ラドゥと少女と獣憑き〈玖〉(了)
【19】
ラドゥは広場へ続く山麓の只中を駆けていた。
シムカの居場所を聞きだした後、ラドゥはすぐさま街へとって返し、衛兵の厩舎から馬を一頭かっさらった。盗みは趣味ではないが、そんなことを言っていられる状況ではなかった。盗んだ馬を全力で駆けさせ、ようやく目的地周辺まで辿り着いた。馬は街道に乗り捨てた。蹄音で接近を気取られたくなかった。立哨の可能性を考慮し、小道を使うことも避けた。だがラドゥの進行に支障はなかった。どれほど足場が悪かろうと、どれほど草木に視界が遮られようと、ラドゥは音ひとつ立てず、平地と遜色ない速度で駆け抜けることができる。
広場が近づくにつれ、血の匂いが漂ってきた。
ラドゥは速度を上げた。
草木の間隙から、広場の様子が垣間見えた。
黒衣の集団。
赤毛の男。
地を這いずる近衛剣士。
そして自分が守らなければならない、少女。
ラドゥは〈獸駆け〉で一気に距離を詰めた。
怒号と悲鳴が轟いた。
夜霧の匂いが鼻先を掠めた。
何が起きたのか、一瞬で理解した。
シムカが獸を喚んだのだ。それ以外はあり得ない。
ラドゥが森林を駆け抜けた時、彼の瞳が捉えたものは三つ。
地に伏せたゴド。
ゴドに駆け寄るシムカ。
そして獲物を狙うように身を掲げた、参號種。
状況を把握する前に、すでにラドゥはナイフを全力で投擲していた。
参號種の頬から、血が飛び散った。
殺意を剥き出しに、獸がこちらを見たその時には、ラドゥはすでに間合いを詰めていた。
速度と撥条を利かせた会心の蹴りを獸の胸元に放ち、その勢いを維持したままもう二発、同じ場所に脚技を決める。
ぐらつく獸の頬からナイフを引き抜き、瞬く間にその脚部を切り裂く。
崩れるように倒れてきた獸の顎に膝蹴りを叩き込み、そのまま廻転肘打ちで獸の頭部を打ち払う。
わずか数瞬の出来事。
黒い巨体が、頽れる。
死んではいない。一時的に行動不能なダメージを負わせただけだ。もしラドゥに殺す気があったなら、一撃で終わらせている。だがそのつもりはなかった。殺せばシムカを縛ることになる。ラドゥにはこれ以上、彼女を傷つけるつもりはなかった。
獸の傍をするりと抜け、ラドゥは少女の眼前に立った。
泣き腫らした眼で、シムカはラドゥを見た。
髪が乱れていた。服が汚れていた。手首や首筋に青痣が散見された。そして何より、額布が剥ぎ取られ、蛇の痣が晒されていた。
ラドゥは、何か言いたかった。
励ますような言葉、安心させるような一言。
だが、そんな時間はなかった。背後で獸が動き出そうとしていた。参號種の特色は、その頑強さと生命力にある。致命傷を負わせない限り、奴は動き続ける。
だからラドゥは、咽喉から出かかった言葉を呑み込んだ。
「すいません」かわりに囁いたのは、必要最低限の謝罪だけだった。「少しの間、眠っていてください」
神速で振るわれたラドゥの拳が、シムカの顎を掠めた。
ただそれだけで、彼女の瞳から光が消えた。
ぐらりと少女の躯が傾いた。
ラドゥはその身を抱き留めた。
咆吼と共に、獸が襲いかかってきた。
ラドゥの頭部を刈り取ろうと、太い腕が振るわれた。
彼は動かなかった。必要なかった。夜霧が拡散する前の空気の振動を、すでにラドゥは察知していた。
だからただ、シムカを優しく支えているだけだった。
獸の爪がラドゥの頬に触れた、その瞬間、参號種は霧散した。
黒い魔物は跡形もなく、この世界から消え去った。
ラドゥの頬を伝う血の一筋だけが、その獸が確かに存在したことの証となった。
「……血……」
半開きの瞼で、夢うつつのように少女が呟いた。
ラドゥは最小限の力だけをシムカの顎に伝えた。ゆえに衝撃は弱く、微かにだが ──しかし獸を維持できない程度の── 意識があった。
少女は震える指先を、ラドゥの頬に伸ばした。
「……わたし……?」
そう言って唇を噛み、
「……ごめんなさい……」
その言葉を最後に、シムカは意識を失った。
「シムカ様ッ!」ゴドが駆け寄ってきた。右手に剣を握っている。獸に殺された鬣犬の物だ。どうやらその剣を使って手足の拘束を断ち切ったらしい。
ラドゥはゴドの方へ向き直り、抱えている少女を差し出す。
ゴドは壊れ物でも扱うように、シムカを抱き留める。
彼自身、相当疲弊しているのだろう、少女を抱えたまま、ゴドはその場に頽れる。
ゴドの身を支えるように、ラドゥも膝をつく。
「まさか、こんな所まで追って来やがるとはな」背後から男の濁声が響いた。無頼漢どもを従える者に特有の、傲慢な雰囲気を漂わせた声だった。鬣犬の首領、ドムグだ。「山麓の街道、ゼバ、それに今。まさかオメェみたいなガキに三度も邪魔されるとは、たまげたぜ」
無数の靴音が、静寂の中に響いた。
幾つもの黒衣が視界の端を過る。
ラドゥは周囲に視線を走らせた。
彼等を逃がさぬように、鬣犬が陣形を組んでいた。
が、いささかその包囲網は遠巻きだ。不自然に空いた距離感は、ラドゥへの警戒がゆえか。
「まったく、ふざけたガキだ」
背後からの声は止まらない。
「本来なら俺たちは今頃仕事を終え、報酬片手に宴のまっ最中だったろうによ、テメェのせいで計画が台無しだ。この落とし前、どうつけるつもりだ?」
男の声を無視し、ラドゥは再度、シムカの顔を見やった。
疲れ、傷つき、泣き腫らした少女の顔容を。
ラドゥの胸奥で、何かが、燻りはじめた。
微かに、だが確実に、それはラドゥの血汐を熱くさせた。
「ゴドさん」ラドゥは老人の肩に手を置き、その眼を見つめた。「しばらく、シムカ様を頼みます」
言葉に、近衛剣士は勁く頷いた。
「オイ、ガキ風情が、俺を無視してんじゃねぇよ。テメェ、たたで死ねると」
「愉しいか?」ドムグの悪態を遮るように、ラドゥは言葉を重ねた。「こんなことをしていて……愉しいのか?」
「何を言ってやがる」
「アンタ等の所業についてだ」ラドゥは、ゆっくりと立ち上がる。その視線はシムカを見据え続けている。ラドゥの血が、滾る。しかし、相反するように、その声は冷えていく。「少女ひとりを相手に、アンタ等みたいな男どもが寄って集って……愉しいのか訊いてるんだ」
「これが俺たちの生業なもんでね」嗤いながらドムグが答える。「だが、まあそうだな。獲物を追い詰めるってのは、いつだって最高だ。これ以上の快楽が他にあるってのか? ああそうさ、俺たちは愉しくて愉しくて仕方ねぇ、そうだろ?」
問い掛けるようなドムグの言葉に、周囲の鬣犬たちが肩を揺らし出す。
下卑た忍び笑いは、やがて哄笑となって野営地全体に響きわたる。
「そうか」
ラドゥの眼から、光が消えた。
躯からマントを剥ぎ取り、腰の剣に手をかける。
「俺はお前等を、人間だとは思わない」
その言葉尻に、静かな怒りが、滲んだ。
「お前等は、獸だ」
柄を強く握り、ゆっくりと、重剣を引き抜く。
ラドゥは黒衣の傭兵どもと向かい合う。
鷹の瞳が、鬣犬の首領を射貫く。
「俺は獸には、容赦しない」
「いい台詞だ、小僧」
鬣犬の哄笑が、渦巻いていた。
その喧噪に交わることなく、ザルファはラドゥを見据えた。
「まさに狩人の台詞だ」
「容赦しない、ね。まったく威勢のいいガキだな、ええ?」
ドムグはうんざりしたようにラドゥを睨み、
「ザルファ、戦るか?」
かたわらの一級狩人を見やる。
「退屈してるんだろ?」
「いや、お前に譲ってやるよ」
予想外の返答に、ドムグは眉を顰めた。
あのザルファが、獲物を譲る?
「お前だけだろ、何もしてないのは」おかしそうに口元を歪め、ザルファは言った。「少しはお前も働けよ」
「泰然と構えてるのも首領の仕事なもんでね」
「まあ、あの小僧が怖いっていうんなら、無理にとはいわねぇけどな」嘲るように、ザルファは咽喉を鳴らした。「人間、身の程を辨えるってのも大事だからな」
「おいおい、冗談はよしてくれよ」ドムグの額に青筋が立った。「俺があんなガキを怖がってると思ってやがるのか?」肩を怒らせ、ドムグは愛用の長剣に手をかけた。元来プライドの高い男だ。これまでザルファには散々馬鹿にされてきたが、それはこちらに落ち度があったからだ。奴の嗤笑を買うようなヘマを部下がしてきた。だから侮辱の言葉を耐え忍んできた。だが、今のザルファの言葉は違う。明らかに彼を辱めている。ガキ相手に、この俺がビビるだと?
ドムグは長剣を抜き放ち、歩き出した。
「見てろよザルファ、あのガキの首、すぐに持ってきてやるからよ」
「できるならな」
「他愛もねぇさ」
ドムグはサッと手を上げ、指先を回す。
その手信号に、ラドゥを遠巻きに取り囲んでいた集団の中から、四人の鬣犬が歩み出る。
ドムグの側近。彼が認めた精鋭中の精鋭。
四人は得物を手に、ラドゥの間合いギリギリまで接近し、立ち止まる。
「なんだよ、お前ひとりで戦る訳じゃないのか」
「一対一も悪かねぇが、獲物は確実に狩るのが俺の性分なもんでね」
ドムグはラドゥを見くびってはいなかった。すでに部下が九人も殺されている。うち三人は古参だ。あの小僧が、およそ年齢に似つかわしくない手練れであることは、十分承知している。だが同時に、それでも俺の方が上だと、ドムグは思っていた。己惚れではない。無頼の傭兵集団を纏め上げ、数々の戦場を渡り歩いてきた経験が、ドムグに確固たる自信を与えていた。さらには先程の光景。ドムグはにやりとする。ミカヅツの軍に所属していた頃、彼はひとりで参號種を殺したことがある。協会でいえば、二級に相当する腕前。だが、あのガキは獸を斃せなかった。だから小娘の方を狙った。
ドムグは先程の攻防を目撃していなかった。
彼だけではない。鬣犬の全員が、参號種の巨体に阻まれ、ラドゥが何をしたのか把握していなかった。
彼等の眼には、飛びかかった参號種の隙を突き、術者であるシムカを気絶させ、何とか場を収めたようにしか映っていなかった。
ゆえにドムグは確信していた。
自分の方が強い、と。
その上で、側近を使う。
負ける要素はどこにもない。
「やれッ」
叫ぶと同時に、ドムグは走り出した。
四人の鬣犬が、ラドゥに斬りかかった。
いくら手練れとはいえ、全方位からの攻撃すべてに対応できるはずもない。ましてひとりひとりが精鋭だ。相手は必ず手傷を負う。そして包囲網から逃れようとする。そこをドムグが刈り取る。この方法で、ドムグは数々の強敵を屠ってきた。今回も、そうなるはずだった。勝利への確信に、揺らぎはなかった。
駆けながら、鬣犬の首領は白刃が少年に迫るのを見た。
ドムグは瞬きをした。
噴き出した血に、前方が染まった。
にやりと、ドムグは嗤った。
二度目の瞬き。
血が雨のように降り注いでいた。その中で、剣筋が乱舞していた。
三度目の瞬き。
理解し難い光景が、ドムグの視界に飛び込んできた。
ひとりは、咽喉を裂かれていた。
ひとりは、心臓を穿たれていた。
ひとりは、首を刎ねられていた。
ひとりは、胴を両断されていた。
全員が絶命し、頽れようとしていた。
その中心に、少年がいた。次なる敵襲に備えるように、腰を低く落としていた。右手の重剣の切っ先を低く構え、左手のナイフを逆手に握っている。
両刃が、血に濡れていた。
「は?」
ドムグの口から、間の抜けた声が漏れた。
四人の鬣犬が斃れたと同時に、少年は顔を上げた。
獰猛な眼光が、血煙の中からこちらを睨んでいた。
四度目の瞬き。
少年の姿が、消えていた。
瞬間、ドムグは体勢を崩し、顔面から地面に突っ伏した。
何が起きたのかわからなかった。なぜ、自分が地に伏せているのか理解できなかった。
が、その原因はすぐに判明した。
唐突に、左脚が燃えるように熱くなった。それと共に、膝下から途轍もない激痛が迫り上がってきた。
左脚が斬り落とされていた。
一体どうなってやがるッ! 歯を食い縛りながら、ドムグは懸命に考えを纏めようとした。だが、襲い来る激痛に、思考が乱される。
「ちくしょうッ」
唸りながら、ドムグは地を掻く。
その時になって、自分が剣を握っていないことに気がつく。
転げた衝撃で取り落としたらしい。
すぐ側に愛用の長剣が落ちていた。
ドムグは得物に手を伸ばし、
右腕の肘から先が、斬り飛ばされた。
ドムグは咆吼した。
街道にまで届きそうな、凄まじい絶叫だった。
背後から、地面を踏みしめる足音が聞こえた。
本能的に逃げなければと地を這ったドムグの脇腹に、革編靴の爪先が減り込む。
刺すような激痛。眼の奥が白く爆ぜる。血と唾液を吐きながら、彼は喘ぐ。
爪先を減り込ませたまま、その脚はドムグを蹴っ転がす。
仰向けになった彼を、少年が見下ろしている。
反射的にドムグは懐に忍ばせておいた短剣を取り出そうとした。
左手が、斬り飛ばされる。
再びの絶叫は、しかし。
胸元を踏みつけた少年のブーツに、押し殺された。
息が詰まるほど、声が出せないほどの力で、靴底はドムグを圧迫した。
「言ったろ、容赦しないと」
ドムグの全身を、戦慄が駆け巡った。
彼を射貫く少年の双眸、そこに渦巻く冷たい怒り、その底知れなさに、ドムグは”恐怖”した。それはザルファに抱くのと同質の、本能的な恐怖だった。
「……この俺が、こんな……」
喘ぎ喘ぎ絞り出したドムグの声が、
「……オメェは、一体……」
不意に途切れた。
ドムグは少年の握る重剣を凝視していた。
その剣に、見覚えがあった。
ミカヅツ国の軍部に身を置いていた彼が、その刃の形状を知らぬわけがなかった。
驚愕に眼を見開き、彼は少年の顔を見つめた。
「……テメェまさか、オオカ」
言い終わらぬうちに、ドムグの首は刎ね飛ばされていた。
ラドゥは刃の血を振り払った。
周囲の鬣犬たちがざわめいた。剣を抜く者、肩を怒らせる者、罵声をあげる者。無頼の傭兵どもは各々殺気立ち、しかし誰ひとりとしてラドゥに挑もうとはしない。
鬣犬の精鋭四人と、その首領が、瞬く間に殺された。
眼前の少年が手練れだと、いやそれ以上の化け物だと、皆悟っていた。
鬣犬たちは内心、恐怖にかられていた。
しかし、こういう種類の男たちにとって、面子というものは、何よりも重視される。
恐れを見せるなど、ましてガキ相手に腰が引けているなど。
意を決したように、幾人かの鬣犬が足を踏み出した。
「動くな」氷のようなラドゥの声が場を制した。「近づいた奴から殺す」
警告に、鬣犬たちは凍りついたようにその場で動きを止めた。
ラドゥはゆっくりと、赤毛の男を睨んだ。
男は削刃の峰で肩を叩きながら、愉快そうにこちらを見返していた。
ラドゥは機先を制するべく、男の一挙一動すべてに気を配る。
端から鬣犬など相手ではなかった。どれだけ頭数がいようと、どれだけ強者を揃えていようと、ラドゥの敵ではない。彼が警戒していたのは、ただひとり。
眼前の、この男。
エルロという鬣犬に、ラドゥは赤毛の男についても訊き出していた。
そして知った。この男がジャックたちと同じ、協会の人間だと。〈削刃のザルファ〉の異名で恐れられる、最悪の一級狩人だと。
ラドゥの勘は間違っていなかった。この男は、弐號種を殺している。
鬣犬を皆殺しにしようと、この男を斃さない限り、シムカ様の危機は去らない。
ラドゥは半身となり、腰を落とし、重剣を低く構える。
ザルファはこの前と同様、だらりと腕を垂らした、構えと呼ぶのも憚られるような、無造作な立ち姿。
両者の間で緊張が膨らんでいく。
耳が痛くなるような静寂が野営地全体を包み込む。
今にも事が起こりそうな予感が頂点に達した、その時。
「終わりだ、小僧」そう言って、ザルファは剣を鞘に収めた。
予想外の展開に、ラドゥは虚を突かれる。警戒と構えを解くことはしない。ザルファから目線も切らない。が、その時にはすでにラドゥも気づいていた。一級狩人の躯から、一切の殺気が消えているということに。
「どういうことだ?」
「そのままの意味だ。もう、俺に小娘を追う理由はない」
「あの男が死んだから、か?」ラドゥは背後の無残な死体に一瞥をくれる。「コイツが鬣犬の頭目だろ?」
「いや、実はお前が来る少し前にある事に思い至ってね、この仕事から手を引くことにした」そう言ってザルファは彫像のように固まった鬣犬たちを睨めた。「お前の勝ちだ小僧。もう誰も小娘を追わねぇよ。請け合うぜ」
「何、ふざけたこと抜かしてやがるッ!」
鬣犬の輪から、怒鳴り声があがった。
怒りに駆られた男がひとり、荒々しくザルファに詰め寄った。ジジだった。抜き身を手に、血走った眼で、彼はザルファに凄んだ。
「あいつ等の勝ちだと? なに寝ぼけたこと言ってやがるんだッ! こっちは頭を殺られてんだ、俺は兄貴を殺されたんだぞッ! あんたには高い金払ってんだ、さっさとあのガキを殺せッ!」
「知るか。自分でやれよ」
「裏切るつもりかッ!」
ジジの怒声を遮るように、歪な刃が抜き放たれた。
ガクンと、ジジは膝から崩れ落ちた。
失禁したかのように、大量の血液が彼の足下に広がっていく。
ぼとりと肉塊が、地面に落下した。
ジジの太腿が、ごっそり削ぎ落とされていた。
遅れてやってきた激痛に、ジジは絶叫し、
その大口に突き込まれた削刃が、その声を押しとどめた。
「俺が、裏切った?」虎のようなザルファの瞳が、ジジを睨めた。「どの面下げて俺にそんなこと言ってるんだ?」一級狩人の全身から、抑えきれぬ殺意が漂い出す。
「お前等、蜈蚣と通じてるだろ」
ジジの眼が、驚愕に見開かれた。
周囲の鬣犬たちが、一斉に息を呑んだ。
獲物を見つけた獸がそうするように、
「やっぱりそうか」
ザルファは牙を剥いた。
先ほどのゴドとの会話。その内容が、ザルファに確信を与えた。
『貴様は、いや鬣犬は、一体何を企んでいる』
その言葉に興味を覚えたザルファは、老い耄れに先を続けさせた。ゴドは語った。ヨキ国が発した命はシムカ様の暗殺だと。王家が欲しているのはお嬢様の首だけだと。なのにどうして貴様と鬣犬はシムカ様を生け捕りにしようとしている、一体、何を企んでいるのだ。
〈蜈蚣〉。
老い耄れの話を聞き終わった瞬間、ザルファの脳裡にその名が浮かんでいた。
そもそも獸憑きの生け捕りという仕事の時点で、ザルファはその可能性に思い至っていた。違和感は最初からあった。殺しが専門の鬣犬が、生け捕りなどというまどろっこしい仕事を引き受けている時点で、おかしかった。奴等が裏で狐鼠狐鼠動いているのにも気づいていた。だが、無視していた。あり得なかったからだ。ドムグとは古い付き合いだ。あの男はザルファのことをよく知っていた。熟知していたと言ってもいい。だから、あり得ないはずだった。協会の人間に、それも一級狩人に、ましてあのザルファに、蜈蚣の利になるような仕事をさせるなどと。
犯罪集団〈蜈蚣〉の活動は、主に三つ。
各国での破壊工作。
獸憑きの生け捕り。
そして、
「狩人狩り」
ザルファの顔から表情が消えた。「俺の同胞殺して回ってるクソ共の片棒を、この俺に担がせようとしやがったな」
ジジの口腔に突き入れた削刃を、ザルファは下方へ強引に挽き抜いた。
ジジの下顎が削ぎ落とされた。
悲鳴をあげる間もない。
骨肉が引き千切られる轢断音が、野営地に響きわたった。
ジジの首が挽き断たれていた。
転がる頭部が、無残な切断面を晒していた。
血を噴く躯をザルファは邪魔そうに蹴倒し、
「請け合うと言ったろ、小僧」
ラドゥを一瞥したあと、ザルファは鬣犬たちに狂暴な笑みを向けた。
「お前等、まともに死ねると思うなよ」
ゾルガであれミカヅツであれ、裏の世界に身を置く者の中に、ザルファの恐ろしさを知らぬ者はいない。
鬣犬のひとりが、背を向けて走り出す。そのひとりが呼び水となり、男たちは次々と森林に駆け込んで行く。
「好きに逃げろよ」ザルファは削刃を肩に担ぎ、舌なめずりをした。「どうせひとりたりとも逃がしはしねぇよ」
そうして歩き出したザルファだったが、不意に振り返り、
「小僧、お前の名前は?」
虎の双眸が、ラドゥを見据えた。
ラドゥは黙然とザルファを見返した。
悪党に名乗る名前はない。数日前の彼ならば、そう答えていただろう。いや、今もその考えに変わりはない。眼前のこの男は、紛れもない悪党だ。おそらく鬣犬たちよりも残忍で、暴戻な、最悪の悪人なのだろう。だが、この男は弐號種を殺している。あの最悪の化け物を、己が身ひとつで屠る、その意味を、その重さを真に理解できるのは、同じく弐號種を殺した者だけなのだ。
口を開くつもりはなかった。
だが。
「ラドゥだ」
気づいた時には、名乗っていた。
ザルファは怪訝そうに眉根を寄せた。
その名に、聞き覚えがあった。どこで聞いたんだったか……
唐突に、思い出した。
西部辺境砦向こうの山林地帯に弐號種発生の報を受け、協会は〈調査団〉の派遣を決定した。その護衛を任されたのがザルファだった。城塞には砦付きの狩人の他に、応援で駆けつけた三人の狩人がいた。北西支部所属の狩人たちだった。その三人が度々口にしていた名前、それこそが。
「なるほどな」ザルファは呵々と嗤った。「〈六肢〉を殺ったのはお前か」
「どうしてそれを」
「耳聡いんだよ。何せ俺は一級狩人だからな」
懐から取り出したものを、狩人は抛り投げる。
ラドゥはそれを受け止める。
円徽章だった。赫眸の獸の彫刻、その下に名前が刻まれていた。
「ザルファだ。覚えておいて損はないぜ」
ラドゥはメダルを投げ返す。
受け取ったザルファはにやりとし、踵を返した。
「じゃあなラドゥ。またそのうち会おうぜ」
「アンタみたいな悪党には、二度と会うつもりはない」
「そいつは無理だ。お前は狩人だからな」
「俺は協会の人間じゃない」
「そういう問題じゃない」ザルファは再度立ち止まり、ラドゥに向き直った。「俺が言ってんのは血と魂についてだ。わかるか? お前の本質について話してるんだよ」
ザルファは腰に手を当てた。次に首筋を撫で、最後に右胸を叩いた。
そしてラドゥを指さした。
〈腰の得物を用いて、獸の首を断ち、その心臓を穿つ〉
ザルファは口元の嗤いを消し、敬意を込めてラドゥに告げた。
「お前は狩人だ」
そうして再び歩き出し、
「それじゃあな、ラドゥ」
削刃を揺らし、獸のような殺気を纏い、一級狩人は森林の中へと消えていった。
「また、会おうぜ」
その言葉が、微かな余韻となってラドゥの耳に残った。
しばらくの間、ラドゥはザルファの消えた方向を睨んでいた。
やがて詰めていた息をゆっくりと吐き出し、
「何とか、切り抜けたみたいだな」
躯の力を抜いた。
先ほどまで鬣犬で満ちていた野営地が、やけに広く感じた。
朝日が彼の顔を照らす。
重剣とナイフを鞘に戻す。
ラドゥは少女と老人の元へと駆けた。
【終】
霧深い山岳路を、ラドゥたちは進んでいる。
立ちこめる白霧は視界を遮り、ただでさえ足場の悪い岨道を、より危険な道筋へと変えてしまっている。
しかしラドゥの歩みは軽かった。
どのような悪路も、澱底ほどではなかった。
霧も問題なかった。視界が利かない状況には慣れている。夜霧でないだけ、遙かにマシだった。
しかし背後のふたりはそうもいかない。
だからラドゥは、ゆっくりと歩を進めていた。
シムカとゴドは、慎重な足取りでラドゥについてきていた。
ゆるやかな歩みは、しかしラドゥからしても都合が良かった。すでに彼等は〈憑人の里〉の領土に足を踏み入れているかもしれない。憑人たちは、里に近づく不審者を、断固たる態度で排除すると聞く。さすがに警告もなしに襲撃されるとは思わないが、しかしこの濃霧と足場だ。ラドゥは最悪の事態を想定し、周辺に警戒網を張り巡らせ、いつでも動き出せるよう、細心の注意を払っていた。
そうやって、三人は黙々と歩き続けた。
どれだけ経っただろうか。
曇天から差し込む鈍い陽光が、わずかに傾いてきた。
湿り気を帯びたぬるい風がうなじを撫でた。じき雨か。
不意に、ラドゥは立ち止まった。
少年に倣い、少女と老人も歩みを止めた。
ラドゥは霧中の先を見透かすように、眼を細めた。
前方から、複数の人影が近づいてきた。
それだけではない。周囲の巨岩、岩棚の上にも人影が認められる。完全に囲まれていた。
人影の接近には気づいていた。しかしこちらから仕掛けるようなことを、ラドゥはしなかった。
彼にはわかっていた。敵意こそあれ、人影たちに殺意がないということを。
「立ち去れ」低い寂声が霧向こうから投げかけられた。「ここはすでに我々〈憑人の里〉の領土だ。故無く近づく者を、我々は赦さない。が、無駄に血を流すのも、我々の流儀に反する。ゆえに今すぐ立ち去れ。そうすれば、我々は貴公等を見逃そう」
その言葉を聞き、ラドゥの胸が、感慨に溢れた。
ようやく、辿り着いた。
街道で少女と老人を助けてから、幾日の時が過ぎ去ったか。
様々なことがあった。血腥いことが多かった。自分の至らなさを痛感もした。だが、楽しいこともあった。とりわけ追っ手を退けてからの数日間は、非常に穏やかな日々だった。
あの日、鬣犬が逃げ、赤毛の男が消えてから、ラドゥはシムカを背負い、ゴドを馬に乗せ、近隣の街へと急いだ。街に着くやいなやラドゥは医術師の元へ駆け込み、ふたりを診てもらった。獸を召喚したことにより著しく体力を消耗してはいたが、シムカに外傷などは見られなかった。問題はゴドだった。鬣犬たちの乱暴な扱いにより。ふさがりかけていた腹部の傷が、再び開いてしまっていた。
だが、医術師の見立てでは「命に別状はない」とのことだった。施術の後、「毎日繃帯を取り替え、よく眠らせてやりなさい」医術師にそう助言された。
ラドゥは宿のベッドにふたりを横たえた。
もう追っ手がいないことはわかっていたが、結局ラドゥは胡座をかき、警戒を解くことなく眠った。
翌日、シムカが眼を覚ました。
少女は涙を湛えた瞳でラドゥを見つめた。
「ごめんなさい、あなたに一言も告げずに、わたしは」
「いいんです」ラドゥは遮るように首を振った。「事情はだいだいわかっています。シムカ様に選択肢はなかった。だから、もう忘れてください。シムカ様とゴドさんが無事だった、俺にはそれで十分です」
その言葉にハッとしたように、シムカは起き上がった。
「ゴドは……無事なんですか」
「隣の部屋で寝ています」
シムカを伴ってラドゥはゴドの元を訪れた。
老人の胸はゆっくりと上下していた。
シムカはその場に膝をつき、ゴドの手を両手で握り締めた。
「……よかった」滂沱と、シムカは涙を流した。鬣犬たちに見せたものとも、先ほどラドゥに見せたものとも違う、それは安堵の涙だった。
その翌日には、ゴドも眼を覚ました。
「……ありがとう……ございます」
彼が最初に呟いたのは、その一言だった。
ゴドが恢復するまで、三人は街に留まった。
最初の数日間、シムカは付きっきりでゴドの看病をした。繃帯をかえ、躯を拭き、水を飲ませた。
ぽつりぽつりと、ゴドは何があったのかを話した。
山間の村での休息。数日の平穏な日々。そして鬣犬の襲撃。村人たちは皆無事だとゴドは語った。彼がすぐに投降したため、被害は出なかったそうだ。
徐々にゴドの体力が戻ってくると、今度はシムカは、ラドゥの手伝いをした。買い出しや食事の支度など、やるべき事はいくらでもあった。
空いた時間に、ラドゥは剣の稽古を再開した。
今回の件を経て、シムカの強くなりたいという気持ちはより強まったようだった。彼女は前にもまして稽古に打ち込んだ。多い時には日に三度も、指南を乞われた。その気持ちに応えるべく、ラドゥは今まで以上に厳しく少女を鍛えた。
「憑人の里に着いたら」稽古終わり、シムカは居住まいを正すと真剣な眼差しでラドゥを見つめた。「わたしは、剣だけではなく獸の操り方も学ぼうと思っています」
優しくも勁い、良い顔つきだった。
ラドゥは力強く頷いた。
そうして月日は流れていった。
弟子である少女と恢復した老人を伴って、ラドゥは街を出た。
再び〈ビルジ〉に辿り着いた。休息し、馬車を雇い、ゾルガ国北方国境砦を目指した。
ビルジで手に入れた通行証を提示すると、国境砦はすんなりとその門扉を開いた。
行けるところまで馬車で進んだ後、三人は徒歩に切り替えた。憑人の里は峻険な山岳地帯の奥地にある。険路の踏破は今回の旅路の中で、もっとも苛酷なものとなった。
だが、ついに三人は辿り着いた。
「何をしている。これ以上留まるというのなら、我々は貴公等を敵と見なす」
寂声の人影が殺気立った。
周囲の人影たちが一斉に身構えた。姿はぼやけているが、その動きから弓に矢をつがえたのだとわかる。
ラドゥはナイフを引き抜き、腰を落とした。
戦いたくはないが、必要とあれば致し方ない。
「お待ちください」シムカが一歩、踏み出した。「わたしたちは、あなた方の敵ではありません」
そう言って、さらに一歩、歩を進める。
寂声の人影の殺気が、鋭さを増す。
周囲の人影たちの視線が少女に注がれる。
シムカは後頭に両手を持っていき、額布の結び目をゆっくりと解いた。
額を這う黒い蛇が、外界に晒された。
意を決したように、シムカは寂声の人影に、告げる。
「わたしは、獸憑きです」
周囲の人影たちが、スッと殺気を消した。
一拍の間を置き、濃霧を掻き分け、寂声の人影が姿を表した。
精悍な顔立ちの、壮年の男だった。
簡素な布服の上に、革鎧を着込んでいる。腰に剣を佩き、背には弓を背負っている。
男の頬には、黒く細い筋が、幾重にも重なりあっていた。
〈蚯蚓痣〉。肆號憑きの証。
男は警戒を露わにシムカへ近づく。
ラドゥは静かにふたりを見つめる。
男の敵意は消えていない。だが周囲の人影たち同様、殺気は失せている。
ふたりの間に割り込むよりも、このまま流れに身を任せた方が上手くいく気がした。
ゴドも同じ考えなのだろう、駆け出すのを懸命にこらえながら、シムカの動向を見守っている。
男はシムカの眼前に立つと、少女の額を見下ろした。
「蛇痣」呟き、男は片腕を後方へ差し出す。「〈夜輝り〉を」
霧向こうから、今度は女が現れた。男と同じ恰好をしている。女の首筋には、黒い楕円形の、〈玉痣〉が浮いている。
女は差し出された掌に、硬貨ほどの大きさの、石を乗せた。
夜輝り。あるいは〈発光石〉とも呼ばれる、夜霧に反応し光を放つ鉱石だ。
「確認せねばならない。構わないか?」
「はい」シムカは頷く。「お願いします」
「では、失礼する」一礼し、男はシムカの痣に夜輝りを押し当てた。
獸憑きの痣からは、夜霧が漏れ出るという。もっともその量は微弱であり、普通に発光石を近づけただけでは反応することはない。しかし石を痣に押し当て、そのまま数十秒待つと、わずかながら発光石は光を帯びる。獸憑きを騙り、里へ侵入をこころみる輩は少なくない。獸憑きの集団、それはまさに各国からすれば恐怖の対象なのだ。迂闊に手を出すようなことはしないが、里に間諜を送り込もうとする国は数多い。間諜の痣は、単なる刺青だ。偽物ならば、夜輝りは反応しない。
シムカの額に押し当てられていた夜輝りが、わずかに光る。
その色は、紫。参號種の反応。
「総員、武器を下ろせッ」男は声を張り上げた。「彼女は我等の〈家族〉だッ」
その一言に、周囲に漂っていた敵意が一瞬で霧散した。
霧向こうから、次々に人影が近づいてくる。
男や女はもちろん、少年少女の姿も混じっている。
全員が剣を佩き、弓矢を背負っている。
憑人の里を狙う敵は数多い。女子供であれ、彼等は戦士として闘う。
瞬く間に、少女は里の住民に取り囲まれた。
全員が、破顔していた。シムカに歓迎の言葉をかけ、その手を取り、ねぎらう。彼等の言葉には親愛の情が籠もっている。ここにいる全員、獸憑きが里の外でどういう扱いを受けるかわかっている。彼等自身が、その身をもって経験してきた。だからこそ、憑人の結束は固い。文字通り、彼等にとってシムカは〈家族〉なのだ。
ここにいる全員が、痣を持っている。
ここにいる全員が、獸を宿している。
シムカがはじめて出会った、同胞。
その事実が、外の世界にいるのでは絶対に手に入れることのできない、安心感をシムカに与えた。
思わず、彼女も破顔していた。
「シムカ様があんな風に笑うのは、何年ぶりだろうか」感慨深げにゴドは微笑み、ゆっくりと頭を垂れた。「ラドゥさん、あなたのおかげです」
「俺は約束を守っただけです」
「確かに。しかし、それは誰にでもできることではありません」ゴドはラドゥに深々と頭を下げた。「あなただから、シムカ様を守りきれた。あなたがいたから、今のシムカ様がある。本当にありがとうございます」
「そんな、大袈裟ですよ」
「いえ、ゴドの言うとおりです」
背後から少女の声が聞こえた。
ラドゥは振り返る。
いつの間にか、シムカが立っていた。
「あなたがいたから、わたしは生きています。あなたがいたから、此処に辿り着くことができました」
彼女は真摯な顔つきでラドゥを見つめた。
その瞳に、涙が浮かぶ。
哀しみのためではない。
それは、温かい涙だ。
シムカはラドゥの手を取り、強く握り締めた。
そうして彼女は、ゆっくりと口を開いた。
次の一言は、ラドゥがこの前呟いた一言と、同じものだった。
「ラドゥ、わたしはあなたに、救われました」
*****
雨が、頬を打った。
ラドゥは立ち止まり、周囲を見回した。
いまだ険路の続く山岳地帯だ、雨宿りできるような場所はどこにもない。
マントを深く被り、彼は歩みを再開する。
雨はすぐに強さを増し、マントを叩く雨音が耳を聾する。
ラドゥはゆっくりと、歩き続ける。
半刻ほどして、ラドゥは雨宿りできそうな場所を見つけた。お互いに寄りかかる巨岩と巨岩、その根元に、人が数人は入れそうな大きな隙間を見いだしたのだ。ラドゥは滑るようにその空洞に入り込み、雨の滴るマントを脱いだ。雑嚢を置き、剣を岩壁に立てかけ、ラドゥは腰を下ろす。
今までなら、その隣には少女がいた。
だが、今はひとりきりだ。
一抹の寂しさを、ラドゥは感じる。
同時に、安堵してもいる。
背後に、守るべき者はいない。追っ手を警戒する必要もない。守るべきは自分ひとり。自分ひとりなら、どうとでもなる。
憑人の里に到着すると、ラドゥは水と食糧の補充をし、すぐに旅立った。
ゴドは重い布袋をラドゥに差し出した。
最初に提示された報酬とは、比べようもないほど多額の金貨が詰まっていた。
ゴドの近衛指輪とシムカの短剣を売り払った対価だという。
一瞬躊躇ったが、ラドゥは金貨を受け取った。これは仕事の報酬だ。用心棒として命を賭けたのだ、もらって然るべき物だ。それにこの金貨には、ふたりの感謝の念が込められている。受け取らないのは、礼を失するように思えた。
旅立つ前、シムカはラドゥの前に立った。
「どうしても、行かなければならないのですか?」
俯きながら肩を震わすシムカに、
「はい」
ラドゥは頷いた。
先程まで、ラドゥはシムカとゴドに引き留められていた。
十分な御礼をしていない、せめて数日だけでも里に滞在できないだろうか、ゴドは熱弁した。
わたしはまだあなたに教わりたいことがたくさんあります。あと少しの間だけでも、わたしに剣を教えてくださいませんか、シムカは懇願した。
ふたりの言葉に心が動かされなかったといえば、嘘になる。
魅力的な提案だった。ここに残れば、澱底ではあり得なかった、平穏な生活が手には入るかもしれなかった。
だが、ラドゥは首を横に振った。
ここには、いられなかった。ふたりと一緒に暮らすことはできなかった。
『お前は狩人だ』
ザルファは正しかった。
ラドゥは、狩人なのだ。
狩人にできるのは、殺すこと。
ただ、それだけだ。
だから、ここにはいられない。
それに、ラドゥには目的ができた。これまでは、当てもない旅路であった。気ままに街道を行き、眼についた人里に立ち寄り、世俗と距離を置きたくなったら山に入る。それは文字通りの放浪であった。だが、今のラドゥには、ひとつだけ目的がある。
知りたいことができた。いや、知らなければならないことが。
「また、会えますか?」
「お互い、生きてさえいれば、いずれ」
ラドゥは少女に近づいた。
手を掲げ、不意にその動きを止める。
シムカが顔をあげる。断髪だった黒髪は、少し伸びた。今は後ろで結っている。薄汚れた少年の旅装はすでに脱ぎ捨てている。いま身につけているのは、憑人の里が用意した、清潔な上着と下穿きだ。こうして見ると、まったく少年には見えない。彼女は美しく、可憐な、ひとりの少女だった。
ラドゥは師がそうしてくれたように、シムカの髪を掻き撫でようとしたのだ。
しかしそう歳の変わらない少女の頭髪に触れるのは失礼だと考え直し、ラドゥはシムカの肩に手を置いた。
「日々、鍛錬を怠るな」
用心棒ではなく師匠として、ラドゥは口を開いた。
シムカもすぐに気づき、居住まいを正した。
「不用意な戦闘は避けろ。だが、やる時は徹底的にやれ」
真剣な表情でシムカは頷いた。
ラドゥは頷き返し、
「そして、これが一番重要だ」
不意に口元を歪めた。
それは、笑顔だった。ぎこちなく、つたなく、しかし確かにラドゥは笑っていた。
「必ず生き残れ」
豪雨に、視界が煙る。
峻険な山稜の上空に、稲光が走る。遅れて轟いた雷鳴が、ラドゥの耳を聾する。
空は暗さを増す。日暮れが近づいている。岩の多い険路は雨で滑る。今日はここで夜を明かした方がよさそうだ。
岩壁に凭れ、眼を瞑る。
『てっきりアイツ等の一匹だと思ったんだがな』
封印していた赤毛の男の言葉が、蘇る。
『……テメェまさか、オオカ』
鬣犬の首領の今際の言葉が、耳朶に浮かびあがる。
ラドゥは眼を開け、立てかけておいた剣を取る。重く、分厚い、獸狩りの刃。
他のことに気を取られていてはシムカを守れない。だから、考えないようにしていた。だが、彼女を送り届けた今、その制約は意味を失った。
ラドゥは鞘に彫られた彫刻を見つめた。
獰猛で、兇暴な、豺狼の横顔。
雨脚は、いっそう強くなる。
稲光も、烈しさを増す。
空は、より暗く深く沈んでいく。
「〈狼〉」
ラドゥは虚空に向け、問い掛けるように呟いた。
「アンタに関係あることなのか、ガロ」
雨はとうぶん、止みそうにない。
【ラドゥと少女と獸憑き】(了)
あとがき
用心棒モノを書きたいと思いました。
色々考えた結果、ラドゥと旅路と獸狩りの世界なら用心棒モノ書けるんじゃないかと思い、じゃあラドゥでもう一本書いてみようと。
前回同様四万文字程度の作品を想定して書き始めたのですが、書いているうちに設定やエピソードを色々考えついて、そういうモノを盛り込んでいるうちに、予定の三倍ほどの長さになってしまいました。自分でも考えてなかった話の展開やキャラクターが生まれて、書くのが結構しんどかったんですが、同じくらい楽しくもありました。
書ききることができて、本当によかったです。
ラドゥの旅路にお付き合いくださり、ありがとうございました。




