18-5.毒でない毒
「……私のせいだ」
突然、横のリカルィデが泣き出した。
「帰ってほしくないって思ったんだ、ずっとこっちで一緒にいて欲しいって……っ」
「っ」
ズットコッチデイッショニ――心臓を射抜かれたような衝撃が走って、呼吸が止まった。
「サチコの時もそうだった、そしたら、死んじゃったんだ、私のせいだ……っ」
「……」
青い瞳を収めた大粒のアーモンドアイから、ぼろぼろと真珠のような涙がこぼれ出す。
「ミヤベとエマ、が来て、城から出、れて、と、友達もで、て、ま、まい、ちた、たの、しくて……ごめ、ごめんなさい、ごめんな、い、ごめ、なさ、い」
顔がくしゃくしゃにして、リカルィデはわあわあと声をあげて泣き出した。
これほどまでに感情を露にしたことのなかったリカルィデの大声にも、江間は反応しない。
「っ、違う、リカルィデ、違うから、そんな風に言わないで、お願いだから」
つられて泣き出しそうになるのを必死で堪え、郁はリカルィデを抱きしめる。
もし、リカルィデのそれが原因で目を覚まさないのだとすれば、郁も同罪、いや、ずっと罪深い。同じ世界から来たくせに、帰すと誓ったくせに、あんなに助けてもらったくせに、いつの間にか根付いた裏切りの種を、心の中で育てていった。
≪自分がすべきであると思うことをしなさい≫
祖父のはしばみ色の瞳を思い出して、後悔と恥で消えたくなる。
「……返そう、絶対に」
小さい体を抱きしめながら、郁は自分に言い聞かせるように呟く。返そう、江間をあっちの世界へ。彼だけは絶対に――。
「リカルィデのせいじゃない。誰かの思いで、人は病気になったりしない。でも、江間は返そう。彼が一番こっちの病気に弱いから」
「……」
しゃっくりをあげながら、潤んだ青い目が郁を捉える。
「人の体には、病気を引き起こすものと戦う仕組みがある。これまで戦ってきた病気の記録も残されるから、次に同じ病気と戦う時は、前より強い。でもこっちの病気と戦ってきた記録が、私たちにはない」
「江間は私よりさらに厳しいの」と続ければ、まだ泣いているのに、話を聞くためにリカルィデはしゃっくりを抑えようとする。
「ある病気に対して、生まれつき強い人と弱い人がいて、その強い・弱いは親子で受け継がれていく。でも、完全に向こうの江間は、こっちの病気に強い遺伝子が……」
「イデンシ?」
「遺伝子、は、」
なんだろう、何かが引っ掛かった。
(遺伝子が関係するのは病気、感染症……だけじゃない……)
≪郁、これ、ニラじゃないわ……。っ、何ともない? コトゥド、あなたは? ……本当に?≫
祖母の桜子が外出していた時のことだ。彼女の不在の間に、幼かった郁は祖父母をびっくりさせようと手料理を作って、祖父のコトゥドにふるまい、帰ってきた祖母を迎えた。そして、その料理を目の前に出した瞬間、いつも穏やかに笑っている彼女は血相を変えた。
その時郁がニラだと思って裏の畑から摘み、使ったのは水仙――一般に毒とされる植物だった。
「……ミヤベ?」
郁はもう一度江間に向き直った。
部屋の中央に置かれたテーブルには、火鉢ゴーゴが埋め込まれていて、そこに掛けられた薬缶は、変わらず湯気と音を立てている。
郁は江間の緩い癖のある黒髪を押し上げて、もう一度額に手を当てる。念のため、グックルスが持って来てくれた試作品の体温計で計ってみたが、三十六度ちょっとくらいで、郁とほぼ同じだ。
あまりに熱が高くなるようなら冷やそうと様子を見ていたけれど、ずっと熱は出ていない。顔色は悪く、呼吸が速い。脈は、と思って、手首を取った瞬間、自分の手と同じ腕輪があるのを見て、郁は顔を大きく歪めた。
「ミヤベ? なにしてるんだ?」
「……」
脈が速いことを確認し、郁は次に、右手の親指と人差し指で江間の瞼を開く。瞳孔が大きい。手元の燭台を取って近づけたが、あまり変わらない。
「病気じゃなくて、毒、かも……」
多分、江間だけがなにかおかしな味がすると言っていた、あの料理だ。郁やこっちの人間には無害で、江間には有害な何かが入っていた……。
「毒って、でも襲われた時怪我してなかったって。あと、医師も何も…」
「襲撃の前の食事に、こっちの人間は大丈夫でも、江間には毒になるものが入っていたんじゃないかと……」
信じてもらえないかもしれないと思ったのに、リカルィデは愕然とした様子で、こっちを見た。
「サチコも、食べたがらないものがいくつかあった…。好き嫌いをしてはダメだと言っていたんだけど、でもサッ茶とか、甘いのに苦いって、気分が悪くなるって…」
「サッ茶? 甘いの? 甘いだけ?」
「ミヤベも苦いの?」
「私は甘いだけじゃなくて苦さも感じる…」
江間は……? 確かサッ茶を飲んだ瞬間は、いつも顔を歪めていた……。
全身から血の気が引いた。
この世界で普通に食べられている物が、江間には毒になるかもしれない。それはひどく恐ろしいことだった。
この世界には、向こうのように体の状態を細かく知る方法がない。だから、何が有害で何が無害かの判断は、知識に頼るしかない。しかも、有害な何かを摂取してしまった時、対処療法的に使える薬も技術も限られている。
そんな中で、この世界の経験に基づいた知識すら、江間には役に立たないとしたら?
「……」
ごくりと音を立てて、口内のたまった唾液を飲み込んだ。
異世界にいる――それがこんなに恐ろしいものだとは思わなかった。
生贄にされるとか、暗殺されるとかわかりやすい脅威だけじゃない。目に見えない脅威が周囲のそこかしこに潜んでいる。
今生きているのは運がいいだけ――自分たち、特に江間はいつ破裂するかわからない時限爆弾を抱えているようなものだ。
現にサチコさんも、その前のアメリカ人も、まだ若かったのに亡くなってしまっている。
「っ」
郁は拳をぎゅっと握りしめ、動揺を抑える。
(今はとにかくできることを――)
そもそもできることなんかほとんどない、という考えが浮かんで来たのを、かぶりを振って振り払う。
「っ、ミヤベっ、今、エマの顔、ちょっと動いたっ」
「っ」
リカルィデが「エマっ、エマっ、わかるっ?」と叫ぶのに合わせるかのように、彼の瞼が微かに動き、眉根が寄った。
「……っ、江間っ」
微かに目を開いて、黒い瞳が郁を捉える。唇が微かに動く。
「……っ」
泣き出しそうになるのをぐっとこらえて、郁はぐったりとしたままの江間の背に腕を差し入れた。腕に力を込め、江間の半身を起こした。
「起こすの? 何するの?」
想像以上に重たくてよろけると、洟をすすりながらも、リカルィデが慌てて手を貸してくれた。
「毒ならとにかく体の外に出してしまわないと……飲ませるから、支えていて」
(本当は輸液ができればいいんだろうけど、でもこの世界では……)
眉根をぎゅっと寄せつつ、江間の乾いた唇の合間へと、先ほどリカルィデが作ってきた液体、経口補水液を流し込んだ。だが、口の端からほとんどがこぼれてしまう。痺れているのかもしれない。
「……」
苦しそうな息の合間で、こちらを見ている彼の目を、敢えて見ないようにすると、郁はその液体を口にする。
そして、口移しで江間に注ぎ込んだ。気管に入ったりしていないこと、零れないことを確認して、ひたすら繰り返す。
ピッチャーに入った液体がなくなる頃、腕にかかる重みが増した。
「エマ? ミヤベ……」
よろけたリカルィデの顔に不安が載り、郁を見上げてくる。
郁は自分の中の動揺を抑え込み、江間の様子を確認しながら、その体を寝台に再度横たえる。
「寝た、んだと思う」
呼吸もましになっている気がするし、さきほどまでのように苦しげな顔でもない。郁は再度江間の手首に指をあて、その数を数えて、息を吐き出す。
「良くなるかな……」
「……」
リカルィデに頷くと、郁は江間の手を両手で握り、そこに額を押し付けた。自分と江間の腕輪の石がほのかに光っている。