19-2.鎹(江間)
「緊張した…」
「よく頑張った」
本塔の階段を下り、中庭に出たところで、リカルィデは分かりやすく脱力した。宮部が柔らかく笑いながら、彼女をねぎらう。
「ねえ、ゼイギャク、どう思う? うまくやったような気もするけど、全部ばれてるような気もするんだ……」
「私もわからない。けど、確証のないことは、口にしない人だと思う」
「……気にしてもしょうがないよね。私は私のやるべきことをやろう」
「そうだね」
ひどく優しい顔で、宮部はリカルィデの頬を撫でる。江間はその顔をじっと見つめた。
「だけど、びっくりした、シドアード兵士団長を護衛にって」
「護衛というより多分監視だ。王弟は私たちが稀人だともう確信していて、今後はバルドゥーバへの対抗手段として扱うつもりなんだと思う」
「……」
(稀人だから? だから、“失うわけにはいかない”?)
江間は、王弟が宮部に向けていた視線を思い返す。あの視線には、嫌というほど覚えがある――。
「……マ、エマってば!」
「っ、あー、と、悪い、なんだった?」
名を呼ばれて、慌てて意識を二人に戻せば、宮部がひどく不安げな顔で自分を見ていることに気付いた。
明年のデートの時に倒れて以来、彼女はこんな顔をすることが増えた。
「すまん、ちょっと考え事してた」
心配されていることが伝わってきて、江間は目元を緩めると、衝動のまま宮部に手を伸ばす。
「……またやってる」
半眼を向けてきたリカルィデは、スルーする。
「タグィロに用があるから、先に行っていて」
が、ついっと、宮部が圏外に出、腕が空振った。
「後でヒュリェルの店で。気を付けてね」
「……待て。また狙われるかもって言われてるだろ」
「誰かに頼んで同行してもらうから平気。ヒュリェルの店でリカルィデと待ち合わせって言えば、付き合ってくれるグルドザはいっぱいいる」
「それはそうかもしれないけど、」
「すぐ出発なんだから、手分けして準備するほうが早い。じゃあまた後で」
目を合わせようとしないまま口早に、しかも宮部には珍しく多弁に語って踵を返していくのを、江間は半ば呆然と見送った。
「……あのさ、ここのところちょっと思ってるんだけど」
「言うな」
「やっぱりエマも感じてるんだ、ミヤベに避けられてるって」
「……」
止めたのに結局形になった言葉に、江間は顔を歪めた。
宮部の様子がおかしいと江間が気付いたのは、倒れた翌々日に城から家に帰る許可が出てからだ。
この世界に来て徐々に距離を縮めて、簡単に抱きしめられる場所に居られるようになっていたのに、唇に触れる権利もようやく手に入れたと思ったのに、手を伸ばせばギリギリ届く距離に逆戻りしていた。それもいざ触れようとすれば、さっきのように逃げられる。
(まただ――)
近づいたと思う度に、遠ざかっていった過去に重なって、奥歯がギリっと音を立てた。
「何やったの、エマ」
「……やったの、前提かよ」
「うん。だって、ミヤベもエマのこと好きだもん」
「……」
あまりにあっさりと言われて、絶望の淵にまた足を突っ込んだような気分になっていた江間は、リカルィデの顔をまじまじと見つめた。
冬の澄んだ空気の中、日差しを受けて、元々白い顔が輝いて見える。
「エマももう知っているでしょう?」
宮部に似ている。そう感じたことは、一度や二度じゃない。顔貌じゃなくて目が似ているのだ。まっすぐ見つめられると心が凪ぐ。
「……ああ。知ってる」
江間は息を吐き出すと、頷いた。
「おかしいな。良い感じだったし、チシュアが、二人きりで過ごさせてみたら、できれば夜もって言ってたんだけど……」
「はあ? お前ら、そんなこと考えてたのかっ?」
「? 嬉しくなかった?」
「い、や、嬉しくないとかじゃ」
正直に言えば、色々考えないわけじゃなかった。けど、こいつら、一体何をどこまで考えてやってるんだ……?
“女子怖い”と言う言葉が浮かんできて、江間は顔を引きつらせる。
「エマが倒れるまでは、仲良しだったんだよね?」
「……」
「お揃いの腕輪、してたもん」
「……」
何にも言わないから、気付いてないのかと思ってたのに。
「口移しで水を飲ませてくれたのは、ええと、病気の人の世話をするという言葉……そうだ、看護だ。うん、完全に看護だよね? 殿下にはいかにも好き同士の証拠みたいに言ってたけど……」
憐れむような目で見られて、江間は「看護のためのだけじゃない」とつい答えてしまう。
(というか、こいつ、シャツェランに怯えてるかと思ったのに、しっかり聞いてやがる……)
「それなのに、避けられてるの……」
憐れみが深まって、江間はついに呻き声をあげた。
「……」
眉間にしわを寄せ、江間はガシガシと頭を掻きむしった。イライラする。
初めて約束して、二人で出かけた。婚約の証として揃いの腕輪を買って、一緒に食事をして、キスして、受け入れてくれた。
(普通、それで終わりじゃないのかよ、あいつは本当に訳が分からない、どこまでもめんどくさい。……いや、待て、ひょっとして、全部俺とリカルィデの勘違いとか…? 実は宮部は、あの空気に流されただけで、俺のことを、俺と同じ意味では想っていない…?)
「私のやったこと、ミヤベにとっては余計なことだったのかも」
冷や汗を流し始めていた江間は、リカルィデの沈んだ声に意識を戻した。彼女はいつの間にか立ち止まり、後方にいて、俯いていた。
「リカルィデ……?」
「怖くなるんだ、自分には絶対に縁がないと思っていたものが、目の前にあると」
幸せを感じれば感じるほど、どんどんどんどん怖くなっていくんだ――小さな、小さな呟きが、江間の耳に届いた。
「ふとした瞬間に、何が現実かわからなくなって、今が夢で、起きたら元通りなんじゃないかと思うんだ。なんとか現実だって受け入れられるようになっても、どうせいつかなくなるって思う。で、気付いたら、今の生活がなくなる理由を探してる。元に戻りたいわけじゃ絶対にないのに、なんでだろう、そんなことをしてないと落ち着かないんだよ……」
自嘲しているかのような、泣き出すかのような顔で、リカルィデは続ける。
「ミヤベも同じかも。だってミヤベも、ずっと一人だったんでしょう?」
「……」
家族にも友人にも環境にも恵まれてきた江間には、ない発想だった。
こういう時、自分はどこまで宮部を理解できるのだろう、と思う。何年も見てきたはずなのに、出会って一年も経っていないリカルィデの方が、多分よほど宮部を分かっている。
(ああ、でも、一つだけ共感できることがある……)
「だから、怒ったり苛ついたりしないであげて」
「……しないさ」
江間はリカルィデに歩み寄ると、頭をポンポンと叩いた。
「俺も実を言うと、信じられなくなる。宮部が普通に俺と話して、笑ってくれること」
「……話せなかったの?」
「俺、こっちで一緒に行動するようになるまで、宮部に本気で避けられてたからな。今の王弟なんか、目じゃないぐらい」
「嘘……」
リカルィデにただ苦笑を返した。
「本当だ。偶に、屋上にあがって、話すぐらいがせいぜいだった」
誰も知らないそこだけが、彼女とまともに向き合える唯一の場所で、それ以外では目も合わせようとしてくれなかった。その場所すらも菊田のせいで失って、ようやく得たチャンスがこの世界に来ることになった、あの見舞いだった。あれも本当なら、二人きりのはずだったのだが……。
「こっちと違って、むこうじゃ心配してくれる奴も、相談に乗ってくれる奴もいなかったし、いい加減諦めるべきだとわかってたのに、それもできなくて……マジでしんどかった」
「あ、こっちではそんな人、できたんだ」
ほっとした顔を見せたリカルィデに、江間は小さく笑う。
惑いの森で、彼女を連れ出そうと決めた時のことを思い出す。
宮部が幼い“王子”を気にかけているのは、すぐに分かった。バルドゥーバ兵に追い詰められていく“彼”を見、彼女がひどく辛そうな顔をしていたからこそ、江間は、危険を承知で「連れて行こう」と口にした。
結果、こちらの世界の知識を得るという、当初の口実をはるかに超えて、助けられている。
「お前」
「……私?」
「おう」
「役、に、立ててる……?」
「本気で助かってる。こっちの知識云々もあるけど、お前の存在自体に救われてんの、俺ら」
「存在……」
呆気に取られていたリカルィデの顔が、くしゃりと歪んだ。泣きそうになりつつも笑いを零したのを見、江間は大きな手で、まだ小さい頭を撫でる。
それに隠れて、息を吐き出した。
焦ってはいけないということだろう。だが――
「……」
江間は背後を振り返り、シャツェランの宮部を見る目を思い返して、眉根を寄せた。