ラドゥと少女と獣憑き〈壱〉
【1】
ラドゥは街道に歩み出た。
黒衣の二人組の動きが止まった。
少女と老いた男の視線が、突然の闖入者に向けられた。
ラドゥは、彼等のちょうど中間のあたりから現れていた。
「誰だあれは」短躯の男が眉を顰めた。「まさか、生き残りか?」
「小娘の護衛どもは先ほど皆殺しにしただろう」長身の男が眼を細める。「それによく見ろ、ガキだ。あんな奴は護衛にいなかった。生き残りではない」
「何にせよ、見られたぞ」
「そうだな」長身の男の声が暗い響きを帯びた。「見られた以上、ただで帰すわけにはいかないな」
黒衣の二人組から向けられる殺気を背に、しかしラドゥは平然と少女と老いた男に歩み寄った。
先ほどの会話から、ふたりの名前はわかっている。男の方がゴド。少女の方がシムカだ。
「君は、誰だ」ラドゥに切っ先を突きつけながら、しかしゴドの声に滲むのは敵意ではない。困惑だ。
「通りすがりの旅人です」
「一体、何を、考えている」
「何のことです」
「なぜ、出てきた」
ゴドはラドゥが現れたあたりを凝視した。街道の両側には森林が広がっている。草叢も繁茂している。とはいえ街道の様子が窺えないほど草木が生い茂っているというわけではない。少女と男の声は聞こえていたはずだ。明らかに剣呑な雰囲気を纏った黒衣の二人組の姿も目視できたはずだ。おそらくゴドは旅路というものがどれほど危険に満ちているか熟知しているのだろう。掏摸、野盗、そして獸。危険に対して敏くなければ、旅人は生きてゆけない。
ゆえに言外にこう含ませているのだ。
なぜ逃げないのか、と。
「事情は知りません」ラドゥはゴドを見た。「ですが、あなたたちが殺されかけているということはわかります。見捨てられませんでした」
「そのお気持ちは、感謝します」少女、シムカはラドゥの顔を見上げ、絞り出すような声で懇願した。「ですが、今すぐお逃げください。あの男たちは野盗の類いではありません。あれは〈鬣犬〉と呼ばれる、練達の傭兵です。ここにいれば、あなたもただではすみません。見ず知らずのお方を巻き込みたくありません、ですから、どうか今すぐ」
「何を馬鹿げたことを言っている」長身の男が少女の言葉を遮った。「俺たちの凶行を目撃された以上、逃がすわけがないだろう。運の無い童だ」男は鋭くラドゥを睨む。「誰であれ、俺たちの邪魔をする者には消えてもらう」
「まったく、世間知らずなガキだ」短躯の男が嗤笑した。「くだらない正義感から命を捨てるなど、理解しかねるな」
黒衣の二人組は剣の柄に手を置いた。
「老いぼれは俺が殺る。ガキはお前が始末しろ」
「さっさと済ませようぜ。お頭にどやしつけられるのは勘弁願いたいからな」
長身と短躯はゆっくりと歩き出し、不意に足を止めた。
「おいおい、お前等だけで愉しむのは無しだろうが」
野太い声が後方からあがった。
ラドゥは振り返る。
草叢からぬっと人影が姿を現した。ラドゥが潜んでいたのとは逆側の草叢だ。大柄な男だ。長身の男よりもさらに頭ひとつ分は大きいだろうか。二人組同様、夜のような黒衣を羽織っていた。
「さっきは獲物を横取りされたからな。おれにも遊ばせろ」
大柄な男はにやにやと嗤う。
「お前も充分殺しただろう」と長身。
「まったくだ」短躯が肩をすくめる。
前方に二人組。後方にひとり。退路を断たれた。
「譲ってやるのは構わんが、あまり汚すなよ」長身が眉を顰める。「それと、時間を掛けるな」
「彼奴には何を言っても無駄だ」短躯がやれやれと首を振る。「バラさなければ気が済まない異常者だ。ガキも老いぼれも、ただでは死ねないだろう。可哀想にな」
そう口にする短躯であったが、しかしその口調は愉しげだった。
長身の方も時間を気にしているだけで、その眼には陰惨な輝きがある。
血と暴力。それらを味わうことのできる人種。
大柄な男は黒衣を毟り取る。
ラドゥは男を観察する。
黒衣から現れたのは筋骨隆々たる肉体。剣は帯びていない。この躯こそが男最大の武器なのだろう。二人組の会話の『バラす』という単語が文字通り『解体す』という意味ならば、この男は尋常ならざる膂力を持ち合わせていることになる。
男は両手の指の骨を鳴らす。歯を剥くように嗤う。大抵の人間であれば、この男の形相に恐れ戦き、逃げ出すだろう。
現にシムカは震えている。ゴドも、死を覚悟したような険しい表情を浮かべている。
だが、ラドゥは平静だ。
恐怖など感じない。むしろ、その逆だ。彼の胸中で渦巻いているのは、煮え滾る闘争心だ。
傍らのゴドが、男を迎え撃つために剣を構え直した。
その切っ先を、ラドゥの手が制する。
「動かないでください」ラドゥはゴドを一瞥し、大柄な男に向かって一歩を踏み出した。「あなたはその少女の側にいてあげてください。俺が戦ります」
「無茶だ、君のような若者では、奴等には」
「大丈夫です」ラドゥは安心させるように笑みを作った。その笑顔は相変わらずぎこちなかった。「俺はこれでも、強いんです」
ラドゥは前方に向き直った。その顔に、もはや笑みはない。
見る者が見ればその表情の端々に、黒衣の男たち以上の血と暴力の臭いを嗅ぎ取ることができただろう。それは間違いなく、多くの獸を狩り、殺し、屠ってきた、狩人の面構えだった。
鋭い眼光でラドゥは男を射る。
「一度だけ警告してやる」静かに、だが厳然たる口調でラドゥは言った。「それ以上近づいたら、叩きのめす」
「この俺を叩きのめす?」男はおどけた調子で長身と短躯に肩をすくめて見せた。「ずいぶん威勢のいいガキがいるもんだな、ええ?」
「まったくだ」短躯が嗤い、
「さっさと殺せ」長身が催促する。
「わかってるさ」大柄な男は真っ直ぐにラドゥの元へ向かう。
「小僧、まともに死ねると思うなよ」
鬣犬と呼ばれる男たちは仕事の完遂を確信している。
目の前のガキを殺し、近衛の老い耄れを殺し、小娘を連れ去る。
赤児の腕を捻るより簡単な仕事だ。
失敗など、あり得ない。
万に一つも、あり得るはずがない。
男は一気に踏み込み、ラドゥの顔面めがけ拳を打ち出した。
そのはずだった。
直撃すれば顔面を軽々と砕くであろう男の拳は、
しかし、
打ち出せなかった。
男が動き出すのと同時に、ラドゥは仕掛けていた。
相手の踏み込みに合わせ、こちらも距離を殺す。密着するほどの至近距離では、大柄な男は思うように拳を振るえない。そもそも男はこちらが向かってくるなどと想定していない。一瞬、刹那、須臾。男の意識にわずかの空白が生ずる。その空白を、ラドゥは逃さない。
距離を詰める際、ラドゥは体重を軸足に乗せている。その力を生かし、回転する。体格の小さいラドゥの打撃は、眼前の男には遠く及ばない。
だからこそ遠心力を利用する。
速度を味方につける。
そして何より、ラドゥには、彼にしか持ち合わせていない武器がある。それは筋力を補ってあまりあるほどの力を彼に与える。
『躯の使い方が上手すぎる』
ガロにそう言わしめたほどの、圧倒的な才能。
完璧な身体操作により、遠心力、速度、重心を完全に一致させる。
すべてを乗せきった廻し蹴りが、男の腹部に叩き込まれた。
筋肉の鎧に包まれた巨体が、後退る。
苦痛の呻きと共に、大量の唾液が吐き出される。
息が乱れている。
膝頭が震えている。
だが、男は倒れない。
既の所で、男は突き出すはずだった拳を防御に回していた。練達の傭兵という風評は本当なのだろう。思いがけないラドゥの動きに判断が遅れたとはいえ、瞬時に行動を修正してきたのは男が猛者であることの左証だ。しかし、男の受けた衝撃は生半可なものではない。廻転を利用したラドゥの打撃は、獸の意識をさえ揺さぶる程の威力を秘めている。まして脚技、防御のうえからとはいえ、男の負った傷手たるや。
「やるな」純粋に、ラドゥは男を称賛した。「まさか防がれるとは思わなかった」
「貴様、何者だッ!」男は激昂し、咆えた。「この俺が、たった一撃で」
男の言葉はそれ以上続かなかった。
防御に使った男の両腕は震え、だらりと垂れ下がっている。腹部はがら空きだ。
その腹部に、再度脚技を見舞う。
飛び膝蹴り。
減り込む。
男は血を吐き散らす。その吐血を躱すようにラドゥは男の背後に回り、前屈みになった背中に飛び乗る。
戦いにおいて、ラドゥが叩き込まれた鉄則はただひとつ。
『徹底的にやれ』
ラドゥは男の蟀谷に容赦なく掌底を打ち下ろす。
腹部と頭部、二重の激痛によりバランスを欠いた男は前方につんのめる。
打ち下ろした掌底を滑らせ、男の頭髪を鷲摑み、倒れる男に全体重を乗せ、ラドゥはその顔面を地面に叩きつけた。
衝撃。
男の全身が痙攣する。
掌越しに鼻骨と頬骨が陥没する感触が伝わる。
「警告したろ」ラドゥはゆっくりと立ち上がる。「叩きのめすと」
倒れ伏した男を残し、彼はゴドとシムカの元へ戻る。
ゴドは驚愕したように、シムカは唖然とした表情でラドゥを見つめている。
だが、彼はふたりに一瞥もくれない。ラドゥが見ているのは黒衣の二人組だ。
(面倒だな)とラドゥは思う。
野盗相手であれば、今の一戦でケリが着いていただろう。仲間が徹底的に叩きのめされた場合、野盗たちが見せる反応はふたつ。命乞いをするか、四散するかのどちらか。
だが、地に伏した仲間を睨んでいる黒衣の二人組は冷静だ。
その顔に浮かぶのは怯みや動揺ではない。
あるのは闘志。そして濃く、重い、殺意。
ラドゥはシムカとゴドを守るようにふたりの前に出る。
二人組の躯から、殺気が揺らめき立つ。
「見誤った」暗い情動を湛えた声で、長身が呟いた。「気をつけろ、ただのガキじゃない」
「そのようだな」短躯は獰猛に歯を剥き出す。「彼奴がああも易々とやられるとは」
「あのガキの動きを見たな? 油断するな」
「油断など、もう消し去った。俺達は鬣犬だ」
「その通り。相手が誰であれ、後れを取ることなど許されない。本気で行くぞ」
「ああ。何があろうとあの小僧を殺す」
彼等が剣を抜く寸前、
「やめろ」ラドゥは最後の警告を発した。「そいつを抜いたら、手加減しない」
その言葉は、しかし二人組の怒りに油を注いだだけだった。
抜き放たれた二本の刃。
同時に、ラドゥも引き抜く。
だが、彼が抜いたのは剣ではない。重剣は獸を戮す為の武器。ラドゥが手にしたのはジャックから贈られたナイフだ。
二人組は跳躍するように、一気に駆けてくる。
はためく黒衣。
迫り来る殺気。
右と左。明らかに挟撃の構え。
ラドゥはナイフを軽く握る。刃が手に同化したような感覚。小さく、軽く、小回りの利くこの刃物は、比類無き殺しの技量を持つラドゥの手によく馴染む。
ゆえに勝負は一瞬で決まる。
ラドゥの「手加減しない」という宣言は「瞬殺」と同義だ。
先ほどの男を相手にした時とは速度も、精度も、そして殺意も、段違いだ。
二人組は、疾風の如く踏み込んでくる。
指呼の間。
左右から剣筋が迫る。
だが、二筋の切っ先よりも、ラドゥの方が疾い。
マントが開け、二度、閃光が燦めいた。
一度目の閃光は順手。薙ぐような一閃。短躯の喉が裂ける。
二度目の閃光は逆手。抉るような一撃。長身の胸が穿たれる。
ラドゥは半歩、退く。
血煙を噴きながら、二人組は縺れ、絡まり、一瞬前までラドゥが立っていた場所に、斃れ伏す。
ナイフから鮮血が滴る。
ラドゥは二人組を見下ろす。
黒衣の下から、鮮血が広がっていく。呼吸が短くなる。呻きが漏れる。わずかに痙攣したあと、男たちは動かなくなる。
二人組が完全に息絶えたのを確認すると、ラドゥはナイフを腰帯の鞘に戻し、
そこで、動きを止めた。
わずかだが、殺気を感じた。
ラドゥの眼が据わる。
刹那の索敵。
気配は背後。
ナイフが掌で回転し、刃の側面を二本の指が挟む。
ラドゥは予備動作無しに振り向き様、ナイフを投擲する。
燦めく刃は草叢に吸い込まれる。
その軌跡を追い、ラドゥは草叢に飛び込む。
ナイフは一本の樹木に黒衣の切れ端を縫い付けていた。
樹肌が血で濡れている。
が、姿はない。仕留めきれなかったようだ。
気配からいって、ここに潜んでいたのはひとりだろう。長身と短躯の後援か。あるいは偵察や斥候のような役割の者か。〈鬣犬〉と呼ばれる集団がどの程度の規模なのかはわからない。だが、ラドゥが相手をした三人と、ここに潜んでいたひとりで終わりということはないだろう。
逃げたひとりは、間違いなく仲間の元へ帰るはずだ。
(放っておけば、面倒事がさらに面倒になりそうだな)
ラドゥは鋭い眼差しで地面を見やる。
急いでいたうえに手傷を負っている。逃亡者は痕跡を隠せていない。
血痕、足跡、それに臭跡。
ラドゥならば、追える。
(見つけ出して殺すか)
ラドゥの内に兆した暗い感情は、
「しっかりして、ゴド!」
少女の悲痛な叫びに掻き消された。
我に返ったようにラドゥは顔を上げ、街道に戻った。
戦う為に戦ったわけではない。殺す為に殺したわけではない。
シムカは蹲るゴドに抱きついている。ゴドは動かない。気絶しているようだ。
ラドゥはふたりに駆け寄る。
駆け寄りながら、思う。
(俺はふたりを助けるために戦ったんだ)
戦う為に、殺す為に、そして狩る為に、狩る。
そんな世界もある。
血で血を洗うことでしか生き残れない場所も、確かに存在する。
だが、此処は〈外〉だ。
〈澱底〉ではない。
ガロなら甘いと笑うかもしれない。
それでも、とラドゥは思う。
(俺は、助けることを優先したい)
ラドゥは少女の肩に手を置く。びくりと彼女は躯を強張らせたが、相手がラドゥだと気づくと縋るようにラドゥを見つめた。
「お願いです、助けてください、このままじゃ、ゴドが」
頷き、ラドゥはゴドを仰向けにし、上半身の衣服を脱がす。まず眼に飛び込んできたのは胸元の傷痕だ。間違いなく獸によるものだった。が、古い。相当前に受けた傷だろう。問題は腹部の刀傷だ。見たところ深くはない。だが出血が多い。ラドゥは雑嚢から清潔な布、繃帯、それと消毒用の強い酒、止血の薬草を取り出し、応急手当をする。ジャックたちと訪れた狩人の砦で色々貰っておいて良かった。とはいえあくまでも急場しのぎであり、ちゃんとした医術師に見せなければ危ない。それが無理だとしても、せめてしっかりとした家屋など、安全な場所で休ませなければ、彼の躯は持たないだろう。
「この近くに街はありますか?」繃帯をギュッと締めながら、ラドゥはシムカに聞く。
わずかの間のあと「わかりません」とシムカは首を振る。
「わたしは、この国の民ではありません」俯きながら呟く。「ここがどの辺りなのか、何という地方なのか、わたしにはまったくわからないのです」
「最後に人里に立ち寄ったのは?」
「二日前です。ですが、わたしたちは馬車で移動していました。戻るとしても、人の脚では、何日かかるか」涙に濡れた眼で、シムカはラドゥを見た。「このままでは、ゴドは助かりませんか」
「助かりません」ラドゥは率直に頷いた。「このままここに置いておけば、そう長くは持たないと思います」
だから、とラドゥは腰から重剣を外し、シムカに差し出す。
戸惑ったような表情を彼女は浮かべる。
「急がなければなりません。躯を軽くしたい」ラドゥは雑嚢も少女の足下に置く。「この人は俺が背負います。あなたは俺の剣と荷物を持ってついてきてください。その剣は重いですが、その雑嚢にしまって担げば、あなたでも持てると思います」
「どこに、行くのですか?」
「山です」ラドゥはゴドを背負い、シムカを促し森林に踏み入る。
ラドゥもこの国の人間ではない。ここが何処なのかわからない。だが、ひとつだけ村を知っている。彼が今朝発ったばかりの、山深い谷間にある、のどかな村を。
少し時間はかかる。
が、他に手はない。
それに先ほど取り逃がした鬣犬が追っ手を差し向けてくる可能性がある。村への山道はほとんど獣道だ。入り口もわかりづらい。よほど注意深く山麓を奥深くまで調べなければ、見つけることはできない。うまくいけば、追っ手を撒ける。
ラドゥは痕跡が残らないよう慎重に歩く。
剣の重さに、わずかにふらつくシムカを先に歩かせ、その足跡を消しながら進む。
獣道に辿り着く。ラドゥが先導に立つ。ここからは先は、少し急ぐ。
【2】
ザルファは酒場の扉を開いた。
店内は薄暗い。差し込む夕陽に何人かの酔客が眼を細める。
ザルファはゆっくりと店内に入る。点々と配置されたテーブルには精悍な面構えの男たちが座っている。皆一様に青色の制服に身を包んでいる。ということは、この男たちは街の衛兵だ。よく見れば客のほとんどが制服姿だ。仕事を終えた衛兵たちが集う店がここなのだろう。彼等はテーブルを縫うように歩くザルファに不躾な視線を浴びせてくる。
そこには嫌悪と敵意が入り交じっている。
が、ザルファは気にしない。こういう視線にはうんざりするほど慣れている。南部ではそれほどでもないが、〈夜霧〉がほとんど発生しない西部では、彼のような職業の人間は忌み嫌われる。
昔は、彼がまだ血気盛んな若造だった頃は、こういう視線を向けてきた人間は、問答無用でブチのめした。
ザルファは狂暴な男だ。燃えるような赤髪と餓えた虎のような獰猛な眼つきは、彼の内奥に渦巻く見境のない暴力衝動を体現しているかのようだった。
幼少の頃から、舐められるのが好きではなかった。
それは今も変わらない。相手が誰であれ、馬鹿にされるのは好きではない。
ゆえに不躾な輩には、暴力で応えた。
歯を砕き、腕を折り、血反吐を吐かせた。
相手が堅気でなければ、殺した。
何年間も、彼はそんな風に過ごしてきた。
だが、ある時気づいた。
キリが無い、と。
どれだけブチのめそうと、どれだけ殺そうと、そういう奴等は蛆のように涌いてくる。
だから、視線くらいなら気にしないことにした。
それに立場もあった。その時には、もうザルファは〈協会〉を背負うほどの位地にまで上り詰めていた。上層部からも素行を改めるよう、再三警告されていた。それでも彼が馘首されなかったのは、その圧倒的実力がゆえだった。
彼は大人しくなった。少なくとも、表面上は。
ザルファはカウンターに肘をつき、ささくれ立った表面を指先で叩いた。
太り肉の店主がザルファの正面に立った。しかし店主の表情は客の注文を取りに来たそれではない。不愉快そうに眉根を寄せ、尊大に腕を組み、汚物を見るような眼つきでザルファを睨めつけている。
「火酒だ」
ぶっきらぼうにザルファは言う。
「アンタ、〈狩人〉だろう」
注文を無視し、店主はそう吐き捨てた。
ザルファは暗い色合いの長外衣を羽織っている。血を目立たせない為に狩人が暗色を好むというのは事実であり、実際ザルファのコートはこれまで殺してきた人間と獸の血を大量に吸っている。見る者が見れば、彼が狩人であると瞬時に見抜くことができるだろう。
ザルファが纏っている雰囲気も特徴的だ。大人しくなったとはいえ、彼が抱える狂暴な性質は抑えようと思って抑えられるものではない。勘の鋭い者なら、その内奥から漏れ出す荒々しい殺気に、彼がただ者でないと認めるだろう。
だが、店主と客たちがザルファの正体に気づいたのは、もっと単純な理由からだった。
コートの胸元、そこで鈍く輝く、〈協会〉の徽章。
狩人は嫌われている。無駄な争いを避ける為に、西部では徽章や狩人証を隠す者たちは多い。
もし堂々と徽章をつけている狩人がいるとすれば、それは血を好んでいるから。
あるいは狩人という生業に誇りを持っているから。
もしくは、その両方か。
「俺の注文が聞こえなかったのか?」ザルファは先ほどよりも強くカウンターを指先で叩く。「火酒だ」
「悪いがにいちゃん、狩人に出す酒は、うちの店には置いてねぇんだ」
まったくその通りだ、と店内の至るところから野次が飛ぶ。野次はどんどん大きくなり、ついには店内を覆い尽くす。
「そうか」野次が消えるのを待ち、ザルファは店主に嗤いかけた。「いいからさっさと酒を出せ」
「アンタに出す酒は無いと言ってるはずだぜ」
「なぁ、俺は別に喧嘩するためにここに来たわけじゃない。酒を飲みに来たんだ。火酒を一杯飲んだら、俺は金を払い、入ってきた場所から、今度は出て行く。礼儀正しくな。簡単だろ?」
「まず第一に、おれは一見の客には酒を出さねぇ。肥溜めみてぇな酔い方をする輩が多いからな。第二に」店主はザルファの正面のカウンターに拳骨を叩きつける。「さっきから言ってるはずだぜ。テメェ等みたいな穢れた奴等に出す酒は、うちの店には一滴だろうがねぇんだよ。わかったら、その尻を蹴り出される前に、さっさとおれの店から出て行きな、獸を殺すことしか能のない」
クソ狩人野郎、そう言おうとした店主はしかし、次の瞬間、その額をカウンターに叩きつけられていた。
一回ではない。二回、三回、四回、五回。
店主の生死になどまるで頓着しない、無造作な暴力。
額が割れ、鼻が折れ、溢れ出た血がカウンターに広がっていく。飛び散った歯が、血の海に点々と浮かぶ。
「多少の事なら眼を瞑ってやるんだが」最後に一際強く頭を打ちつけると、ザルファは掴んでいた店主の髪から手を離した。店主はずるずると、吸い込まれるように床に倒れた。「お前は煩すぎる。それとな、俺の前で狩人を侮辱するな」
やれやれと肩をすくめ、ザルファは振り返る。
衛兵たちが立ち上がっている。
全員、熱り立っている。
集団の中から、ひとりの男がザルファに向かってくる。
制服は着ていない。が、衛兵たちと同じように屈強な体つきをしている。何より暴力の臭いがする。酒場ではよく争いが起きる。強盗なども日常茶飯事だ。ゆえに人が雇われる。男は右腕に紋章付きの腕輪をしている。〈組合〉に所属している証だ。荒事を生業とする者どもが仕事を求め登録する組織。この男は組合から派遣された用心棒か何かだろう。
ザルファの基準では、用心棒というのは堅気ではない。
用心棒はこれ見よがしに短剣を引き抜く。
「貴様、よくも俺の雇い主を」
用心棒が詰め寄る。
ザルファは嗤う。
餓えた虎のような眼に、抑えきれぬ衝動が浮かぶ。
逡巡は、無い。こと殺しに関して、彼は躊躇ったことがない。
ザルファの右腕が、腰の剣にゆっくりと伸びる。
刹那、その腕が消えた。
鞘から剣を引き抜く音と戻す音が、ほぼ同時に響いた。
不快な、甲高い金属音。
血柱が噴き上がり、店内が赤く染まった。
ごとりと、用心棒の首が床を転がり、ひとりの兵士の足下で止まった。理解の追いつかない彼は、その首を見つめた。
次の瞬間、彼は嘔吐した。
衛兵という職業柄、死体など見慣れている。これまで色々な遺体を見てきた。だが、足下の生首、その異様な切断面は、彼がはじめて目の当たりにするものだった。
ザラザラと、切断面は毛羽立っていた。ごっそりと抉れている部分もあった。
まるで鋸挽きされたように、あるいは馬車の車輪で轢断されたかのように、骨肉が削り断たれていた。
一体、どのような刃物をもちいれば、このような切断面になるというのか。
「血腥せぇな。飲む気が失せちまった」
首無しの死体を邪魔くさそうに蹴り払い、ザルファは歩き出す。
唐突に起こった兇行に、衛兵たちはしばし唖然としていた。しかし、出口に向かっている彼の姿に気づくと、全員がザルファを取り囲んだ。
「なんだ、俺を捕縛でもするつもりか?」かったるそうに周囲を見回す。「あまりオススメはしないな」
そう言って彼は懐からあるモノを取り出した。
それは円徽章だった。子供の握り拳程度の大きさだろうか。鎖の先端でぶらぶらと揺れるそのメダルを眼にした瞬間、衛兵たちは息をのんだ。数歩、後退るものがいた。青ざめ、冷や汗を流すものさえあった。
ザルファは見えやすいようにメダルを掲げた。純銀で鋳造されたメダルは冷たい輝きを放っている。中央に獸の貌が彫金されている。あまりにも悍ましい彫物の眼窩には、血のような紅玉が填め込まれている。
赫眸の獸。
この彫刻は獸の生首を表したものだ。
意味合いは戦利品。死せば霧に還る獸から戦利品など得られようはずもない。だが、赫眸の獸を狩猟した、その戦いは、その功績は、残されて然るべきなのだ。この彫刻は、そんな協会の信念の表れだ。
彫刻の下には、狩人の氏名と等級をあらわす数字が刻まれている。
そう、このメダルは狩人証だ。
そしてこの狩人証を持つ者は、協会の中でもほんの一握り。
人間性などは考慮されない。倫理も道徳も不要だ。それがたとえザルファのような異常者であろうと、関係ない。
このメダルが贈呈される基準は、ただひとつ。
最高の狩人であるかどうか。
つまり、
〈弐號種を殺せるかどうか〉
「俺が誰なのかわかったんなら、さっさと道を空けろ」一級狩人のザルファは、嗤う。「まぁ、戦りたいっていうなら相手になってやるが、まともに死ねると思うなよ」
酒場を出ると、すでに夕陽は沈みかけていた。夜の気配に誘われ、歓楽街は喧噪であふれはじめている。
「田舎町でこれか」ザルファは眼を細める。
何回訪れても、西部には驚かされる。
夜霧が大量発生する南部では考えられないほどの賑わい。南部での落日は、狩りの始まりを意味する。だが西部の落日は、街の歓楽の始まりの合図だ。
同じ国の中で、こうまで違うとは。
「本当に退屈な場所だ」
人混みに紛れ、ザルファは歩く。目指すは歓楽街の裏、娼館通り。
ザルファにとって西部の長所は、ひとつだけ。
娼婦が美人揃いのところだ。
西部の娼婦たちの肌は柔らかく、色艶がよく、いい匂いがする。顔立ちは整い、唇は淫靡に赤く濡れている。何より険がない。南部の人間の顔には男にしろ女にしろ、険が染みついている。だが、この地の人間の顔にはそれがない。先ほどの衛士たちの顔にすら、それは見当たらなかった。
平和だ。
霧の臭いがない。澱の気配がない。
咆吼が響かない。血肉を啜る音が聞こえない。
血に煙る戦場がない。狩りの昂揚を味わえない。
獸がほとんど発生しない。
退屈極まりない。
酒を飲むのも娼婦と戯れるのも、所詮は暇つぶし。いい加減厭きた。
「そろそろ南部にでも戻るか」
そう独りごちた時、ひとりの男がザルファの横を駆け抜けていった。ザルファは立ち止まった。男の通った道には血が点々と落ちていた。男は人混みを縫うように走り、彼の目指す娼館通りの方へと消え去った。
「どういうことだ?」ザルファは眉を顰めた。男の服装に見覚えがあった。闇夜のような黒い外套。ああいうマントを羽織る傭兵どもを知っている。男の臭いにも覚えがあった。血と死。人を殺す事を生業とする者に特有の体臭。ああいう臭いを漂わせる傭兵どもを知っている。
怪訝そうなザルファだったが、すぐに愉快げに唇をつり上げ、
「なんでこんなところに鬣犬がいやがる」
くぐもった嗤い声が、通りに低く響いた。
ドムグは左右に美姫を侍らせ、満足げに笑った。
「どうでしたか、わたしたちの技巧は?」
「お気に召していただけました?」
「最高だったぜ」ドムグはふたりの娼婦を抱き寄せる。ふたりはドムグの浅黒く分厚い胸板に頭を凭せかける。筋骨隆々のドムグの躯には、様々な刺青が彫られている。そのすべてが死肉を喰ら鬣犬をモチーフとしたものだ。女たちはその刺青を指でなぞり、舌を這わせる。
ドムグはふたりの耳元に顔を寄せる。「とんでもない女どもだ。高い金を払っただけのことはあるぜ」
その言葉にふたりは淫靡に微笑み、
「まだまだ、こんなモノじゃありませんことよ?」
「頂いた金額分、たっぷりご奉仕しいたしますわ」
そうして三人が再び情事に耽ろうとした時、
「お頭ッ!」
男の荒々しい声が室内に響いた。
舌打ちし、ドムグはベッドから上半身を起こした。
「俺が女を抱くのを邪魔する野郎は何奴だ?」
ドムグは部屋の入り口を睨む。黒衣の男が立っていた。肩で息をしている。ほとんど脱げかけたフードから覗く顔には玉のような汗が浮かんでいる。
「ジジか」ドムグは怪訝そうに眉を顰めた。
商品を捕らえる為に放った手勢のひとりだ。
ドムグは不愉快そうに女たちの耳元で囁く。
彼女たちは頷き、薄衣を羽織ると部屋から退出する。
女たちの姿が完全に消えてから、ドムグはジジを手招く。
「まさかとは思うが、また逃げられたわけじゃねぇだろうな」
すでに一度、鬣犬は小娘を取り逃している。ミカヅツ国とゾルガ国との国境付近での事だ。簡単な仕事のはずだった。だが国境警備の衛兵たちから横やりが入り、取り逃した。衛兵を撒き、夜闇に乗じ、鬣犬は此処ゾルガ国に侵入した。小娘たちが何処を目指しているのかはわかっていた。すぐに目的地までの街道を調べた。国境を越えたことで安心しているのだろう、小娘たちの歩みは遅くなっていた。彼等は待ち伏せをすることにした。鬣犬の首領であるドムグは、この田舎町で成功の報を待っていた。
彼の忠実な配下が小娘を、大事な商品を連れて目の前に現れるはずだった。
そのはずだったのだ。
「すいません、お頭」ジジは正面を見つめながら呟いた。「失敗しました」
瞬間、ジジは横面を殴り飛ばされた。
血と歯が宙を舞った。
だが、彼は何をされるのかわかっていたのだろう、踏ん張り、倒れることだけは免れた。
ドムグは拳に付着した血をシーツで拭い、怒りを静めるように深く息を吸うと、ベッドに腰掛けた。
「話せ」
姿勢を正し、ジジは何があったのかを報告する。
襲撃にあたったのは四人。怪力自慢の大男、レド。いつでも冷静沈着な長身の剣士、ギルヴァン。その相棒、短躯のバルロイ。そしてジジ。彼等は山麓近くの街道で小娘の馬車を襲った。護衛は彼等の倍はいたが、歴戦の猛者である鬣犬の敵ではない。彼等が少数での襲撃を選んだのは事を大きくしたくないという思惑もあったが、一番は国境での戦いで相手の戦力をある程度把握できていたからだ。四人で十分だった。だが、ひとつだけ見誤った。小娘お付きの男、名はゴドといったか、あの剣士だけはなかなかどうして一筋縄ではいかなかった。剣戟の隙をつき、小娘を連れ、逃げた。気づいたバルロイが斬りかかるも捌かれ、加勢したギルヴァンがゴドの腹部を撫で斬るも、決死の覚悟で向かってきた護衛たちに邪魔され、国境の時同様、またも取り逃がした。
だが、あの時とは状況が違う。衛兵もなければ馬車もない。護衛は負傷した老剣士のみ。捕らえるのは容易い。
すぐにギルヴァンとバルロイが後を追った。護衛の死体で遊んでいたレドも、それに続く。
あの三人がいればすぐに片はつくだろう。ジジは護衛どもが完全に息絶えているか確認してから追跡に移った。
彼は街道脇の草叢を進んだ。ギルヴァンとバルロイは真っ直ぐに獲物を追っている。ならばレドと自分は、回り込むように獲物を追い、退路を断つべきだ。
鬣犬の狩り。骨身に染み込んだ傭兵の兵法。
もっとも、着いた時にはすべてが終わっているだろう。
剣士は殺され、小娘は捕らえられている。
あとは帰還するだけ。酒を飲み、女を抱き、故国へ帰る。
そうなるはずだった。
あのガキが、レドをブチのめすまでは。
「ガキ?」ドムグは身を乗り出す。「まさかあの小娘、喚んだのか?」
「いえ、聞いていたとおり、あの小娘は力を使いこなせていないようです。ガキというのは、小娘の事じゃありません」
ジジは思い出す。草叢の狭間から盗み見た光景を。
薄汚れたマントを羽織った旅人風の少年が、レドを叩きのめした。体格の差など物ともしなかった。気がついたときには、レドは顔面を地面に叩きつけられていた。
その後の光景も、信じられないものだった。
「ギルヴァンとバルロイが一瞬で殺られたっていうのか?」ドムグは懐疑的な視線をジジに向ける。「あのふたりは古参だ。俺は軍にいた頃から奴等を知ってる。相手が誰であれ、そう簡単に後れをとるわけがねぇ。まして相手がガキだと? お前吹かしてるんじゃねぇだろうな」
「信じられないでしょうが、事実です」ジジは右肩の傷に触れる。完璧に気配を殺していた。だが、気取られた。視界で何かが燦めいた。あのガキは一瞬でこちらの位置を把握し、驚くほどの精確さで、ナイフを投擲した。間一髪で避けることができたが、危なかった。
草叢の隙間から、走り寄るガキの眼が見えた。
今思い出しても、背筋に冷たいモノが走る。
獲物を狙う猛禽類のような瞳。
恐れを振り払うように、ジジは首を振る。
「奴が何者なのかはわかりません。ですが、あれはただのガキじゃない。もしあのガキが小娘の護衛の一員なのだとしたら、相当に厄介なことになります」
「護衛の中にガキなんていなかったはずだが」苛立たしげにドムグは顎を掻く。「お前の話が事実なら、確かに面倒なことになる」
「楽な仕事のはずでしたが」
「まあな」ドムグは舌打ちする。「いや、不測の事態がついて回るのが戦場か。そもそも、すでに一度逃げられてる。少し手を抜きすぎたようだ」
「次は必ず捕らえます」
「当たり前だ」ドムグは獰猛に唸る。「全員招集しろ。もう手は抜かねぇ。鬣犬総出であの小娘を」
そこでドムグの言葉が止まった。彼は部屋の入り口を凝視していた。
つられてジジも振り返る。
男がひとり立っていた。暗い色合いのロングコートを羽織った赤毛の男。遠目には優男のように見えなくもないが、しかし、餓えた虎のような双眸が、男の端正な顔立ちを台無しにしていた。
「よう、久しぶりだなドムグ」心底愉しそうに、男は嗤った。
「どういうことだ」ドムグは驚愕したように眼を見開いた。「なんであんたがこんなところにいるんだ、ザルファ」