだろうと、嬉しくなるのと同時に悲しくなる。
(彼女は私の妹のことを知らない――)
葉月の向こうで江間が複雑な顔をしていることに気付いて、郁はまた苦笑を零した。
≪お前の妹、あれ、鬱陶しいな。何とかしろよ≫
ただでさえ江間には一番迷惑をかけている。この上、彼の大事な妹まで煩わせるわけにはいかない。
「ありがとう。せっかくのおじいさまのお誕生日ですし、ご家族で楽しんで下さい。私は溜め込んだ家の事を片付けることにします」
頭を下げることで様々な気持ちを押し込めると、郁は別れを口にし、踵を返した。
「……約束、守れよ、宮部」
「わかってる」
後ろからかかった声に振り向かないまま返事をし、扉を閉めた。
「……」
扉のこちら側は薄暗くて目が慣れない。何も見えない。空気も冷たい。
向こう側は温かかったな、と郁は両腕で自らの身を抱えてさする。
それから、すごくにぎやかだったし、と江間と葉月の、騒がしくも温かいやり取りを思い出して、口の端に小さく笑いを上らせた。
ようやく目が慣れた。郁はすべての表情を取り去って、静かで寒い階段へと足を踏み出す。
約束した以上、早く研究室に戻って、今日の分の実験にけりを付けなくては。
遅くならないうちに帰って、そうしたら引っ越してそのままになっている段ボールの荷物をいい加減片付けよう。
出来るだけ身軽に、いつでもいなくなれるように――。