19-7.カード(江間)
(思ったよりあっさりとカードを手放した)
――シャツェランは、江間たちが稀人だと公にする気はない。
徐々に弱くなっていく斜陽に照らされたシャツェラン・ディケセルを前に、江間は目を眇めた。
彼は江間たちが稀人だと気付いていて、江間たちは彼がそうだと知っている。
「稀人だと公にされれば、佐野のように排撃の対象とされ得る」という点とあわせて、その事実をほのめかすことで、この件についての彼の行動を縛るつもりだったわけだが、まったく抵抗してこないとはさすがに予想外だった。
江間たちに何か要求するなら、『稀人だとばらされたくなければ、』と脅すのは、事実有効だからだ。最終的には譲歩するだろうと思っていたが、こちらの弱みにつけ込んで、何かしらの代償を求めてくるだろうと思っていた。
(彼自身がそれだけ強く稀人を失えないと思ってるってことか。いや、稀人というより……)
江間が倒れ、目覚めた後、『泣いたのか』と宮部の顔を覗き込んでいたシャツェランを思い出し、江間は息を吐き出した。
(宮部は多分シャツェラン・ディケセルに対して、宮部自身が考えているよりはるかに強いカードだ)
複雑ではあるが、それゆえ自由が利く――。
江間は視線を宮部に移す。彼女が小さく頷いたことを確認し、シャツェランに向けて再度口を開いた。
『バハルのオアシスに稀人がいます』
『――どういうことだ』
シャツェランの声音が変わった。
『バルドゥーバ国がイェリカ・ローダの馴化を行っている場所をお探しだったのでは』
ピリッとした雰囲気をものともせず、役に立ってやったのに、と言わんばかりに宮部は肩をすくめた。
シャツェランはイラつきを露わにその彼女を睨みつける。
江間はため息をつきながら、宮部の肩を押し、彼から距離を取らせた。
『ギャプフ村の避難民キャンプに来た、バルドゥーバの奴隷の少年からの情報です』
『着いた時には瀕死だったそうです。ギャプフの薫風堂が引き取り、看取ったと』
江間の言葉を補足した宮部の顔が、暗く曇ったことに気づいて、江間は彼女の頭に手を乗せた。
『その話を知るのは、お前たちと薫風堂以外にいるか』
『知る限りはいません』
年初の、閉館間近の書物棟は静まり返っている。
三人が黙りこくって生まれた静寂のせいで、耳鳴りがしてきた。
『何の見返りを期待して、その情報をよこした?』
シャツェランの青い瞳に、為政者としての冷酷さが宿った。先ほどまで確かにあった気安い空気が一変する。
『こちらも情報が欲しい。イェリカ・ローダを、ええと、飼い馴らす? ことが可能なのか。可能であれば、何がそれを可能としているのか』
――キクタさまを助けて。
幼い声の幻聴が聞こえたが、江間はそれを敢えて無視する。宮部に伝える気もまったくない。
江間にとって大事なのは一人、彼女であり、彼女が大事にしているもう一人、リカルィデだ。
『知ってどうする?』
『対抗する方法を考えます』
あの夜、空を舞っていた化け物――あんなものを、あんな国、いや、福地なんかに使役されてたまるかと、江間は視線を尖らせる。福地のあの性格、そして佐野が処刑されたことを考えれば、いずれ宮部や江間も危うくなるだろう。
『それより、バハルでイェリカ・ローダの馴化を行っている稀人を連れ出してください』
『……はあ?』
『それが一番手っ取り早い』
(……なに言ってんだ……)
無表情に口にした宮部を、江間は呆然と見つめた。
言いたいことは色々ある。バルドゥーバ、福地だって簡単に連れ出せるような状況にはしていないだろう。砂漠での幽閉にはそれも関係しているはずだ。
それより何より、あの菊田だ。向こうでは、階段から突き落とされかけたなどという悪質な噂を流すなど、宮部に散々な嫌がらせをした。宮部は言わないが、おそらく突き落とそうとしたのは、逆に菊田の方だったと江間は睨んでいる。
こっちに来てからもしつこく宮部に絡み続けて、最後にはイェリカ・ローダのところに置き去りにした。挙げ句、助けに行った江間が戻らなかったことも、宮部のせいにしていた、あの女だ。
『――いらない、情報だけでいい』
無性に腹が立った。夕闇の森の中、血まみれの宮部を見た時の恐怖と怒りが蘇って、押し殺したような声になる。
あんなのはもうごめんだ。助け合いができないどころじゃない、宮部の命を危険にさらす、あいつは、あいつらは、いらない。
「……江間?」
目をまん丸にして見上げてくる宮部を、責めるような目で見てしまう。
諦めていたのに、側にいられるようになった。手を伸ばして、守ることもできるようになった。もう傷つけたくない。傷つけさせたくない。絶対に、絶対に失えない――。
『……連れ出すにせよ、どのみちすぐには無理だ』
『あ、ええと、そこ、は承知していますので、可能ならで』
『期待していないことを、“とりあえず”で言うな』
ムスッとしたシャツェランへと返事をし、宮部は改めて江間に目を向けてきた。戸惑ったようなその顔を、江間はあからさまに睨みつける。
『お前たち、うまくいっていないのだろう? 婚約しているという割に、随分とぎこちない』
「……」
江間がシャツェランへと鋭く視線を走らせれば、彼は含みのある笑いを見せた。
『困ったことがあるならいつでも言ってこい、ア、ミヤベ』
『恐れ入ります』
なんで宮部限定なんだよ、とムッとする江間とは対照的に、宮部は江間に対して眉をひそめたまま、さらりと流した。
『本気で言っている』
真剣な声に目を見開く。宮部も気づいたらしい、シャツェランへと顔を向けた。
『お前が助けを望むなら叶える、必ず――』
自信と尊大さに満ちたいつもの様子はなく、何かを請うかのような顔をしているシャツェランに、江間は呼吸を止めた。
閉館を告げる蔵書師の声が、棟内に響いた。いつの間にか夕日は消えて、薄暮が上から降りてきている。
「……」
周囲が菫色に染まる中、シャツェランと見つめ合う宮部の表情の動きが、スローモーションのように見えた。何か言わなくては、と思うのに、喉が凍りついたようになって声が出ない。
『…………白けた顔をしているように見えるのは、気のせいか?』
『ご随意に』
『っ、お、まえは……っ、無礼にもほどがあるだろうがっ』
『心外です、恭順を示したのに』
『人がせっかく、』
『寛大なお言葉、ありがたく拝聴いたしました』
『っ』
あくまで聞いただけで受け取る気もないらしい。
冷めた目つきどころか、微妙に嫌そうにシャツェランを眺める宮部の様子に、江間は安堵を吐きだす。同時に、頬をひくつかせて絶句する王弟に同情を覚えた。
(あのセリフを、この顔の、王子の地位にある人間に言われて、あの反応――可愛げがないとか不愛想とかいうレベルの話じゃないだろ……)
自分の趣味を疑いたくなるのと同時に、他人事じゃない、と突き付けられた気がして、江間も顔をひきつらせた。