掌編〈仕上げ〉
〈仕上げ〉
最後の一匹が霧散した。ラドゥは殺気を解き、肩から力を抜いた。頬、手の甲、そして右手に握る剣の鋒から、ゆるりと霧が立ち上る。──血がほどけたのだ。
死んだ獸は何も残さない。屍体はもちろん、抜け落ちた体毛や撒き散らされた血液に到るまで、すべてが黒い霧に還る。
獸とは現世の存在ではない。
此処とは別の世界、異なる次元に棲まう存在。
闇。穢れ。悍ましい”魔”。
この地は、魔で溢れている。
ラドゥは右手の剣に視線を落とす。短めな刃渡りの、無骨な作りの刀剣。獸の骨肉を断ち斬る為その刃は分厚く、刀身は三日月のように独特な曲線を描いている。師にこの剣を手渡されてからどれだけの歳月が過ぎ去ったのか、ラドゥは覚えていない。〈澱底〉に季節は存在しない。此処の風景は常に色褪せている。鬱蒼たる奇怪な森林、底無しの沼地、高々と聳える絶壁……そして夜霧。宙を漂い、鼻孔を濡らし、視界を遮る黒い霧。灼熱の陽射しが降り注ぐこともなければ、冷たい雪が降り積もることもない。瑞々しい緑が芽吹くこともなければ、鮮烈な紅葉が木葉を染めあげることもない。この地は澱んでいる。滞留している。黒く重たい霧に、すべてが鎖されている。
変わらぬ風景。変わらぬ日々。──その連続。
この地にいると、時間の感覚が鈍る。
だからラドゥは、自分がいつこの剣を手渡されたのか、正確に思い出せない。背は伸びた。膂力も身についた。何より強くなった。一年や二年ではない。傷を増やし、鍛錬に身を砕き、師と共に、何匹もの獸を仕留めてきた。いまやラドゥはこの剣を手足のように自在に操ることができる。五年か六年か……あるいはそれ以上か。何にせよ、かなりの歳月をラドゥは獸を狩ることに捧げてきた。先刻の獲物は伍號種が三匹に肆號種が二匹。今のラドゥには容易い殺し。
ラドゥは剣を鞘に戻し、足下の外衣を拾い上げる。
「大したもんだ」
草を踏み分ける跫音が背後から聞こえた。
「小物相手とはいえ、あの数を軽々と片付けるとはな」ラドゥの隣で男が立ち止まる。「おまけに息ひとつ乱しちゃいねぇ。さすがは俺の弟子といった所だな、ラドゥ」
「見てたんなら手伝ってくれてもいいだろ」ぼやきながら、ラドゥは男を見上げる。頭ふたつ分は高いであろう上背。衣服越しでも見て取れる分厚い肉叢。そして飢えた狼を思わせる、獰猛な顔つき。その顔に向かって、ラドゥは云う。「少しは働いたらどうだ、ガロ」
「口の利き方がなってねぇな。俺はお前の師匠だぞ」
「『云いたいことは好きに云え』。そう教えたのはアンタだろ」
「覚えてねぇな」
「歳かな」
「馬鹿云うな」鼻を鳴らし、ガロは腰にぶら下げた布袋を叩く。もぞもぞと、袋が内側から不気味に蠢く。「蛇だ」そう云って、ガロは犬歯を剥く。「それも一匹じゃねぇぜ、大猟だ。俺がそのへんで油を売ってると、まさか本気で思ってたわけじゃねぇだろうな。オメェの師匠はいつだって狩人なんだよ」
ラドゥは外衣を羽織り、空を見上げる。薄昏い。霧越しに残照が仄朱い。夜が迫っている。「腹が減った」
「そりゃそうだろうよ」ガロは腰の布袋を再度叩き、呵々と笑う。「さっさと塒に戻って晩飯にしようぜ。たらふく喰わせてやるよ」
下生えを踏み分けながら、師弟は黙々と森林を歩む。ラドゥの視線の先で、薄汚れた裾端が揺れている。ガロの外衣は黒と見間違うほど血に塗れている。死んだ獸は何も残さない。だが、例外もある。布地に染みついた血液は、決して消えない。外衣に、穿袴に、革編靴に飛び散った血染みは、永遠にそこに残り続ける。
血染みの数は、狩人の腕前を物語る。
ガロは、膨大な獸の血を纏っている。
──何者なのだろう。
ラドゥはガロの背中を見つめながら、胸中で呟く。なぜ、こんなにも強いのだろう。なぜ、澱底に身を置いているのだろう。なぜ、俺を拾ってくれたのだろう……一体、ガロは何者なのだろう。疑問は、いつもその問いに帰着する。ラドゥは師の過去を知らない。何ひとつ、本当に何ひとつ知らない。詮索したことはある。折に触れて、ラドゥはガロの素性を探り出そうと試みてきた。しかしその度に逸らかされる。苦笑し、眼を瞑り、最後は重苦しい沈黙を以て師はラドゥの追求を一方的に打ち切る。腰に佩いた重剣の鞘、そこに彫り込まれた豺狼の横顔を指先で擦りながら、ガロは狼のような鋭い眼差しで遠方を睨み据える。
そしてひたすらに口を噤む。
その沈黙が明確に告げている。
何も訊くな。
不意にガロは立ち止まる。
鼻孔を掠める霧の臭い、その異変に、遅まきながらラドゥも気がつく。
ガロは鼻先の空気を指先で摘まむ。人差し指と親指を擦り合わせ、ゆっくりと離す。じっとりと、指先を黒い霧が濡らしている。「濃くなってやがるな」
ガロに倣い、ラドゥも眼前に手を差し伸べる。空を掻く掌が、わずかに重い。「もうそんな時期か」
澱底に季節はない。
だが、周期はある。
〈薄霧〉と〈濃霧〉。
たえず巡り続ける、夜霧の周期。
数日中に、薄霧の日々は終わりを迎えるだろう。
これから訪れるのは、澱底で最も危険な濃霧の日々。
「──頃合いかもしれねぇな」
ガロは指先の霧を穿袴で拭い、
「直、アレが産まれる」
そう云って、振り返る。
瞬間、ラドゥのうなじの毛が逆立つ。
狼を思わせる獰猛な双眸が、鋭くラドゥを射貫く。
ガロはラドゥに近づき、その肩に大きな手を乗せる。
「さっきの戦いを見ていて確信したぜ。今のオメェなら、あるいは」
ガロの指先が、ラドゥの肩に喰い込む。応えるように、ラドゥはガロを見上げ、強く拳を握る。
その拳が、わずかに震える。
「怖いか?」
「武者震いだ」
「そう来ねぇとな」ガロは低い声で笑い、「なら、修業の仕上げといこうぜ」
そうしてガロは、最後の試練をラドゥに突きつける。
「オメェひとりで〈赫眸〉を狩れ」
〈了〉




