音のない世界で・雨の匂いがし始めたとき・煌めく太陽を・賭けた勝負をしました。
「あと何分で太陽が出るか、賭けしよっか」
親友の真由美がそう言ったのに私は少し呆れた半分とそう言い出したことへの興味半分とで小さく息を吐いた。小学校からの付き合いのある彼女はギャンブル好きでもないし、何の意味も無く張り合ってくるタイプではない。だが生まれた興味は、すぐにそういうことかと自分の中で検討が付いてしまったので私、椎香は今度はため息が出てしまった。
「内容は?」
でも真由美には乗っかってしまう。彼女が大好きな親友だからというのもあるが、真由美は自分を傷付けないという絶対的な安心感があるからだ。
「あと10分以内に止んだら、椎が望に今からプロポーズしに行く。30分以内に止んだら、あたしが望にプロポーズしろって焚きつけてくる」
「賭けの意味ある?」
「あるある!」
真由美の言う内容は予測が付いていたが、椎香はやはりかと肩を落とした。公私ともに仕事が充実していつの間にか年齢は32になっている。真由美とはソフトボール部でバッテリーを中学まで務めたのが11か12だったので、かれこれ20年。中学、高校は同じだが短大に進んだ椎香に対し、親友の真由美は祖母の道場を引き継ぎながら高校時代の共通の友人と結婚し、双子を産んで育てている。どちらも比べようが無い人生だ。だけども人生で一番濃い付き合いになったであろう高校時代の友人のほとんどは今も交流があり、一番仲の良いグループ内で交際していた組は、椎香と望を除いてほぼ結婚している。早々に妊娠が分かった麗李と雁は、早い子育てに奔走されながらも双方の家族の手助けもあって仲良く暮らしているし、宮人と結婚した真由美は医学部にいたこともあって少々遅れたが20代のうちに入籍した。ムードメーカーの遍は年上の旭さんと婚約し、演奏家として海外を飛び回り公演に明け暮れる夕二は全員心配していたが、公私ともに支えてくれるパートナーが出来たとの報告もある。
結婚がすべてではない、子育てが全てではないと言われている時代だが、なんとなく高校時代の友人はずっと椎香の目には高校時代のままに映っていた。眩しくてきらきらして、一緒にいるはずだったのに何となく自分は大人になり損ねたような気がして、いつしか高校の時から付き合っている望との結婚を、タスクの一つであるのに底に沈めてしまっている。
真由美が楽しないと死ぬからと、宮人が月に3日出掛けろと言ってくれる彼女の都合の日に合わせて、椎香はいつの間にか有給や休みを楽に取れる職場での実績を作っている。それなのに、何故かままならない日々を過ごしている気がした。
「あのさ、望さ・・・お父さんの選挙だっけ?それは分かってるんだけどもさ」
真由美が不満たらたらに言い出したのはパートナーの悪口だが、望は真由美の友人でもあるので椎香が止めるのもおかしい話だ。友人でパートナーで仲間で、でも人生に責任を取れる相手ではないので真由美は不満しか言えない。でも昔から彼女は椎香のパートナーに文句は付けてこなかった。むしろ真由美が少し荒れた中学時代に、女遊びの激しい先輩と付き合って弄ばれていたのを当時中学2年と相手は高校二年という差で、しかも椎香は150cm台の身長でも一歩も退かずに糾弾して別れさせたこともある。
真由美の見てきた椎香という彼女は、大家族の長女でいつも不在にしがちの両親の代わりに家事もこなしながら勉強も頑張り、運動も率先して来た。肝っ玉母さんだと大人が彼女を揶揄することもあったが、その実頼るという選択肢を持っていないのが、末っ子の真由美から見て辛く見えた。年が離れた兄二人がいる真由美にとって、女の子は特別で女の子に世界は甘いと思っていたのに、小学生の時点で椎香と知り合ってからその幻想は砕け散った。椎香は母親みたいに叱ってきたりしたし、ケンカにもなったけれどどうしても椎香には敵わなくて自分が謝って非を認めてきた。それが正しいのだと自分でも知ってるし、謝ったら本当に許してくれるのが椎香だから。そんな親友が大好きなので、親友が頼れるほどのパートナーを高校時代に見つけたので良かったと思ったのだが、肝心のプロポーズが一切無いのに真由美は苛ついていた。配偶者の宮人に愚痴ると、もしかしたら男同士なので望の肩を持たれるかと思ったが、待たせすぎだよなとあっさり言ってのけたので不満が顕著に形になってきていた。そこで月3日の遊びに行く日だ。医者の卵として大変な日々を送る宮人に悪いからと、最近では1日だけにしているが今日は26日。ひと月の中で二日目のお休みだ。
たわいも無い話で、お互いの高校時代や小学生までタイムスリップしながら、カフェでお茶していたら会計を済ます頃には雲行きが怪しくなっていた。駅まで歩いていたら途中で土砂降りにあう。ゲリラ豪雨だって、とスマホアプリを見ながら真由美が言うと、ええーと椎香がハンカチを差し出してきた。
「なに?」
「え、マユいつもハンカチ忘れるでしょ?」
「失礼なー。あたしももう30超えてるのよ?ハンカチくらい・・・」
真由美はそう言ってお気に入りのバッグを見やる。去年働いて貯めたお金で、好きな物を買ったのだ。華美ではないが、子連れには少々向かない小さめのバッグの中をざっと見回して真由美はばつが悪そうに言う。
「忘れました・・・」
「ほら!ほらぁ。いっつもこうなんだから」
そう言ってハンカチを差し出す椎香は、いつもよりもにこにこしていた。得意げというのもあるが、手間が取られたはずなのに笑顔が止まらないでいる。マユはお借りします・・・と言いながらバッグに付いた雨粒を優先的に拭いた。んも~と言いながらも椎香は嫌な顔をしない。
「はいお母さん」
「誰がお母さんよ。マユが先に産んだでしょ」
「でもお母さんじゃん」
「じゃあマユのお母さんなら、私おばあちゃん?」
「おばあちゃんって、なに?」
二人がそんな馬鹿げた事で笑っている。平日に休みを取ったので人通りがまばらで、ゲリラ豪雨なのでわざわざ歩く人影など無い。ああ雨の匂いがしてきた、と真由美は思った。コンクリやらレンガやらガラスやらを打ち付ける音の方が早くて、雨の匂いはゆっくりと人工物の空洞に入り込んで溶け込んで、雨の匂いがし始める。雨音だけが聞こえてきて、真由美はもう一度スマホアプリに目を落としてから賭けをしようと言った。
「マユ、答え見てる?」
「ううん。時間だけ確認したの」
「そう」
ゲリラ豪雨は通り雨のようなものだが降水量がとにかく多い。そんなことは分かっているが、止む気配が一向にないので賭けはもしかしたら30分以内で決着が付くかもしれない。
「望、仕事終わったら選挙事務所の手伝い?」
「え、ああ。そうね」
「じゃあ夜に乗り込めばいいか・・・」
「マユ?賭けに乗るとはまだ言ってないけど?」
「だめ」
こうなったら真由美は頑固だと自他共に知っている。だから椎香もこれ以上口を挟まないことにした。
「・・・結婚がバラ色なんて嘘」
「どういうこと?」
「疲れるし、お互い余裕無いとなんで自分ばっかりって文句出るし、子供いると自由に動けないし責任はあるし」
「でもね」
「世間の波に乗せられたとか色々あるんだけどさ。なんか好きなバッグ買うって言った時に、宮なんて言ったと思う?」
「そうね-。宮はマユにべた惚れだったし、いいじゃん!って目を輝かせてたとか?」
「正解。そんな時にさ、一人で買ってSNSに上げてもいいんだけど、この人と暮らして良かったなって思ったの。そんなものの積み重ねだからさ、椎香も」
「うん」
「望ならきっと椎香にそういう小さい積み重ねを作ってくれるって知ってるからさ・・・悔しいじゃん。なんか。世間に騙されてないのかもしれないし、事実婚が悪いなんて言うつもり無いけど、でもなんか椎香と望はさ-」
「うん」
「私がおかしいのかなって思うんだけど、答えが全然無いじゃんか今の世間って・・・夫婦別姓もあるし事実婚でもアリだし。私が古い考えなのかもしれないけど。答え、欲しいじゃん」
「欲しいね」
「私は、椎と望が結婚してくれるのが一番嬉しいなって思うんだよね」
「うん」
「私のがお母さんみたいな考え方だけどさ、でも」
「いいよ、分かってるから。答えが無いから、答えがあった方がいい気がしてるのは私も一緒だよ」
「うん」
椎香は、隣で真由美が泣いているような気がしたが、雨音と彼女が隠そうとしているようなので黙ってもう一枚のハンカチを差し出した。途端にくしゃりと真由美の顔が歪んだのと目が合って、涙声でなんでもう一枚あんの~!?と尋ねられたので。
「マユの分」
「もう~そういうとこ好き~バカー!幸せになって欲しいぃいい!」
「ははは」
椎香はハンカチを渡すのに続いて、親友の肩を抱くとぽんぽんと背中を撫でる。ぐすぐすという音が聞こえたが、雨がうるさくて何の音も聞こえてこなかった。耳の奥で止まない雨がずうっと降っている。でもふと真由美が離れたので、空を見るように言われてみれば晴れていた。
「時間は!?」
スマホをばっと見た真由美に合わせて椎香も少し緊張したような面持ちでそちらを見やる。
「・・・・・・すごくない?」
「どうしたの?」
「9分55秒でやんだ・・・」
真由美がスマホのストップウォッチ画面を見せてきたので、椎香も少し泣きながら笑った。
「あは、あはは、はははっ」
「これで椎、今晩逆プロポーズ決定ね」
「分かった分かった。ちゃんと報告するからね」
「ん!寝ないで待ってる」
そう言って笑い合った二人はいつの間にかタイムスリップを終えて元の大人に戻っていた。背伸びをしながらも世間を気にするどこにでもいる大人になっていたが、自由を満喫した高校生でなくても別にいいやと雨上がりに笑い合う二人は思っていた。
人目を憚らずに今手を繋いで、今好きな物を自由な数で買って、今愛したい人に愛を言って、今から一人になったっていいじゃないか。だって私たちはそれぞれ一人の大人なんだから。親友の二人は上機嫌に笑って、駅につくと別れた。そうして椎香は自分のスマホを取り出してLINEを立ち上げる。今夜会いに行くからとだけ送信して、彼女は自分の家に戻るための電車に軽やかな動きで乗り込んだ。誰もいない時間帯だからと思わず周りを見回して、でも見られてもいいやと今度は鏡を取り出したのだった。
原典:一行作家