【第一章】オノイェッドゥヌープの少女4 共同生活と文字
イティークとの共同生活が始まった。
午前中は畑仕事を教わりながら手伝い(といってもまだ十分な意思疎通が出来ないので、身振りで伝わる範囲の仕事しか教わっていないが)、午後は互いに言葉を教えあう。
初めはどの言葉が指示語なのかをお互いに伝えるのに苦労した。
コレという指示語を使ったつもりが、コレという名前だと勘違いされて、その誤解を解くのに半日使ったのも記憶に新しい。
解決する為に複数の食器を用意して「コレは皿」「コレはスプーン」という感じで示していくことを思いつくのに時間がかかったのだ。
落ち着いて考えればすぐに解りそうなものだが、うまく通じなかった混乱でどうすればいいのかがぱっと思いつかなかったのだ。
ちなみに「コレ」は「ウキヴ」というらしい。
こうして指示語が解ったことで、お互いの言葉を教えあうのが徐々に捗るようになってきていた。
一番簡単に通じるのは名詞。
指さして名前を言えばそれで通じるのだから簡単な話だ。
しかし難しいのは概念的な単語だ。
例えばまだ理解できる、できないといったことを伝えるための単語は解らない。
感謝も日本語で伝えている。
相手が自分の感謝の姿勢を感謝だと理解してくれている確信があれば、その時に教えてもらいたいと思ってはいるのだが、伝わっているかどうか、なかなか確信が持てない。
言葉というものがどれだけ偉大であったか、俺は今更ながらに痛感していた。
それに、イティークのことも気になる。
こんな場所で独りで暮らしているようだが、両親はどうしたのか。
一時的に留守にしているだけなのか、それとも死別してしまったのか。
こんなところにもしダクギュブがやってきたらどうするのか。
まだダクギュブの正体も解っていないが、とにかくそれについてもきちんと伝えておきたい。
近くの集落ではダクギュブをとても恐れているようだったという事を。
一人で今後の学習についてどうしようか悶々と考えていると――
「アラト、ギックェト」
食事の用意ができたのかイティークが俺を呼んでくれる。
ギックェトとは晩御飯のことだ。
「ありがとう、イティーク」
俺は日本語で礼を言いつつ席に着いた。
食事は簡単なものだ。
あのキャベツっぽい野菜、名をファッダジェというらしいが、それを細かく斬って水にさらしてあく抜きしたもの。
それと恐らくは芋であるところの、ロワヲのスープ。
今日まで米は見たことが無いので、コメの類はこの辺りには無いのだろう。
というか小麦の系統も見かけてない。
穀物の類はないのだろうか。
或いはそれだけお金がないというだけかもしれないが。
それでもファダッジェ(キャベツもどき)がとれるのだから、奪われなければ餓死することだけはない。
それは大きな強みだろう。
そう、奪われさえしなければ。
ダクギュブ、か……
俺は考え事をしながら食事を口に運んでいた。
それを見たイティークが眉尻を下げながら言った。
「アラト、ケヴィウ・クォウ・ワヴーブ?」
クォウは否定、ケヴィウとワヴーブは解らない。
食事中に食事をしている俺を見ながら悲しそうな表情をするということは、味を心配しているのだろうか。
それとも俺が何か思い悩んでいる風に見えたから心配しているだけだろうか。
「ごめん、大丈夫だよ。ありがとう」
どちらの意味かは解らなくても、とにかく問題がない事を伝えたくて微笑みかける。
「ん……」
なんだかしんみりしてしまったので、この空気を打破するためにも単語の意味を聞いてみよう。
「いかう、わぶーぶ(ナニ、ワブーブ)」
俺の言葉をきいたイティークはしばらくスプーンを止めて思案顔になる。
そのあと、ぱっと笑顔になった。
イティークはどう伝えればいいのか思いついた時、いつもこんな感じになる。
彼女はスープを一口、口に入れた。
その後、満面の笑みを作り、ぐっと腕を曲げて喜びを表現するようなポーズをとって、言った。
「ワヴーブ!」
その後、もう一口スープを入れた後、しょんぼりした顔をしていった。
「クォウ・ワヴーブ……」
流石に解った。
「なるほど、わぶーぶは美味しい、こう・わぶーぶで美味しくない、か」
「ベヴ!」
ベヴは肯定を意味する。
流石に今の日本語の全容を理解したわけではなく、なんとなく俺が正しく理解できたことを感じ取ったのだろう。
もうちょっとこう、紙とペンなんかがあれば学習しやすくなるのだが、生憎と紙が無い。
というか本も見当たらない。
この世界、或いは国における識字率が気になるところだ。
まあ仮にこの世界に文字があったとしても読めるとは思えないが。
だが、識字率が低かったとしても問題ない。
もしイティークがこの地の文字を読み書きできなくても、二人の間で通じる文字さえあればいいのだ。
つまり、ひらがなだけでも教えれば、言葉の学習がこれまで以上にぐっと捗るようになる。
まあ、無いものねだりなわけだが。
ふと視線をあげると、ちょっとむくれた顔のイティークが。
またほったらかしでいろいろ考えてしまっていた。
「ごめん、イティーク」
俺はそう言った後、スープを一口啜って言った。
「わぶーぶ!」
食卓に暖かい笑い声が響いた。
畑仕事の朝は早い。
空が白み始めたころには目を覚まし、日が昇った頃には既に取り掛かっている。
男手が増えて、畑の管理を二人でするようになって。
一人が二人になったということは、人手が倍になったということだ。
つまり作業は倍速で終わる――というようなことは残念ながらなかった。
たいして畑仕事に精通していない俺は、下手なことをすれば逆に二度手間になったり、足を引っ張ったりしかねない。
だから出来る事だけをきっちりこなしている。
倍とは言わないまでも、1,5倍程度には早く畑仕事が終わるようになっていればいいのだけれど。
元の速度を知らないから、何とも言えない。
今日は午前の畑仕事が少し早めに終わったので、家に入ろうとするイティークを引き止めた。
俺はあらかじめ用意しておいた木の棒を見せる。
棒と言うと大げさだったかもしれない。
なにしろ簡単に折れそうな細く乾いた木の枝だった。
そんな俺を不思議そうに見るイティーク。
俺は地面に「あいうえお」と書いていった。
「イカウィヴ・ウキヴ?」
ウキヴはこれ、つまり指示語だ。それで、イカウィヴ……?
イカウィヴは教わってない、よな……?
イカゥに似てる気はするから、疑問詞の一種か?
あ、もしかしてイカゥにbe動詞的な何かがくっついてる……ってことでいいのか?
察するに、これは何?ってことだろう。
おれはちょっと悩んでから言った。
「うきぶ、もじ(コレ、モジ)」
「モジ?」
小首をかしげるイティークに説明するべく、俺は「あ」を指さして言った。
「あ」
次に「い」を指さして言った。
「い」
それを「お」まで繰り返す。
その後、その下にさらに文字を書いていく。
内容は彼女の名前、「いてぃーく」だ。
俺は左からまた順番に指さしていく。
「い、て、いーー、く」
最後にひらがなで書かれた彼女の名前に下線を引きながら、通して読んだ。
「イティーク」
そこでようやくこれが何なのか、イティークは理解したようだ。
「……エイル・クァペ!フカタフェト!!」
エイルは私の、クァペイヴが名前、と自己紹介の時に思っていたが、クァペイヴもクァペに何かがくっついてクァペイヴになっているのかもしれない。
そしてフカタフェトが文字、ってことでいいんだろう。
俺は感動した様子の彼女に肯定しておく。
「べぶ」
「エイ・ヴェイ・ホトゥケ・ヒトヴー・ウィペ!!」
「え、えっと……?ごめん、解らない」
流石に何言ってるか解らないけど、興奮した様子なのは解った。
何を言いたいのか俺に伝わっていないのがもどかしそうに、その場で足踏みしながらゆっくり360度回転するイティーク。
そのあと、自分を指さしながら――
「エイ」
といった。
うん、それは知ってる。
「べぶ」
おれの肯定を聞いたイティークは、次に自分の目の前に手をもってきて文字を指さした。
そのまま文字を指さしたまま、その手を文字へと近づけていく。
「ヴェイ」
つまり見る、ってことか。
「べぶ」
俺の返事を聞いて、うんうんと頷いて見せるイティーク。
そのあとの部分をどう伝えればいいのか、また足踏みし始めるイティーク。
「あう、あう……」
なんかあうあう言いだした。
その後、俺を指さして言った。
「クォウ・ヒトヴー・ウィペ」
クォウってことは俺はヒトヴー・ウィペじゃないわけだ。
文字を指さして彼女は言う。
「ヒトヴー・ウィペ」
「解らない」
俺は首を傾げた。
イティークは少し考えた後、もう一度文字を指さして――
「ヒトヴー・ウィペ」
と繰り返し、両手で自らの目を覆った。
何をしたいんだ、と思ってる間に覆っていた手を離す。
そして再び文字を指さして言った。
「クォウ・ヒトヴー・ウィペ」
……?
なんで目を覆ったらヒトヴー・ウィペでなくなったんだ?
目を覆ったから、見てないってことか?
でも、見るっていうのはヴェイだったはずだ。
じゃあ、見るっていうのは間接的にヒトヴー・ウィペに関わっているのか。
目を塞ぐ前はヒトヴー・ウィペで、塞いだ後もう一度見てからクォウ・ヒトヴー・ウィペになった。
つまりはそこが重要なはずだ。
ん……?
もう一度……?
もう一度つまり、一度目があって、二度目がある……?
一度目、見た、二度目、見た、違う……?
「あっ!!」
ぱっと閃いた。
「そうか、初めて見た、と言いたかったのか!!」
「ベヴベヴ!」
俺の日本語の意味も解ってないだろうに、俺がきちんと正解にたどり着いたと確信してくれているのか肯定してくれるイティーク。
これまで俺は家族やクラスメイト達と一緒にいても、こんな気持ちになったことはなかった。
人と居ようが、孤独だろうが、関係はない。
だったら、人と居て面倒に巻き込まれるよりは孤独のほうがずっといいとそう思ってきた。
でも違ったのだ。
俺はこれまでずっと、孤独でなかった時間など、在りはしなかったのだ。
孤独ではないということ。
それは、孤独のままでは気づくことが出来ないのかもしれない。
俺は今初めて家族を得たような気持ちになっていた。
これまで俺を生かしてくれていた家族も、もしかしたら、俺がきちんと向き合えてなかっただけだったのだろうか。
イティークに今しているように、きちんと向き合えていれば――
ちらとそう思ったが、今の俺にはまだその事を受け止めることはできなかった。
元の家の事を考えたせいで、せっかくのいい気分が台無しだ。
俺は気を取り直すべく、イティークに「あ」から「ん」までを教えていくのだった。
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