19-1.ゼイギャク・ジルドグッザ
生中の期二日。
『エマと申します。よろしくお願いいたします』
『ミヤベです』
『……リカルィデと申します。お会いできて光栄です』
メゼル城の王弟シャツェランの執務室で、郁と江間、そしてリカルィデは、約十か月ぶりにゼイギャク・ジルドグッザに再会した。
『ゼイギャク・ジルドグッザだ』
この国で英雄と称えられ、広大なカードルテ領の領主でもあるその老人は、静かにそう名乗った。
夜の惑いの森で巨人のように見えた彼は、明るい日の光の中で見れば、郁より少し大きいだけの、比較的小柄な体型をしていた。だが、彼から漂う気配は、精神と肉体の両方を妥協なく鍛えようとする人特有のもので、郁も江間もそれぞれ自分の祖父を思い出す。
豊かな白髪はグルドザにしても短めで、同じく白い眉の下の眼は、アメジストを思わせる紫でひどく鋭い。その目でじっと顔を見つめられて、江間はいつものように笑顔に少しの疑問を、郁は無表情を返す。
だが、リカルィデだけは緊張を隠せないようだった。
十か月前、コントゥシャ大神殿の勧めと、バルドゥーバから指示を受けた王妃の命令で、リカルィデは稀人の応接使となり、ほとんど出たことがない城から引き出されたという。
それから二日間乗ったことのないホダに揺られ、続く五日間、惑いの森をひたすら歩いた、と。何一つまともにできないリカルィデ――当時はアーシャルだったが――を、文句も言わずに助けてくれたのが、ゼイギャクだそうだ。
サチコをのぞけば、リカルィデと接した時間がおそらく一番長い人だ。リカルィデは自分があのアーシャルだと気づかれるのでは、と怯えていた。
『……』
リカルィデは固い顔をしつつも、必死に顔を上げ、挨拶の相手であるゼイギャクを見つめている。対するゼイギャクの紫の瞳には、なんの感情も浮かんでいないようだった。
『話していたのが、その者たちだ』
『いないところで話題にしていただけるなんて光栄ですね。どんなお話かお伺いしても?』
ゼイギャクの向こう側、湖の見える大きな窓の前の執務机に座るシャツェランから、ゼイギャクに向けて声がかかった。
物言いと言い、その表情と言い、意味深だが、冷や汗を流すリカルィデとは対照的に、江間の調子は変わらない。
『お前たちが稀人ではないかという話だ』
シャツェランは天気の話でもするかのような気楽さでそう言い、『ゼイギャクと出会ったことがあるだろう』と、江間と郁に口の端だけで笑いかけた。江間が眉を跳ね上げ、リカルィデが息を止める。
『――だそうです』
そんな二人を無視し、郁は無表情にゼイギャクに向き直った。
確証があるわけではないが、おそらく大丈夫だという気がしていた。
惑いの森で蛾に似た巨大なイェリカ・ローダに襲われていた彼は、出血と発炎筒の光でほとんど目が見えていなかったはずだ。彼が祖父と同じディケセルの誇りあるグルドザであるならば、確信を持てないことは口にしない。
(もっとも――そうでないならしらばっくれるまでだ)
『……』
鋭い眼光を静かに見つめ返す。沈黙が不自然に長く感じられた。
『……話と言えば、』
不意にゼイギャクの視線が郁から逸れた。背後を向く。
郁を見て面白くなさそうな顔をしていたシャツェランが、目を瞬かせた。
『リバル村に行くというのは?』
『……王都に行くついでだ』
『半日、逆方向に行くことをついでとは申しません』
眉をひそめたシャツェランにかまわず、『王都をご訪問なさる折、ついでに神殿に立ち寄るのであれば、理解いたします。が、リバルは無しです』とゼイギャクは断言する。
『……わかった』
内務処長のオルゲィや将軍が諫めても聞き入れようとしなかったのに、ゼイギャクに言われると引くらしい。不満そうにしながらも、シャツェランはそれ以上抵抗しようとしなかった。
郁が江間を見れば、彼も意外そうな、おもしろいものを見るような顔を返してきた。怯えたり焦ったりする様子どころか、緊張すら見当たらない。相変わらずいい神経をしている。
『お嬢さん』
対照的に、ゼイギャクに話しかけられたリカルィデは、全身を震わせた。
自分自身のことを上回る緊張を覚えて、郁はそれとわからないように彼らを注視する。
『あなたはここに残りなさい』
息を止めたリカルィデに、ゼイギャクは『危険だ』と続ける。
威厳のある声だった。けれど、どこか温かみを含んでいるようにも聞こえる。
ゼイギャクと見つめ合ったまま、返事をしないリカルィデに、助け舟を出そうと口を開いた郁は、江間に隣り合う手を握られて留まる。
『……行きます』
リカルィデがようやく発した声は、震えていたけれど、はっきりしていた。
『私、は……私のできることをしたい、です。できないことも多い。けど、何もできないからと、ただ諦めていたら、何も変わらないとわかりました』
リカルィデは、まっすぐにゼイギャクを見つめる。
『私も、誰かの、みんなの役に立ちたい。約束を果たしたい』
それから郁と江間を見た。決意の見える顔に、郁は目を見開く。そして、微笑むと、まだ小さい金色の頭に手を伸ばした。
『いやもう、マジでいい子に育ってきた』
『っ、エエエエマ……』
『……あのな』
江間が郁ごとリカルィデをガバっと抱きしめる。ワタワタするリカルィデにかまわず、お前は父親か、という台詞を吐いた彼に、郁は半眼を向け、その頭を押し返した。
江間は笑いながら、郁とリカルィデを解放すると、ゼイギャクに向き直る。
『自分たちの身は自分たちで守るよう、努めます』
そして、真剣な顔で背筋をすっと正し、『リカルィデの同道をお許しください』と美しい所作で頭を下げた。
『……承知した』
ゼイギャクはもう一度リカルィデに目を向け、頷く。
郁はその顔を注意深く観察した。
『では、まずは共に大神殿に行くとしよう。その後殿下はセルの王城へ、貴殿らはリバル村に行かれよ。貴殿らの警護については、』
『シドアードをつけ――』
『必要ありません』
ゼイギャクに対するシャツェランの返答を、郁は考えるより先にさえぎった。
シドアードとは、例の第一師団筆頭兵士団長だ。シャツェランと同じく、ゼイギャクと師弟にあたり、メゼルディセルで今最強のグルドザだと聞いた。
『……不満か?』
狙われるというのであれば、シャツェランの危険は、江間や郁の比ではないはずだ。
明らかにむっとした顔を見せたシャツェランに、妙に自分の安全に楽観的なのは、昔と変わらないのだと悟る。
今、彼が倒れれば? この国はあの忌まわしいバルドゥーバに飲み込まれるだろう。そして、多くの人が人生を壊される。
(個人的な好き嫌いはともかく、良い為政者ではあると見直したのに)
郁は無言のまま、シャツェランに軽蔑の視線を向けた。
『……相変わらず可愛げがないな』
『失礼いたしました。では、身に余る光栄ですので、辞退申し上げます、ということで』
棒読みで返す郁を、シャツェランは忌々しそうに見る。
ため息を吐いた江間が、『それぐらいにしておけ、宮部』と割り入ってきた。
『シドアード兵士団長は、護衛としても優れた方だと伺っておりますので、私共より殿下に、と』
仲裁にシャツェランは、ふんと鼻を鳴らした。
『シドアードはお前たちにつける。決定だ』
まだ言うか、と睨む郁から、シャツェランは嫌そうに顔を背けた。
『お前たちを失うわけにはいかない――理解しろ』
話は以上だ、との声を合図に、三人は王弟の執務室を後にした。