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自由

作者: うましか

 記憶している限りではあるが、私が初めてその感覚に陥ったのは、まだ小学校に通っていた頃だった。

 その頃の私は親の不仲に悩み、宿題をする意味に悩み、自分という存在に悩みと、とにかく多くの悩みを抱えていた。

 そんなある日。昼過ぎの授業中、なんの前触れなく、クラスメイト全員から視線を向けられているような錯覚に陥った。

 無数の目がこっちを見ていた。視線が私の体を絡め取り動けなくした。その目に感情は篭っておらず、ただ見つめてくるだけなものだから、余計に体はこわばった。そして、それが現実に起こっていることではなくて、私が感じているに過ぎない錯覚なのだと、ほかならぬ私自身が理解できていたことに心を折られた。

 もともと私は学校を休みがちな子供だったと記憶しているが、この出来事が不登校を確実なものにしたのは間違いない。


 不登校の間、私の頭にこびりついていたのは「自分はなぜ存在するのか」という問いだった。自身の存在理由だが、結論から言えばそんなものは存在しなかった。

 何度も同じ問いを繰り返した。それは、これを執筆している現在も変わらない。そして問いへの答えも変わらない。

 存在する理由がないのだから、ひいては自分が生きていることに意味はない。

 この答えを受け入れる時間は、おそらく一生を使い切っても足りないだろう。それほどまでに受け入れ難く、しかし私にとってはどうしようもないほど真実だった。

 毎日体は息苦しく、重く、脱力感に苛まれていた。まるで水中にいるみたいに感じた。両親に学校に行けとせっつかれていたから、それも拍車をかけたのだと思う。

 そして両親が離婚したことで、それはさらに悪化したように思う。


 私はずっと学校に行こうと考えていた。歳を取ってからは働きたいと考えた。結局叶わなかったが、共通するのは普通でありたいという願いとも強迫観念とも取れる思いだ。

 それが葛藤、不安、苦痛といった耐え難い諸々を生んだのだとしても、私はそれを羨むことがやめられなかった。

 もしそれを捨ててしまったら、私は真に人ではなくなってしまうような気がした。そうなれば私は全てのつながりを絶ち、完全な孤独を受容した生ける屍になるしかない。


 中学校最後の年、担任と学年主任の先生が不登校だった私を家まで迎えにきた。私は拒絶することもできず、自転車にまたがった。先生は敬うものであり、逆らうことのできない大人という認識が強く根付いていたし、相手は2人だったからだ。

 先生たちは車で学校に向かい、私は自転車を走らせた。先生たちは度々車を止め、私を待っている。それが監視でないとするならなんなのか、私にはわからなかった。

 途中、自転車のペダルが信じられないくらい重くなった。倒れないのが不思議なほどの速度で自転車を漕ぐ私の胸中は「嫌だ!行きたくない!」で溢れていた。しかし声にはならず、どれだけ涙を流しても、私の足が止まることはなかった。

 学校に着く頃には、もはや何も感じなくなっていた。耳に触れる言葉は悉くが意味を持たない音にしか聞こえなかったし、返事をするという当たり前を忘れたばかりか、一時的とはいえ文字通り言葉を失っていたのだ。

 この感覚をもう一度だけ味わったことがある。それは高校の時だ。不登校ながら高校入試に受かり、なんとか頑張って通っていた矢先、その状態になった。

 いずれも自分から切り離された自分と言うのか、俯瞰している自分がいて、とても鮮明に記憶に残っている。


 体と心の関係は密接で、私の場合は心のほうが粉々に砕けているが、それを俯瞰している自分を未だに自覚することがある。

 感情の動き、体の反応、自分以外の事象や自分自身、そういったものを他人事に捉える自分がいて、しかしそれもまた自分なのだと知っている。不思議なことだが。


 私は自殺を考えたことがある。

 それを実行に移したことはない。それだけの胆力がなかったのもそうだが、本能が強く邪魔をしたからだ。

 結果、生きたくないというひどく消極的な思いに落ち着いた。

 そんな私にとって至福となる時間は寝ている間だけだ。無論、寝ているわけであるから意識はない。したがって至福であると認識できるわけはない。だからこそ寝ている間だけが至福なのだ。他人に話して理解を得られたことは一度もないが。

 こんな私であるから主体性はない。だからこそ、生きることを強制された世界でもないのに生き恥を晒している。それが許される社会に生まれたとも言える。

 いいことなのか、悪いことなのか、それはは別としておいて、命が簡単に摘み取られない社会は、それだけでチャンスが多く与えられる。それで救われるものも多いはずだ。

 私はそれが幸せだと思わないし、苦痛にしか感じない。弱者は淘汰される世であれば、私が抱えている苦しみも一瞬で終わるだろうに、とさえ思っている。

 しかし、だからといって、社会そのものを変えようとは思わない。変えていいとも思わない。それは私と同じで存在する理由がないからだ。つまり存在してもしなくても構わないのだ。それが自由ということであり、私を縛る永遠のテーマである。

ご精読ありがとうございます。

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