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故地奇譚 ―嘘つきたちの異世界生存戦略―  作者: ユキノト
余章 江間葉月 ―日本―
113/255

1.妹

 他学部での授業を終えて、実験の続きをしようと研究室に戻る途中、嫌な会話が耳に届いた。

「ここのところ、あなたみたいな子がいっぱい来ていて、正直、研究の邪魔なのよね…」

「なんていうか、研究室を選ぶなら、ちゃんと研究テーマで決めて欲しいなって」

「浮ついた気持ちで来られると、私たちだけじゃなくて、教授も迷惑するから」

「というか、あなた、学部も違ってない? まさか転部してくる気? あり得ない、うちの大学、転部、めちゃくちゃ厳しいのに」

(……またやっているのか)

 ため息をつくと同時に、こんな場面に「また」遭遇する自分の間の悪さを呪いたくなった。重くなった足を引きずるように進んでいく。

 廊下の角を曲がって十メートルほど向こう。データをまとめたり、論文を書いたり、議論したり、くつろいだりで人がいることの多いゼミ室の目の前にいるのは、案の定菊田に川島、秋山――いつもの三人が見知らぬ子を取り囲んでいる。


「そちらの方、見学であれば、ご案内します。こちらにどうぞ」

 いちいちかまうのも億劫で、郁は彼女たちの頭越しに、囚われと化している子に声をかけた。

「ちょっと、宮部さん、勝手なことをしないで」

 菊田の苛つき声に、郁はため息とともに、つい「勝手、ね……」と漏らしてしまった。

「勝手って誰が?」と突っ込んでも、これまた面倒なことしか起きない。もっともこの状況が既に面倒なのだが。

「先日、佐川教授がうちの研究に興味があって聞きに来る方には、説明の機会を等しく、とはっきり仰いました」

 目の前で聞いていた、いや、聞かされただろうに、と思いながら淡々と告げれば、菊田たちの顔が歪んだ。思いっきり睨まれるが、いつものことだ。

「お声がけ、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

 そんな刺々しい視線の向こうから響いた声は、郁の予想に反して、明るくはきはきしていた。

 目を向ければ、その人は三人の苦々しいものを見る目つきを意にも介さず、郁へと涼やかに微笑みかけてくる。前に同じような状況に置かれた子は皆怯えていたのに、と意外な気分で、その人の顔を初めて意識の中に入れ、郁は眉根を跳ね上げた。

 郁と同じくらいの身長、長い手足、少し癖のある髪、驚くほど整った顔立ち、何より明るい人好きのする雰囲気と、その目――。

「……少しだけお待ちいただけますか。荷物を置いてきます」

 郁は彼女にそう声をかけると、菊田たちがいる部屋の前の扉を開けて、自分の机に教材を置き、念のため室内をざっと確認する。

 背後から小声で、「うざ」「いい子ぶって」などと聞こえてきたが、面と向かって言ってこないあたり後ろめたさはあるらしい。

(……今日の彼の予定はなんだっけ。講義はないはず。となると、この前話していた予備実験にかかってるかも……)

 だが、ゼミ室の中に期待する姿がなくて、郁は軽く眉をひそめつつ踵を返した。


「また女の子? 今度の目当ては江間か福地か……ほんとやってらんねー」

「菊田さんたちも大変だねえ。研究室に何しにくるって、まんまブーメランな気もするけど」

 部屋の中央に据えられたソファに座り、愚痴と皮肉を飛ばして引きつった顔で笑っているのは、ポスドクの曽根と博士後期課程の野上だ。

「宮部さん、また案内係するの? ほんと、貧乏くじ好きだね」

「さっすが教授のお気に入りのいい子ちゃん。まあ、でも、この間の子、ええと、佐野ちゃん? みたいな可愛くて性格のいい子だったら、うまいこと助けてやって、後で紹介してくれる?」

(江間や福地を妬むより、その性格を見直す方が先だろうに)

 心底そう思うが、それを教える義理もない。

「……へ、マジで人形だな」

「人形に失礼だろ、かわいらしさゼロじゃん」

 彼らに無表情に頭を下げて廊下に出れば、また隠れていない陰口が追いかけてきた。


「お待たせしました。行きましょう」

 睨む菊田たちの前で、相変わらず涼しい顔をしている彼女に声をかけ、郁は可能性のある実験室の一つへと、連れ出した。

「助けていただいてありがとうございました」

「こちらこそご迷惑をおかけいたしました」

 周囲に人気が無くなったところで彼女に話しかけられ、淡々と返す。そして、目的の部屋の扉を開けて顔を顰めた。

 ここにもいないとなると次はどこだ、と内心で呻きながら、扉を閉じる。すぐに解放される予定だったのに、見込みが狂った。

 彼女はその郁をじっと見つめ、「お名前をお伺いしてもいいですか?」と訊ねてきた。

「……」

 目を見開いて、彼女を振り返れば、長い睫毛に縁取られた、切れ長の涼やかな瞳が弧を描く。

「私は江間葉月と申します。ご挨拶が遅れました」

 美しい所作で頭を下げた彼女に郁は確信する。名字もだが、仕草も目の動きもそっくり同じ――彼女はやはり江間の妹だ。

 素知らぬ顔で江間を見つけ、もし合っているようであれば、そこで“案内役”を交代、と思っていたのに、またも見込みが狂って郁は苦笑を零した。

(さすが江間の妹、手ごわい)

「宮部と申します。お兄様にはいつもお世話になっております」

 気を取り直すと、郁も丁寧に頭を下げ返した。

 郁と江間は教授から共同で研究を割り当てられているから、半分は本当、半分は社交辞令だ。昔はともかく今の郁と江間は、毎日のように顔を合わせていても事務的な用件以外目も合わせないことが珍しくない。仲がいいとは絶対に言えないが、妹の彼女はとてもいい子なようだし、おかしな気を使わせたくはない。

「やはりお気づきでしたか」

 いたずらっ子のように彼女が笑い、ますます兄の江間に面影が重なった。

「仰っていないようでしたので、お聞きしないほうがいいかと。私こそ失礼いたしました」

 江間の妹だと明かせば、さっきのように絡まれることはないはずだ。だが、それでも言わないのは理由あってのことだろうと思ったから、敢えて聞かなかった。

 もう一つ、そこまで踏み込みたくなかったという理由もある――江間の身内なら、猶更関わりたくない。

 そんな郁に、葉月は「気を使ってくださったんですね。ありがとうございます」と屈託なく笑いかけてくれて、少し後ろめたくなった。こういうところも兄弟で似ている気がする。


「あの、なぜ私が江間の妹だと?」

「よく似ていらっしゃいますし、以前彼が妹が法学部に入ったと話していたので」

「兄が、ですか? 私のことを話した……?」

「? ええ、嬉しくて仕方がないようでした」

 なぜか驚かれて、郁は眉を跳ね上げた。

 江間は明るくて社交的な人だが、実はあまり自分のことを話さない。でも時折零す会話の端々から、家族が大好きなことは伝わってくる。

 二つ下だという妹、彼女とは特に仲がいいようで、「妹が同じ大学に受かった」と三年になる頃、桜を見ながら話していた。「お前に最初に会ったのも桜の中だったな」と。

 一年の時ほどじゃないけど、あの頃はまだ今より話ができたと郁は思い返す。

(最近の会話は事務的な話か研究の話だけ、そうでないのは嫌味の応酬ぐらい。まともに話せるのは、屋上だけで……そうか屋上だ)

 郁は何かを考えこんでいる葉月の横顔を見つめる。

(まあ、彼女であれば、連れて行っても問題ないか)


 次の目的地に行くまでの間、葉月はよく話した。そんなところも兄妹でそっくりだった。

「祖父の誕生日、今日なんですけど、あの人、携帯の電源を落としているんです。絶対わざです」

「わざと……」

「この前祖父とまた喧嘩をしたんです。それで、文句言われて面倒だからって。おかげで迷惑かけられるのは私! 友達とかも含めて人と連絡がつかなくなったって、別に俺は困らんとか言い切るし、性格も最悪!」

 むぅっと口を尖らせると、近寄りがたいほどに美しい、大人っぽい雰囲気が一転する。笑ってはまずいのかもしれないけれど、あまりに可愛くて郁はつい微笑んでしまう。

「おじいちゃんはいつもあんな風なんだから、適当に聞き流しとけばいいのに。変なところで要領悪いし、気も短いし。って、研究室では問題起こしてませんか?」

「想像すらできないです、彼が問題を起こすところ」

 郁の返事に葉月はホッとしたような顔をする。その空気はひどく優しくて、彼女は江間が大事なのだ、と伝わってくる。同じ妹持ちなのに、まったくうまくやれない自分とは大違いだ、と郁は隠れて苦笑いを零した。


「この辺、初めて来ました。実験室、随分離れてるんですね」

「あー、と……実験室、ではないです」

 本当なら入れない屋上が目的地だということと、なぜそんな場所に江間がいるのかをどう説明しようと咄嗟に言葉を詰まらせた郁だったが、杞憂に終わった。

「ひょっとして……逃避場所? しんっじられない、大学でも作るなんて!」

 逃避とはうまい表現だ。だが、大学でも?

「『でも』と仰ると…」

「小中高、ずっとです、いつのまにか校長先生とか用務員さんとかと仲良くなって、こっそり秘密の息抜き場所を教えてもらうの! あの人タラシめ!」

 つまり彼はずっとそんな風――思わず吹き出して、声を立てて笑ってしまった。

「笑い事じゃないです、もう。他人とそこまでうまくやれるなら、なんでおじいちゃんとだけ、仲良くできないんだろ。おじいちゃんだって、ほんとは兄さんが一番可愛いくせに、顔を見れば、ちゃらちゃらするな、とか文句ばっかり。弟も兄ちゃん連れ帰ってきてくれってやかましいし、あのブラコン、自分で言え! なのに、お母さんもお父さんも『それぞれ考えがある』で、基本放置だし」

 むくれながら、弾丸のように家族の文句を言っている葉月からは、それぞれへの愛情が伝わってくる。

 誰かが誰かを大切に想っている、温かい空気――本当に素敵な子だ。そして、他の家族もきっと……だから江間はあんな風なのだろう、と郁は一人納得する。

 昨年の秋、そんな風に想える最後の相手を失った郁には、その空気が懐かしくて、嬉しくて、少し目に痛かった。


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