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ラドゥと旅路と獣狩り  作者: あびすけ
【ラドゥと少女と獣憑き】
14/15

掌編〈仕上げ〉





〈仕上げ〉

 最後の一匹が霧散した。ラドゥは殺気を解き、肩から力を抜いた。頬、手の甲、そして右手に握る剣の鋒から、ゆるりと霧が立ち上る。──血がほどけたのだ。

 死んだケモノは何も残さない。屍体はもちろん、抜け落ちた体毛や撒き散らされた血液に到るまで、すべてが黒い霧に還る。

 獸とは現世うつしよの存在ではない。

 此処とは別の世界、異なる次元に棲まう存在。

 闇。穢れ。悍ましい”魔”。

 この地は、魔で溢れている。

 ラドゥは右手の剣に視線を落とす。短めな刃渡りの、無骨な作りの刀剣。獸の骨肉を断ち斬る為その刃は分厚く、刀身は三日月のように独特な曲線をえがいている。師にこの剣を手渡されてからどれだけの歳月が過ぎ去ったのか、ラドゥは覚えていない。〈澱底オリゾコ〉に季節は存在しない。此処の風景は常に色褪せている。鬱蒼たる奇怪な森林、底無しの沼地、高々と聳える絶壁……そして夜霧。宙を漂い、鼻孔を濡らし、視界を遮る黒い霧。灼熱の陽射しが降り注ぐこともなければ、冷たい雪が降り積もることもない。瑞々しい緑が芽吹くこともなければ、鮮烈な紅葉が木葉を染めあげることもない。この地はよどんでいる。滞留している。黒く重たい霧に、すべてがとざされている。

 変わらぬ風景。変わらぬ日々。──その連続。

 この地にいると、時間の感覚が鈍る。

 だからラドゥは、自分がいつこの剣を手渡されたのか、正確に思い出せない。背は伸びた。膂力も身についた。何より強くなった。一年や二年ではない。傷を増やし、鍛錬に身を砕き、師と共に、何匹もの獸を仕留めてきた。いまやラドゥはこの剣を手足のように自在に操ることができる。五年か六年か……あるいはそれ以上か。何にせよ、かなりの歳月をラドゥは獸を狩ることに捧げてきた。先刻の獲物は伍號種が三匹に肆號種が二匹。今のラドゥには容易い殺し。

 ラドゥは剣を鞘に戻し、足下の外衣マントを拾い上げる。

「大したもんだ」

 草を踏み分ける跫音が背後から聞こえた。

「小物相手とはいえ、あの数を軽々と片付けるとはな」ラドゥの隣で男が立ち止まる。「おまけに息ひとつ乱しちゃいねぇ。さすがは俺の弟子といった所だな、ラドゥ」

「見てたんなら手伝ってくれてもいいだろ」ぼやきながら、ラドゥは男を見上げる。頭ふたつ分は高いであろう上背。衣服越しでも見て取れる分厚い肉叢ししむら。そして飢えた狼を思わせる、獰猛な顔つき。その顔に向かって、ラドゥは云う。「少しは働いたらどうだ、ガロ」

「口の利き方がなってねぇな。俺はお前の師匠だぞ」

「『云いたいことは好きに云え』。そう教えたのはアンタだろ」

「覚えてねぇな」

「歳かな」

「馬鹿云うな」鼻を鳴らし、ガロは腰にぶら下げた布袋を叩く。もぞもぞと、袋が内側から不気味に蠢く。「蛇だ」そう云って、ガロは犬歯を剥く。「それも一匹じゃねぇぜ、大猟だ。俺がそのへんで油を売ってると、まさか本気で思ってたわけじゃねぇだろうな。オメェの師匠はいつだって狩人なんだよ」

 ラドゥは外衣を羽織り、空を見上げる。薄昏い。霧越しに残照が仄朱い。夜が迫っている。「腹が減った」

「そりゃそうだろうよ」ガロは腰の布袋を再度叩き、呵々と笑う。「さっさとねぐらに戻って晩飯にしようぜ。たらふく喰わせてやるよ」




 下生えを踏み分けながら、師弟は黙々と森林を歩む。ラドゥの視線の先で、薄汚れた裾端が揺れている。ガロの外衣は黒と見間違うほど血に塗れている。死んだ獸は何も残さない。だが、例外もある。布地に染みついた血液は、決して消えない。外衣に、穿袴ズボンに、革編靴ブーツに飛び散った血染みは、永遠にそこに残り続ける。

 血染みの数は、狩人の腕前を物語る。

 ガロは、膨大な獸の血を纏っている。

 ──何者なのだろう。

 ラドゥはガロの背中を見つめながら、胸中で呟く。なぜ、こんなにも強いのだろう。なぜ、澱底に身を置いているのだろう。なぜ、俺を拾ってくれたのだろう……一体、ガロは何者なのだろう。疑問は、いつもその問いに帰着する。ラドゥは師の過去を知らない。何ひとつ、本当に何ひとつ知らない。詮索したことはある。折に触れて、ラドゥはガロの素性を探り出そうと試みてきた。しかしその度にはぐらかされる。苦笑し、眼を瞑り、最後は重苦しい沈黙を以て師はラドゥの追求を一方的に打ち切る。腰に佩いた重剣の鞘、そこに彫り込まれた豺狼の横顔を指先でなぞりながら、ガロは狼のような鋭い眼差しで遠方を睨み据える。

 そしてひたすらに口を噤む。

 その沈黙が明確に告げている。

 何も訊くな。

 


 不意にガロは立ち止まる。

 鼻孔を掠める霧の臭い、その異変に、遅まきながらラドゥも気がつく。

 ガロは鼻先の空気を指先で摘まむ。人差し指と親指を擦り合わせ、ゆっくりと離す。じっとりと、指先を黒い霧が濡らしている。「濃くなってやがるな」

 ガロに倣い、ラドゥも眼前に手を差し伸べる。空を掻く掌が、わずかに重い。「もうそんな時期か」

 澱底に季節はない。

 だが、周期はある。

〈薄霧〉と〈濃霧〉。

 たえず巡り続ける、夜霧の周期。

 数日中に、薄霧の日々は終わりを迎えるだろう。

 これから訪れるのは、澱底で最も危険な濃霧の日々。

「──頃合いかもしれねぇな」

 ガロは指先の霧を穿袴で拭い、

「直、アレ・・が産まれる」

 そう云って、振り返る。

 瞬間、ラドゥのうなじの毛が逆立つ。

 狼を思わせる獰猛な双眸が、鋭くラドゥを射貫く。

 ガロはラドゥに近づき、その肩に大きな手を乗せる。

「さっきの戦いを見ていて確信したぜ。今のオメェなら、あるいは」

 ガロの指先が、ラドゥの肩に喰い込む。応えるように、ラドゥはガロを見上げ、強く拳を握る。

 その拳が、わずかに震える。

「怖いか?」

「武者震いだ」

「そう来ねぇとな」ガロは低い声で笑い、「なら、修業の仕上げといこうぜ」

 そうしてガロは、最後の試練をラドゥに突きつける。

「オメェひとりで〈赫眸アカメ〉を狩れ」






〈了〉

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