19-6.稀人と土蟲(江間)
翌日――。
夕刻のメゼル城の書物棟は、高窓から西日が射しこんで、内部が淡い金色に染まっていた。
「……」
メモを片手に宮部が背伸びして、書架の上部にある本を取ろうとしている。光の中で彼女の姿は、浮き上がって見えた。
誰かを呼べばいいのに、彼女は視線を落とし、周りをきょろきょろと見渡す。踏み台を探しているのだろう。
(人に頼り慣れてないんだよな……)
その不器用さが愛しくも悲しい。
見つからないよう気配を殺して、背後から近づく。
そっと肩に左手を置くと、宮部が息をのむ音が耳に届いて、江間は口角をあげた。そのまま背伸びし、頭上に右手を伸ばす。
「これか」
「……ありがとう」
宮部が受け取った本を抱え込みながら身を固くしたのを見て、複雑な気分になる。意識されるようになったのは嬉しい。けど、警戒にまでなるのは不本意だ。
「それ、何が書かれてるんだ?」
やりにくいな、と苦笑を零し、宮部の緊張を解こうと、話を振った。
「神話。イェリカ・ローダが生まれた経緯が書いてあるってリカルィデが。最近あちこちで被害が増えているというのを気にしているみたいで、探しておいてって頼まれたの。あの子、今日は先に帰ったから」
「ああ、オルゲィんち、チシュアのところに泊まりに行くって言ってたからな」
「……」
ピキリと音でも立ちそうな不自然さで、宮部が固まった。半歩ほどさりげなく離れたのは気に入らないが、前は全くの反応なしだったことを考えると、進歩……だと思うことにする。
「急に決まったらしい。明後日神殿に発ったら、今度はいつ会えるかわからないってのもあるし、前回のお泊り会、俺のせいで台無しになったからな」
自嘲気味に言ってみせながら、江間は一歩分距離を詰めた。
「っ、江間のせいじゃない」
実は人のいい宮部は、江間が自分を責めていると思ったのだろう。フォローに気を取られたらしく、江間が目論見通り半歩分距離を縮めたことに気付かない。
その隙に自由な方の手を握った。宮部が息を殺していることに気づいていながら、江間は素知らぬ顔で笑いかけた。
目を見開いた彼女が、一呼吸おいて顔を伏せる。金色の光を受けた耳が、赤と混ざってオレンジ色に染まった。
「……」
さらに踏み出して、残りの距離をゼロにしながら、腰に右手を伸ばした。そして、上を向かせようと、左手を顎にかける――。
『イェリカ・ローダの生態なら、こっちも役に立つ』
「……」
背後の書架の影から、自分と同じくらい身長の金髪が姿を現して、江間は天を仰いだ。
『……財務司長と内務処長、第三師団長が探しておいででしたが? 大人気ですね』
肩越しに振り返ると、近寄ってくるシャツェランに半眼を向けた。
『あー。エマ、お前、文字を覚えろ。そうしたら、代理官にでもして、お前に仕事を分けてやる』
『ダイリカンが何かはわかりませんが、そう聞いたら、なおのこと勉強するわけないですね』
『怠惰はよくない。神殿に行くまでの間、昼夜問わず付きっ切りで指導してやろう』
『道中、各地の領主の、歓待という名の見合いで、予定が詰まっていると聞きました。お相手の皆さまから恨みを買いたくないので、遠慮いたします』
『……ばらしたのはシドアードだな。あいつめ』
そう言いながら、シャツェランはさりげなく宮部に近づくと、『ほら』と持っていた本を手渡した。
『……ありがとうございます』
妙に距離が近い。それより気に入らないのは、シャツェランの表情だ。微妙に緊張しているように見える。
宮部が自分へと心持ち身をずらしてきたことで、江間は苛立ちを何とか抑えた。
『霧が増えて、活動的になるのはイェリカ・ローダだけじゃない。土蟲というのがいて、霧がよく出る年の翌年に大量発生して、凶作・飢饉をもたらす』
それを予見していたかのように、シャツェランは持っていたもう一冊のページをめくった。
宮部はそれに意識を取られたのだろう、シャツェランが再び距離を詰めたことに、今度は気付かない。
『どれ?』
『……見ても読めないんだろうが』
『それは宮部も一緒でしょう』
二人の間に江間が身を割り入れれば、シャツェランが嫌そうな顔で睨んでくる。
それににこりと笑い返せば、シャツェランも『では、やはり文字を勉強するか?』とにこりと笑い返してきた。
人のことをあまり言えないという自覚はあるが、こいつも相当いい性格をしている。
『いや、今読んでください』
が、江間と王弟の間に漂う空気を無視し、愛想笑いの一つも浮かべないまま、領主兼王子に読み聞かせろと指図する宮部の神経が一番強かった。
『以前、セゼンジュ食料司長が、蟲のせいで今年のシガは厳しいかもと仰っていたけど、多分この件だ。まだ詳しく聞けていないんだ』
『あのおっさん、あれから帰ってきてないのかよ……』
彼女のモードが完全に切り替わったことを察知して、江間は『土蟲の性質は?』とシャツェランに訊ねる。
『シガなどの土中の作物や根につく、ありふれた虫だ。ただ大発生する年は、それが集団で地上に出てきて移動し、行く先の植物を枯死させていく』
『つまり普段からいるのと、飢饉の時のとで違う……その二つは、本当に同じ種なのかな?』
『「遺伝的に」という意味か? ……「蝗害」をイメージしてる?』
『「バッタ」もそうじゃなかった? 「遺伝子」が同じでも環境によって、特徴が「発現」したりしなかったりで、飛ぶ能力や色なんかが違うとかだったような……』
イデンテキニ、コウガイ、バッタ、と口の中で繰り返しているシャツェランの眉間にしわが寄っていく。
江間と話しながら、宮部はその彼へと一瞬視線を投げた。考えていることは江間と一緒だろう。
シャツェランは、二人の会話に散らばる日本語を正確に嗅ぎ分けている。
(まあ、当面は問題ないけどな)
彼が江間と宮部の正体に気付いているのはもう明らかだ。問題はなぜ黙っているかではなく、いつどういう形でその事実を突きつけてくるか、だ。
おそらく一番効果的なタイミングと方法を狙っているのだろう。自分ならば確実にそうする、と江間は口の右端を吊り上げた。
――ならば、そこを逆手に取らない理由はない。
『じゃあ、まあ、その辺を調べてみよう。それで……その土蟲が過去の稀人の処刑に関わっているということでいいですか?』
「……」
江間がシャツェランに向けた言葉に、宮部が息を止めた。
『……まあな。稀人の来訪と土蟲による飢饉は、大抵セットだからな。その責任を押し付けられて、ということがあるにはあったようだ。昨年は疫病も流行ったし、災難だな、今回の“バルドゥーバの稀人は”』
静かに応じたシャツェランの横顔に、赤みを増した夕日があたる。
右半分は燃えたように輝き、左半分は影の黒――表情がひどく読みづらい。