38,千年の成果
時は遡る事、一〇〇〇年と少し前。
場所は――神々の住まう領域、天界。
天界には、様々なクランが存在する。ちなみに人間たちが尊ぶ各地域ごとの【神話】は、クランごとの活動記録を編纂し適度に脚色して下界に下ろしたものである。
同じ天界に暮らしていても、クランによって規律や慣習はまるで違う。
一例としては、「生を全うし、天界へ召し上げられた人間の魂」への対応。
天界・アスガルド地方を本拠とするスカンディナヴァ・クランにおいてはと言うと。
まず悪人の魂は、女神ヘルが管轄する冥界地獄区画へ直行。
それ以外の死者の魂は、主神・オーデンおよび彼と同格とされる女神・フーレイアが直々に出迎え、労う。それはもうめっちゃ褒める。
よくぞ生を全うしたね! えらいぞキミ!
……ところでちょっと勇士レベルを測定して良いかな?
もしも優れた勇士ならちょっと奥の部屋でお話しようか。
と言った具合に、ポテンシャル高めな魂を選別して、兵士として採用する目的があっての事だ。
別にお眼鏡にかなわずともぞんざいに扱うとかはなく、【ヴァルハラ】と言う接待ルームで生を全うした御褒美を与えてから輪廻の輪に戻したり、そのまま天界の通常職員として見繕ったりする。
エインヘリヤルによる兵団の設立は「いざと言う時」の備えだ。
エインヘリヤル以外への慰労も、前世での諸々の無念を濯ぎ流し、来世はより良い生の中で魂を研鑽してもらうために必要。
これは、とても重要なお仕事だ。
……それは、彼女も当然に理解していた。
「メンタル、きっついにゃあ……」
執務室の机に突っ伏して、肺ごと零れそうなほど豪快な溜息を吐く女神が一柱。
紅く長い髪を「邪魔なんだよにゃあ……」と喧しがるように雑に束ねているが、それでも損なわれようがない美貌。純白の衣は「重いし暑苦しいんだよにゃあ!!」と言う怒りを表すように大胆に着崩されているが、まぁだらしなさよりはセクシーさが勝っているので女神的にはセーフ。
彼女こそがオーデンと交代制で死者を出迎える女神、フーレイアである。
「……もうヤダ……」
そう愚痴をこぼしながらも、フーレイアはのっそりと体を起こし、ある書類をめくり始めた。
それは、本日、彼女が出迎える死者たちのリスト。
一人一人、生前の情報を頭にちゃんと頭に入れて、ちゃんと労ってあげる……それは良い。確かに膨大な作業だが、手間とは思わない。問題は、そこでは無いのだ。
「………………」
フーレイアはリストのある一部分を見て、苦しそうに目を細める。
そこに記載されているのは、死因。
――戦死。
ああ、今日だけで何人目、何百人目……いや、何千人目だろうか。
試しに次を確認しても戦死、次の次も戦死、そのまた次も――
「酷い顔をしているな、フー」
「……オッディ。相変わらず、ノックしないねキミは」
いつの間にか執務室に来客があった。
灰色の魔術衣に身を包み、杖をついた老輩の男性。杖こそついているが、それは足腰をいたわるためのものではないらしく、大柄で屈強な体格をしている。長く白い前髪で鼻先まで覆い隠しているのも特徴的だ。
彼はフーレイアの同僚にして、スカンディナヴァ・クランの筆頭――オーデンである。
「【例のゲーム】の犠牲者は、増える一方か」
「昨日はキミが担当だったんだから、知ってるだろ?」
書類を伏せて、フーレイアは椅子の背もたれに全体重を投げ出した。
やってられない――そう訴えるように両手をだらりと垂らす。
「正直、しんどいよ。みんな良い子なんだもん」
フーレイアは思い返す。
戦死した者たちは皆、少し寂し気に、しかして少しだけ誇らしげに語るのだ。
自分は情けなくも敵の凶刃に倒れてしまいました。
しかし世のため、同胞たちのために、最期まで勇敢に戦い抜いたつもりです。
自分の奮闘が、犠牲が、良き未来に繋がる事を信じて祈っている。
どうかこの祈りを聞き届けてくださいませ、神よ。
「……その神様のせいで、彼らは不必要な戦いに命を懸けて、そして死んでここに来るんだ」
謝りたい。でも、そうはいかない。「キミたちが命を懸けて何百年と続けている人間と魔族の戦争は、神々が暇潰しに始めたゲームの余波でしかないんだ。その奮闘と犠牲の先に大した変化は用意されておらず、何の意味も無い。キミたちの命を弄んでしまった事を、同じ神として本当に申し訳無く思う」……なんて、言えるはずが無い。悪霊を量産してしまうだけだ。
懺悔すら許されない罪の重さに、心が軋む。
「ねぇ、オッディ。天界のみんなはいつまで、あんなゲームを続けるつもりなの……? おかしいよ。毎日、たくさんの人間や魔族が死んでいる。死者の魂を迎えるのはスカンディナヴァ・クランだけじゃない、むしろ死者の受け入れをしていないクランの方が少ない……だのにどうして、あのゲームを続ける賛成派の方が多いのさ?」
「……飢えているのだろう、娯楽に」
「そんな答えじゃ納得できないよ!」
フーレイアが拳を机に叩き付ける。
彼女の表情を歪めるのは、拳よりも胸の痛みの方が大きい。
「人間と魔族の殺し合いなんてものが、どうして娯楽になるのさ!? 可哀想なだけだ!」
「可哀想だとは思わないのだろう。大半の神々が、下界の生き物を同じ次元の命とは認識していない。よく出来た玩具程度の認識なのだ」
「ッ……」
死者を受け入れているクランは多い……だが、死者と接する神は少ない。大半の神が、英雄や大罪者など、天界で話題になる者たちの様子を度々覗き見る程度。そこには英雄譚のような娯楽的刺激を見出す事はできても、生者の生々しい営みを感じられる事はほとんど無い。浮世離れした豪傑傑物怪物の類しか、神々の眼には映らない。
とてもではないが「多少スペックに差があるだけで、彼らは自分たちと同じような心を持つ生命体なのだ」と認識する機会が無いのだ。
「私とて、この狂った現状は好ましくない……手を、打てるだけ打ってみよう」
「オッディ……?」
フーレイアが顔を上げてみると、オーデンの姿は既に無かった。
それから、数百年が過ぎたある日の事。
いつも通り死者たちのリストを確認しようとして、フーレイアは違和感を覚えた。
「……何か最近、どんどん薄くなってるね?」
死者が減っている。例のゲームが始まる前の水準……いや、それよりもずっと少なくなっている。
まぁ、良い事だ。でも、どうして? 理由が思い当たらない。
例のゲームが終わった?
……いや、きっと違う。
確かに、フーレイアは極力アレの情報を耳に入れないようにはしているが、あれだけ天界を賑わせている悪趣味な一大興行が終わるとなれば、情報をシャットアウトしていたって聞こえてくるくらい大騒ぎになるはずだ。有り得ない。
違和感はそれだけではなかった。
「……老衰、病没、事故」
ひと通り目を通しても――戦死の文字が見当たらなくなっていた。
おかしい。例のゲームが始まる前から、下界には人間同士の戦争が存在していた。毎日それなりの数の戦死者が出ていたはずだのに。
「一体、何がどうなって……」
「上手くいっているようだな」
「オッディ! 本当にノックしないねキミは!!」
いつも通りいつの間にか現れていたオーデンが「執務室で覗かれて困るような事はしないだろう?」とかほざきながら来客用の椅子に腰を下ろした。
「その様子……キミが何か仕込んだの?」
「ああ。今回の魔王は、私が選んだ」
「ッ……!? キミ、あのゲームに参加したのか!?」
「見損なうな。当然、娯楽目的で参加した訳ではない。この狂ったゲームを終わらせるため、内側に火種をまいてきたのだ」
「……火種?」
「今回の魔王は、すべてを知っている。勇者と魔王、人間と魔族の戦いが神々のふざけたゲームである事を教えた。故に今回の魔王は、この馬鹿げたゲームで犠牲者が出ないように上手く立ち回ってくれている……と言う所だ」
「ばッ……そんな事がバレたら……!」
神々とは言え多少の節度は弁えている。自分たち神と言う大きな存在のせいで下界が滅茶苦茶にならないよう、干渉は必要最低限にするための決まりがいくつもあるのだ。
天界の情報を天界の総意無く下界に下ろすなんて……故意ならば、主神クラスでも許されざる重罪である。
「既にバレているとも。手が滑ったと言う事になっている」
「誤魔化し方が雑だね!?」
「誤魔化せたから問題無い。そして、このゲームの主旨に抗う駒が盤上に現れる形になった。何もかも上手くいったよ」
オーデンは少し俯いた。思い通りに計画を進めているにしては、浮かない表情だ。
「……彼は、神を恨むだろう。抗う事に意味があるのかもわからない、過酷な運命に苦しみ悶える事になる。私は幼い彼にそれを強制した。それは同時に、魔王で在る事への誇りを毟り取る行為でもある」
魔王など神々の玩具でしかないと知った上で、どう誇る事ができようか。
「どれほど辛い窮地にあっても、彼は神に祈る事ができない。何にもすがる事ができず、彼は独りでもがき続ける……我ながら、これ以上は無い惨い仕打ちだ。だが、もうこれ以上、こんなゲームを続けさせる訳にはいかないのだ…………必要とは言え、下界の子を駒として犠牲にするのは……苦しいものだな。全能には程遠い自分に嫌気が差す」
溜息を添えて、オーデンは呻くように吐露した。
「情けない限りだが……それでも私は、彼の優しさとパワーに懸けたい。彼の生き様が、彼の戦いが、彼の咆哮が、それを眺めるだけの神々に気付きを与える事を信じたい」
魔王として造られた玩具――その役目を誇らしげに全うする者を見ても、奴らは娯楽に手を打つだけだ。
ならば、魔王と言う玩具にされてしまった者の嘆きを聞かせる。今まで娯楽の側面しか見えていなかったそれの、非道で残虐な側面を叩き付けてやる。
オーデンは杖に額を押し付け、神でありながら祈るようにつぶやいた。
「どれだけ言葉を尽くそうと、許してもらえる所業ではないだろう……だが、頼む。どうかこの狂った世界に風穴を空けてくれ――【ヴァリ】の名を宿す子よ」
◆
「ボクたちはキミに、残酷な運命を強制した」
フレアはそう言って、深く深く頭を下げた。ポタポタと、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
「自分が理不尽に弄ばれる玩具なのだと自覚しながら生きて、戦い続けるのは……本当に、辛かったと思う。謝って許される事じゃあないのはわかってるけど、それでも――ごめん」
フレアの肩は小さく震え続けておる……自らへの怒りもあるじゃろう。
じゃが、最も大きいのはきっと……恐怖か。
ワシは神々を恨んでおる。そしてフレアは恨まれて当然じゃと理解しておる。
そんなワシに正体を明かして、何を言われるか……そりゃあ、恐いじゃろう。
ワシがフレアに魔王である事を明かすのを躊躇ったのと、同じ感情。
「……許しはせぬ」
ワシの言葉に、ビクッとフレアが大きく震えた。
……当然じゃろう。いくら、この狂ったゲームを終わらせるための仕込みとは言え――ワシが魔王として在る事で死んでいった者たちが、それに見合う犠牲じゃったとでも言うのか? ふざけるな。納得できるものか。
ワシが神々を許す事は無い。オーデンとやらもフレアも、ワシを玩具にしていた神々とは違うと理解した上で……それでも、何故、どうしてよりにもよってワシを選んだのかと……その選択を、恨めしく思う。
……じゃが、
「許しはせぬが――責める気も起きぬ。きっと貴様らは最善を尽くしたのじゃろう」
苦渋の選択と苦肉の策を積み重ねて、どうにか掴み取った最善の結果が……今なのじゃろう。
それがどうした、貴様らが頑張ったかどうかなぞ関係あるか――そう憎悪に任せて吠える事もできる。それを誰かに咎められる謂れも無い。
しかし……力が及ばなかったと泣いて謝る小娘の頬を打って、己の無力を嘆く者の首を絞めたとして……一体、何になる? ただただ悲しいだけじゃ。
ワシは誓ったではないか、すべての悲劇を否定すると。
ワシの口から、誰かを悲しませる言葉を吐く訳にはいかぬのじゃ。
「じゃから、もういい。顔を上げてくれ。悲劇はもう、うんざりじゃ」
「……ありがとう」
「許しはせぬと言ったぞ」
「恨まれるのは当然だ。でもキミは、その恨み以上の優しさをボクに向けてくれている」
「…………」
「……ボクはキミに、救われてばかりだ」
頭を上げたフレアは、泣き顔と笑顔の混ざったぐしゃぐしゃの表情を浮かべておった。
「老衰で亡くなったお爺ちゃんがね、笑いながら話してくれたんだ。『ついぞ兵士として勇猛を見せる事は叶わなかったが、おかげで最期に可愛い孫の頭を撫でて死ぬ事ができた。幸福な生涯じゃった』って。キミが作った平和のおかげだ。ボクは死者を出迎える女神として、心の底から彼らの生を讃えられるようになった……本当に、ありがとう」
……そうか。ワシの足掻きで救われた者が、確かにおったか。人にも、神にも。
それは朗報じゃな。
「そして……そう。この事を直接、キミに伝えたくて……ボクはオッディの力を借りて、下界に降りてきたんだ」
「む……?」
フレアはぐしぐしと顔中を雑にこすって、涙や鼻水を拭い取る。
そしてワシを真っ直ぐに見つめて――
「勇者と魔王を戦わせるゲーム……その廃止が決まったんだ。キミと現代の勇者の戦いを以て、このふざけたゲームは永久に凍結される」
「――!!」
「この一〇〇〇年……キミの抵抗に心動かされた神がどんどん増えて、ついに反対派が過半数を超えたんだよ」
祝福するような――ああ、これが女神の微笑みと言うものか。
フレアは静かにワシを抱き寄せて、耳元で囁いてくれた。
これ以上なく心が奮えてしまうような、最高の言葉を。
「キミが、この悲劇を終わらせたんだ」