【第一章】オノイェッドゥヌープの少女2 邂逅
オノイェッドゥヌープはこの世界の言葉で開花を意味します。
「う……」
ぶるり、と思わず震えつつ、意識が覚醒する。
「さぶ……」
昨夜はかなり暖かかったはずだが、霧のせいなのか、あるいは別の要因か、今はずいぶんと体温が奪われていた。
おまけに霧は晴れた様子が無い。
「くそ……まぁ、日が出てるだけマシか……」
いつまでもじっとしていても森から抜け出せるわけでもない。
俺はとりあえず可能な限り痕跡を残しながら、森を抜けることに決めた。
痕跡を残すのは方向感覚を失わない為だ。
その分体力は消耗するが、仕方ない。
「もしかしたら、本当に地磁気がないのかもしれないな……」
そう考える。
晴れない霧に、突然の体感温度の変化、急激な植生の変化、おまけに反応しない方位磁針。
ありえない、と思いつつも一つの可能性が頭に浮かぶ。
――異世界。
「異世界か……もし本当に異世界なのだとしたら、これまでの自分の常識は捨てるべきだろう」
地磁気さえないのだ。
「もしかしたら天動説が正しい世界の可能性だってある……」
地球は丸い。
それは俺の世界では常識だ。
でもこの世界の、この宇宙の常識が同じである保証はない。
星はすべて球体じゃないかもしれないし、この星は自転も公転もせず、この星を中心に世界が回っているかもしれない。
そしてもし本当に星が球体じゃないのなら、地殻すらないかもしれない。
重力も地球とは違う原理で発生しているかもしれないし、磁力の代わりに違う力がこの星を覆っているかもしれない。
もしかしたらここの宇宙は真空じゃないかもしれない。
とにかく、そういった物理的にありえない事も否定せずに考慮しておいたほうがいいのかもしれない。
この世界にまかり間違って魔術や魔法なんてものがあれば、その疑いはより深めるべきだろう。
なぜなら、それらこそが物理的にありえないものの筆頭なのだから。
もっとも、幾ら気を付けたところで自分の思考がこれまでの常識に引っ張られるのを完全に防ぐのは難しいだろうが。
「とりあえずは森を抜けるのが第一目標だとして、森を抜けた後はどうするべきかな……」
目の前の事を考えていないと、どんどん思考が遠くまで飛んで行って際限なく不安になりそうだったので、無理やり思考を修正する。
「森を出た後の最優先事項は、食料と水の確保だよなぁ……」
これに尽きる。
腹が減っては戦はできぬ。
しかし、このあたりは未知の植物ばかりで、流石に口に入れるのは躊躇われた。
野草を食べること自体には抵抗はないが、毒入りかどうかを確認する手段もなしに未知の野草を口に入れるのはリスクがリターンに見合っていないように感じられた。
やるとしても餓死寸前とかの最終手段にしておきたい。
となれば安全な食料を確保するのが道理である。
安全な食料とはすなわち、人間が口に入れているのを見た植物。
まあ、ここが仮に異世界だった場合、人間が居ない可能性もあるし、この世界の人間とは持っている分解酵素だって違うだろうから、この世界の人間にとっては無害でも俺にとっては致命的な毒の可能性もある。
絶対とは言い切れないが、まあ比較的安全だろう。
もし人間がいなければ、次点で動物が食べてる草を食べる。
これもまた先と同じ理由で絶対に安全とは言い切れないが、比較的マシな選択のはずだ。
「よし、まず森を出る。次に人か動物を探す。人を見つけたら、こっそり食事を覗くか、いざとなれば声をかける……この方針でいこう」
恐怖や不安、寂しさを紛らわすかのように独り言が増えてきていた。
「出れた……」
森の中を歩き続ける事数時間。
幸いというべきか、野生動物に出くわすことなく森に出ることが出来た。
ただし、手は傷だらけだ。
痕跡を残しながら移動するのに思いのほか傷を負った。
ナイフが無いというのは思いのほか不便だ。
「ちっ、いてぇなぁ……はぁ、とにかく原住民との交流をなんとか持たないと……」
そうは思うが、まあまず言葉は通じないだろう。
この時の俺は人間自体存在しない可能性が、疲れのせいか頭から抜け落ちていた。
「異世界ファンタジーは言葉が通じるのが常識だけどな……」
十中八九通じないだろうし、通じない前提で接触するが、一応【機械仕掛けの神】が降臨する可能性も、多少は期待しておこう。
できるだけ開けた場所へ出た。
見晴らしがよければそれだけ民家を探しやすかろうという考えからだ。
あたりを見渡していると、遠くに城壁が見えた。
「お、おぉぉぉ……人、いるみたいだな……」
まあ、俺らと同じ見た目の人間とは限らないが。
タコ人間かもしれないし、リトルグレイみたいな見た目かもしれない。
またどんどん悪い想像が湧き出しそうだったので、思考を無理やり修正する。
城壁があるということは、あれは都会だろう。
いや、平均的な文化レベルが解らないから実は田舎なのかもしれないが。
日本にあんな西洋風の城壁が見れる街があるとは思えないし。
いや、地理に詳しくないから本当はあるのに知らないだけという可能性もあるが。
細かい可能性に拘泥していると話が進まず、そのまま餓死しそうなので再び無理やり思考を修正。
異世界で、西洋建築が見えたからとりあえずファンタジーっぽい世界である想定だ。
いきなり時空要塞とかが出てこない限りはとりあえずこの仮定で進める。
あの城壁の街に行った場合だが、もし貴族社会だった場合、どこの人間かも解らない俺は蛮族扱いで奴隷落ちか絞首台行になりかねない。
都会に行くのは無しだ。
できればファーストコンタクトはド田舎がいいが――
さらに周囲を見渡すと、ちょうど畑が見えた。
「村だな……ツイてる、と言っていいのか」
正直いきなりいい感じの人里を発見できるとは思っていなかった。
ただの一般人……いや、その中でも特に低能であろう俺には、現実世界の野生動物すら荷が重い。
それに一見無害そうに見える動物もこの世界ではどれが危険か解らない為、狩りや争いは避けたい。
植物を食べるにしても植生が異なり、どれが毒かも解らない。
おいそれと雑草も口にできない。
水だってそうだ。
どこがどんなふうに汚染されているかもわからない。
ならば既にほかの人間が食事に使っている水や食料をわけてもらうのが手堅い。
「このまま、ファーストコンタクトも上手くいけばいいけどな」
よくよく考えれば、この世界の人類が俺と同じ見た目とも限らない。
そもそも人類が存在するかどうかを先に疑問視しておくべきだった。
結果的には杞憂だったが、地磁気が存在しないかもしれない世界なのだ。
元居た場所とどれだけかけ離れた世界でもおかしくないのだということを肝に銘じておかなければ。
畑へ近づくと、農作業をしている老人が見えた。
「き、緊張してきた……」
見知らぬ土地で、見知らぬ人に、言葉が通じるかも解らないまま、声をかける……緊張しないほうがおかしいだろう。
「でも、このままじゃ、そのうちのたれ死ぬ……行くしかない……」
俺は意を決して老人に近づいた。
緊張で喉が乾燥し、逃げ出したい気持ちに支配されそうになるが踏みとどまる。
こちらに気づいた様子もなく集中している老人に向けて声を絞り出した。
「……あ、あの……すいません」
こちらを見た老人は、驚きの表情を浮かべ、次に怒りとも恐怖ともつかない表情で農具を振り上げた。
「あ、あの、怪しいものじゃ、なくて……っ!」
「ガプクァイ、ダクギューーブ!?」
何を言っているのかは解らないが、友好的でないことだけは確かだった。
明らかに友好的でない表情で農具を振りかぶったままこちらに走ってくる老人を見て身の危険を感じる。
「やばい、やばいやばいやばいやばいっ!!」
俺は言いながら全力で逃げ出した。
「ぜはー、ぜぇはぁ、ひー、ふー、くそ、はぁ、はぁはぁ、やっぱ、言葉、つうじねー、はぁ、くはっ」
なんとか息を整えながら、俺は先ほどの事を思い返していた。
「はぁ、くそ……がぷかい、だくぎゅーぶってなんだ……?」
あの表情は、たぶん恐怖だ。
このあたりの治安は良くないのかもしれない。
ガプクァイダクキューブなる組織が存在しているのか、或いはもっと単純によそ者とか、野盗とか、そういったものを意味する言葉なのか。
あるいは階級社会で、貴族に虐げられていて、もう自分の命を投げ捨てる覚悟をするところまで追いつめられているとか。
可能性は色々ありそうだ。
なんにせよ、他の住民とコミュニケーションを取るしかない。
嫌だけど。
(でも水と食料がな……いるからな……)
まあ、最悪の場合、この土地の水と食料が現地民には何の問題もなくても、俺にとって毒だったりする可能性もある。
死ぬまで行かなくても、分解酵素が無いせいで酷い下痢や腹痛に見舞われる可能性も十二分にある。
(だとしても、現地民にすら有毒な毒物を食べるよりはまだ生存の芽があるはずだ……)
まあ、その逆のパターン、すなわちこの地の毒こそが、俺にとっての栄養であるという可能性もないとは言い切れないが。
「検証方法が身体を張る以外にない時点で、考えても意味がないんだよなぁ……まあでも、毒よりは食料で試したいところだ……」
俺はなんとか勇気を振り絞って次の人間を探した。
……問答無用で農具を振り回される事数回。
やはりこの国は、或いは世界は、治安がよくないようだ。
いかなる理由なのか、近づくだけでそれはもう警戒される。
まずは現地人の警戒心を解くところから始めなければならないだろう。
会話が出来るようになっても、言葉が通じないのが解りきっているので途方に暮れるが。
ただ、何人かが叫んだ言葉。
ダクギューブ、ダッギューブ、或いはダクギュブ。
「ダクギュブ……」
これがこの村にとっての敵なのは確かなようだ。
「何者なんだろうか……」
恐怖で体がぶるりと震えた。
あの村人の怖がりよう。
ダクギュブとやらに俺が出くわした瞬間、碌な目にあわない事が解りきっていた。
俺を見て言っているのだから、恐らく人間ではあるのだろうが……
(あぁ、俺が異世界に迷い込んだことに意味があればいいのに)
意味があれば、きっと俺にも何か特別な力があったに違いない。
そうでなくても、この世界で生き残れるだけの武術の心得があったに違いない。
或いは、それだけの高い知識を持っていたに違いない。
でも俺がここにいる事には恐らく何の意味もない。
力もなければ智慧もない。
偶然なのだ。
迷い込んだだけ。
召喚されたわけでも、転生したわけでもない。
(考えるな……)
ネガティブな思考が加速しそうになるが、必死にそれに蓋をする。
いつ死んでもおかしくない、絶望しそうになる。
死んでいると言っても過言ではないのかもしれない。
でも、死にたくない。
だから足掻かなければならない。
俺は再び人を求めて歩き始めた。
どれほど歩いただろうか、しばらく民家を見ることはなかった。
正確な時間は解らないが、1時間以上は歩き続けただろうか。
やっとのことで新たな民家を発見する
別の村にきたのかもしれない。
すぐそばにはキャベツのような野菜の世話をしている少女がいた。
(声、かけるしかないよなぁ……また農具を振り回されなきゃいいけど……)
逃げ出したい気持ちを抑え込んで、声をかける。
「あ、あの……す、すいません……!」
「イカゥ?」
小首をかしげる少女に、思わず心の中でガッツボーズをとる俺。
(おぉぉぉ!ようやく、話を聞いてくれそうだ!!)
当然言語は通じそうにないが、なんとかコミュニケーションをとりつつ、この世界だか国だかの言語を理解しなければ。
さて、まずはなんと言うべきか。
今俺が知っている現地の言葉は、意味が解らないけど危険な存在っぽいダクギュブだけだ。
ダクギュブじゃないよ!と、言いたいが、否定を意味する言葉を知らない。
となれば勘違いされる可能性のあるダクギュブという単語は使わない方がいいだろう。
もう日本語と身振りでごり押しするしかない。
俺は不安や羞恥で委縮しそうになる自分を押さえつけて、半ば自棄になりながら口を開いた。
「え、えーと……ココデ、ハタラカセテクレマセンカ?」
なんとか通じてほしいという思いから、この世界の言葉っぽいイントネーションで日本語をしゃべってしまう。
「ファ、ファクーゥ・ウクゲッヴァーグ……」
言葉が通じないのだから当たり前だが、すごい困った顔されてる。
海外に足を踏み入れた経験のない俺にはどうすればいいのかの答えはない。
とりあえず先ほど決めた方針通りに日本語をしゃべりながらボディーランゲージをして、なんとか意図をくみ取ってもらおう。
今のところ唯一話を聞いてくれた心優しい人間だ、なんとしても自分が危険ではないと理解してもらわなければならない。
命がけの異文化コミュニケーション。
まあ、現代地球にも漂流者が上陸するだけで殺される未開の島もあるらしいしな。
船やヘリが近づくと弓や槍で攻撃してくる極めて好戦的な部族らしい。
人ってのは怖い。
特に余裕をもって生きられるだけの文化レベルがなければ猶更で、法の下に平等であるという精神が育っていなければさらに恐ろしい。
その部族は首切り死体を筏に張り付けにして海岸線に立て、遺族の為に遺体を持ち帰ろうとしたヘリや船を威嚇したらしい。
俺はそれを野蛮だと思うが、しかしそう思えるだけの余裕がその部族にはないのかもしれないし、歴史や文化、宗教も知らず、一方的に見下すのも違うとは思う。
実際、刺激したくない、干渉しないというのがその部族に対する最終的な対応となったようだ。
まさか虐殺するわけにもいかない。
それが現代における考え方だ。
しかし地球においても、中世くらいの成熟度であればきっと虐殺に発展したに違いない。
俺だってどんな下らない事で殺されるかも解らないのだ。
だからこそ、交流は慎重にならなければならない。
「あーーーーー、えーーーーーっと、俺も、水やり、手伝います。雑草、とるのも、手伝います。だから、食事、欲しいです」
じょうろを傾ける仕草、雑草を鎌で刈り取る仕草、そして茶碗を持ちながら、右手をチョキにして箸を演出し、ご飯をかきこむような仕草をする。
その俺の様子を見て、少し涙目になりながら後ずさる少女。
全然通じていなかった。
「ファクーゥ・ウクゲッヴァーグ……アクグ、オ・ニウェネ・ヴファッブ……」
何言ってるか全然解らない。
そして向こうもそうだろう。
それでいて2回とも『ふぁくーうげっばーぐ』と言っている。
推察するに『ふぁくーうげっばーぐ』とやらで、何言ってるかわかりませんって意味だろうか。
そしてそのあとの言葉は、まったく予想がつかない。
でも怖がってるようだし、怖いくらいは言ってるかもしれない。
「こ、怖がらせてごめん!」
俺はとにかく謝りながら頭を下げた。
「あ、あう、あう、ヴォ、ヴォラ、ルニェーヴェ・ヴォラ……ルニェーヴェ・タイヴェ・アイル・キーグ……!」
頭をさげた俺をみて凄くあわあわしている少女。
「え、えっと……」
「エ……エ、エ……エイプ・ヴォピッブ!!」
謎の言葉を叫びながら少女はすぐ後ろの民家へ駆け込んでいった。
少女の家なのだろう。
「…………」
沈黙がこの畑を支配していた。
「はぁ……やっぱり、警戒されちゃったかな……」
仕方ないとはいえ、気が滅入る。
とはいえ、警戒心を解いてもらう他ない。
そして、こういう事で警戒を解いてもらうには、身体を張って誠意を見せるしかない。
彼女が居なくなった畑の状態を見る。
濡れている範囲は水やりが終わっている範囲だろう。
いや、乾いて解らなくなっているところもあるかもしれない。
水のやりすぎで作物がダメになったりしたら元も子もない。
水やりはやめておこう。
じょうろは民家の傍に置いておく。
「じゃあまぁ、雑草でも引っこ抜きますかね」
言いながら余計な草を探して引っこ抜く。
ついでに葉を食べてるように見える害虫っぽいのは引っぺがして踏みつぶしておく。
こいつらも土に還ればこのキャベツっぽいのの栄養になるかもしれんしな。
………………
…………
……