18-6.回復
メゼル湖の向こうの地平線に広がる、漆黒の惑いの森の端が白んできた。
先ほどまで頑張っていたリカルィデがついに睡魔に負け、江間のベッドに突っ伏した。
郁は一緒に座っていた長椅子に、彼女の身を横たえると、自分と江間の外套を重ねてかける。
そして自分用に椅子を持って来て、江間の枕元に再び座った。
「……」
明るくなってきた外の光で見る江間の顔色は、少しマシになっているように思う。ただの願望ではないことを確認したくて、郁は穴が開くのではないかという熱心さで彼を見つめる。
彼の瞼にかかった前髪を指でかき上げた。その指をそのまま頭へと滑らせる。何度かそれを繰り返すうちに、その仕草が、祖父が良くやってくれたものと同じことに気付く。
神に祈ろうとは思わない。でも、祖父母には祈ってしまう。どうか、どうか彼を助けて欲しい、自分の代わりに――。
「……」
祈りが通じたかのようだった。江間がうっすらと目を開いた。
「っ、江間、わかる……?」
かけた声は無様なほど震えている。
微かに動いた唇の動きを何とか読み取って、郁は江間の身を起こした。
意識が少しはっきりしたのだろう、夜よりも軽い。だが、経口補水液を入れたコップを口元に持っていっても、まだうまく飲めない。
未だにぼうっとしている江間の苦しそうな呼吸を確認して、郁は息を吐き出すと、コップの中の液体を自ら口にした。
左手で彼の後頭部を支え、右手を彼の左頬にあてる。彼の目を見ないように、顔をできるだけ伏せ、顎の方から唇を寄せた。
触れた先の感触は、少しかさついている。
液体が隙間から零れ落ちないように、唇を少しだけ強く押し付ける。そして、唇と頬の緊張を緩める。
その動作を何度か繰り返すうちに、左腕に感じていた重みが不意に消えた。
「っ」
後頭部を抑えられた。唇が口内の液体と一緒に吸われていく。
液体がなくなって、唇が離れる。と思ったのに、角度が変わっただけで、再び強く結びついた。
「ん、」
呼吸がうまくできない。苦しくて、重なる唇の合間から何とか息を吸えば、腰も捕らえられた。ぐっと抱き寄せられて、逃げられなくなる。
何かを確かめるかのように、唇を何度もついばまれる。そのたびにぞくぞくと全身が震え、体から力が抜けていく。
「っ」
態勢が入れ替わり、江間が覆いかぶさってきた。
なのに、唇は解放されない。触れてはついばみ、少し角度を変えて、また触れる。その度に鼻が触れ合う。口内に熱い塊が入ってきた。驚いて身を離そうとするが、口蓋を舌で撫でられる感触に意識を囚われ、ままならない。
舌が絡めとられ、湿った水音が鼓膜を打つ。逃げようとするのに、宥めるように親指で頬を撫でられて、うまく行かない。
永遠に続くかのように思えた時間が終わった。郁は空気を求めて、荒い呼吸を繰り返す。
すぐ目の前にあった存在が、ようやく焦点が結べる位置まで離れ、黒い瞳と視線が交わった。
――いつものように郁を見ている。
「……っ」
それを確認した瞬間、ぽろっと雫が目から零れ落ちた。
「っ」
目を見開き、音を立てるかのように固まった江間が、あたふたと「わ、悪い、マジでごめん、寝ぼけてて夢かと、いや、その後、は、その、ごめん、調子に乗った、泣かないでくれ、宮部……」と謝罪を繰り返す。
「ほんとごめん」
「ぅっ、……ひっ」
そんなつもりはないのに、涙が次から次へとあふれ出て止まらない。泣き声をあげるのだけは嫌で口を閉じたのに、そこが震え出し、気管へと伝わっていく。
「い、生き、て、よか、った……っく、」
「……」
唇を引き結んだ江間は、ぎゅっと眉根を寄せると、再び郁を抱きしめた。嗚咽に身を震わせながら、郁も彼にすがりつく。
「……悪い、心配させた」
囁き声に、きつい拘束の中で、必死で首を横に振った。
謝るべきは自分だ。本当にごめん、ちゃんとすべきことを、約束したことをできなかった、江間をみすみす危険にさらした。
額に唇が押し当てられ、さらに強く抱きしめられる。「なあ、宮部」とかすれた声が、直接鼓膜に届く。
「お前、俺のこと好きだろ」
「……っ、っ、き、ら……」
「――好きって答えしか受け付けない」
「ム、っカつ……っ」
本当にどこまでもムカつく――
そう思うのに、そう言ってやりたいのに、しゃっくりが出て、うまく声にならない。
頬と顎に大きな手があたり、上を向かされる。きっとぐしゃぐしゃの顔をしているのに、江間の唇が、唇に、頬に、鼻に、瞼に、額に降る。
「……お前に泣かれると本気できつい」
困ったように眉根を寄せた江間に、また抱きしめられる。
押し付けられた全身に、江間の心臓の拍動が伝わってくる。
――生きてる。ちゃんと、生きてる。
「う、ぅ…」
そう実感したら、ますます涙が止まらなくなった。顔を押し付けている江間の服のしみが、どんどん広がっていく。
もう二度とこっちにいたい、いて欲しいなんて、わがままな考えを持ったりしない。だから、無事向こうに、彼だけでも絶対に向こうに――
「泣かないでくれ、もう大丈夫だから」
緩やかに頭を撫でられ、郁はその感触に意識を委ねた。
あれから二刻――二時間半ほど、郁は江間の腕に抱きしめられたまま、寝入ってしまった。
「エマ? ミヤベ?」
「ん……」
リカルィデの声に、先に郁が起き、次いで江間が起きる。その瞬間、江間はリカルィデにも抱きつかれ、わんわん泣かれた。
中々の音だったせいで、部屋の外にも伝わったらしく、扉の前で待機していてくれたらしい、内務処付きのグルドザ、コルトナが飛び込んできた。
そして、江間が起き上がっているのを見て、涙目で『っ、よかった!』と叫ぶなり、踵を返していった。
そうして、真っ先にやって来たのは――、
『具合はどうだ? 気分は?』
この城の主、シャツェランだった。
『すっかり元通りです。おわさがせしました』
『それを言うならお騒がせだ』
そう言いながら、シャツェランは息を吐き出し、明らかな安堵を顔に浮かべた。
そして、礼をとろうとした江間を『昨日は意識がなかったんだ、そのままでいい』と止め、ずかずかとベッドに歩み寄ってくる。
『……』
郁とは別の意味で王弟を苦手としているリカルィデが、江間の影に隠れた。
息をひそめているくせに、江間から離れようとはしないのは、よほど不安だったからだろう。
郁は苦笑しながら、江間の脇の椅子をシャツェランに譲ろうと立ち上がった。ついでに、
(江間用の軽食を頼もう、できればリカルィデの分も)
と思いついて、シャツェランに向けて両こぶしを胸の前で突き合わせる、日本での会釈のあたる仕草をして、彼とすれ違う。
「?」
だが、行き過ぎたと思った瞬間、後ろから腕を引かれた。
『……泣いたのか?』
シャツェランの綺麗な形の目に収まる、透き通った青い目が顔を覗き込んでくる。そこにあるのは驚きと……心配、に見える。
「……」
郁は目を丸くして固まった。すると、シャツェランは眉間にしわを寄せて、頬に手を伸ばしてきた。
≪なんだ、今日は元気がないな。おもしろくない。……どうした≫
霧の中で不機嫌そうに、ぶっきらぼうに手を伸ばしてきた、あの頃と寸分違わない仕草に、思わずシャツェランの顔を凝視する。顔に届く寸前で、その腕が逡巡をはらんで止まるのも同じ。
『泣くことがあるのか……』
が――今現在がどうしようもなく不快なことは、間違いない。
続いた、意外そうなシャツェランの声に、郁は半眼になると、前腕で下からその腕を弾く。
『申し訳ございません、手が滑りました』
そう冷たく呟き、さっさと部屋を出ていった。