ラドゥと少女と獣憑き〈捌〉
【16】
市門が、ゆっくりと開かれる。
市壁近くの街道に待機していたエルロと部下たちは顔を上げる。
両開きの門扉を押し開け、ふたりの門衛が姿を現す。
彼等は鬣犬に気づくと立ち止まり、背後に隠れていた小柄な人影を前へと押し出す。
「来たか」
エルロは歩き出し、人影の前で立ち止まる。薄汚れた旅装の、小柄な少年が俯いている。
エルロは少年の顎に手を当て、強引に上向かせる。
「シムカ=トドゥクか」
「……はい」
その声は少年のものではない。
「証明しろ」
エルロは額を指先で叩く。
鬣犬のひとりが、額を叩いている。
シムカはその意味を悟り、後頭部に手を回す。額布の結び目を解こうとし、指先が止まる。獸憑きにとって痣を見せるという行為は、恐怖そのものだ。そしてそれ以上に、烈しい羞恥心が沸き起こる。ラドゥには、見せた。命を預ける相手への、それがせめてもの礼儀だと思ったからだ。だがそういう場合を除けば、憑人の証である痣を見せるのは、裸身を晒すような、嫌悪を伴う羞恥の念をシムカに抱かせた。まして相手は彼女を付け狙う鬣犬。
見せたくなかった。
こんな痣、消し去ってしまいたかった。
「早くしろ」
眼前の鬣犬は苛立たしげに急き立てる。
「あまり手間をかけさせるな。あの老い耄れが死ぬことになるぞ」
その言葉に、シムカは強く眼を瞑った。
脳裡にゴドの顔が思い浮かぶ。
浮浪児の手渡した文には、ゴドを生け捕りにしたと書かれていた。あの老い耄れの命が惜しければ、必ずひとりで南門まで来い。そうすれば、貴様の命と引き換えに、あの近衛剣士だけは助けてやる、と。
シムカは瞼を開く。その目尻は濡れている。
震える指先で、彼女は結び目を解く。
額布が首元にずり落ちる。
鬣犬たちの視線が額に注がれているのがわかる。
「嘘だろ」「獸憑きじゃないか」
驚いたのは、左右の門衛たちだ。彼等は怯え、後退る。
シムカの顔が、羞恥に染まる。
爪が食い込むほど強く、拳を握り締める。
「なるほど、〈蛇痣〉か」眼前の男が、嗤う。「お頭が喜びそうだ」
シムカは急いで額布を結び直す。
男の背後に控えていた鬣犬たちがシムカの傍に立ち、その両腕を取り、強引に歩き出す。
前方に馬車が止まっている。幌のない、簡素な荷馬車だ。
鬣犬たちは次々に荷台に乗り込んでいく。
両脇の鬣犬たちは軽々とシムカを持ち上げ、荷台に乗せる。
最後にシムカに額布を取るよう指示した、あの男が乗り込む。
「ちょっと待ってくれよ」
「話が違うだろ」
追いすがるようにふたりの門衛が荷台に駆け寄る。
「俺たちはまだ、前金しか受け取ってないぜ」
「その小娘が来て、市門を開ければ後金も払うって約束だったろう」
「そういえば、そんな話だったな」
男は頷き、瞬間、刃が夜闇を裂く。
血飛沫が月光に妖しく燦めく。
門衛のひとりが呻きながら倒れる。
「門を開けるだけであれだけの金が稼げたんだ、十分だろうに」男はもうひとりの門衛に顔を向ける。「業突く張りは早死にするのが裏の世界の鉄則だ。貴様はどうだ?」剣呑な眼つきで門衛を睨み、男は血の滴る切っ先を軽く振る。「貴様も欲張りか? まだ金が欲しいか?」
門衛は震えながら首を振り、後退る。
「それでいい」男は剣を鞘に戻し、御者台に叫ぶ。「出せッ! 夜明けまでに本隊と合流する」
馬車が、動き始める。
シムカは両膝を抱え、俯く。
少しずつ、馬車は速度を上げていく。
これでいい、と彼女は思う。わたしは獸憑きだ。忌み者で、邪魔者で、人々に嫌われている。ずっと刺客の影に怯えて生活してきた。血の繋がった家族に狙われてきた。他人が怖かった。人混みが怖かった。外に出るのが怖かった。いずれ、こんな日が来るのはわかっていた。わかっていたのに、期待してしまった。もしかしたら、このまま逃げられるかもしれない、と。甘かった。そんなに都合よくはいかない。わたしは獸憑きだ。生きることさえ赦されていない、忌まわしい存在だ。だから、わたしは殺される。
それでいい、とシムカは思う。死にたくなんかない。殺されたくなんかない。それでも自分の命と引き換えに、ゴドが生きられるなら、それで構わない。
それで、構わない。
刹那、シムカの脳裡を少年の面影が過る。
鋭い面差し。乱雑な髪。自分とそこまで年の変わらないように見える、彼女の用心棒。いつも使い古した上衣を羽織っていた。山道の歩き方を熟知していた。鳥獣を狩るのが上手かった。火の熾し方、獲物の捌き方、魚の捕らえ方、色々なことを知っていた。彼に剣術を教わった。彼女は打ち込まれてばかりいた。結局、一度も彼に木剣を当てることはできなかった。
シムカの脳内に、彼との旅路の日々が溢れ出る。
辛いことが多かった。挫けそうになることもあった。それでも、彼との日々は、楽しかった。
「お願い」
不意に、シムカは呟いていた。
その言葉は本心ではなかった。彼女にはゴドを見捨てることなどできない。あくまでもその言葉は、自分を勇気づけるための、恐怖を打ち消すための、単なる一言に過ぎなかった。
それでも、いや、だからこそ、シムカは彼の名を呼んでいた。
「助けて、ラドゥ」
唐突に、シムカの周辺が騒がしくなった。
鬣犬たちが、皆立ち上がっている。
「シムカッ!」
夜気を切り裂く咆吼が、少女の耳に届いた。
ラドゥの視界に南門が入った。
日暮れと共に閉門されるはずの扉が、開いていた。
ラドゥは全力で駆けた。
瞬く間に大通りを走り抜け、南門から市街へ飛び出す。
夜気に混じった血の臭い。街道の脇に、男が斃れている。その傍らには、呆然と佇む青い制服の男。
一瞥をくれるも、ラドゥは男たちの横を駆け抜ける。
かまっている暇はなかった。
前方に、馬車が一台走っている。
荷台には黒ずくめの男たち。
まだ走り出したばかりなのだろう、速度は出ていない。故にラドゥと馬車の距離もそれほど離れているわけではない。
風にはためく黒衣の間隙に、ラドゥは少女の姿を捉える。
にわかに男たちが立ち上がる。
鬣犬の視線がラドゥに向けられている。
気づかれた。
なら、もう気を使う必要はなかった。
ありったけの力を込めて、ラドゥは咆えた。
「シムカッ!」
その咆吼に、エルロは眉を顰めた。
「まさか、追って来るとはな」
荷台の後方に移動したエルロは、マントを羽織った少年の姿に視線を据える。
シムカ=トドゥクは彼等の指示通りひとりで投降してきた。護衛のガキを撒く方法は小娘に任せた。エルロはこれまでの経験から、家族や恋人の命が掛かった人間は、頭の回転が速くなることを知っていた。シムカ=トドゥクは短い時間でよく考えを練ったのだろう、護衛の小僧が南門に現れる気配は欠片もなかった。
小娘を馬車に乗せ走り出した瞬間、エルロは自分が賭けに勝ったことを悟った。勝率は高くなかったが、彼は見事シムカ=トドゥクを手に入れた。これでお頭に怒鳴られる心配もない。どころか、昇級も夢ではないだろう。こんな辺鄙な地で要撃などという退屈な任務に就かされ嫌気が差していた所だったが、どうやらツキが向いてきたらしい。
そう、だからエルロは楽観していた。
このまま何事もなく本隊との合流地点に到着できるだろう、と。
そしてそれは今も変わらない。
こちらは馬車で、向こうは徒。追いつけるわけがない。
そう思っていたエルロの表情が、にわかに強張る。
少年の姿が闇夜の中に、掻き消えた。
いや、違う。
少年は姿勢を低くしたのだ。
「〈地疾り〉かッ」
エルロは驚愕する。
またの名を〈縮地〉。あるいは〈指呼殺し〉。敵との間合いを潰す為に考案された歩法術。脱力と重心移動により、一間を、熟達した者ならば二間を越える距離すら一瞬のうちに殺すことができる。誰にでもできる技ではない。血の滲むような鍛錬と、生まれながらのセンスが要求される技術だ。だがエルロが驚愕している理由は、それが原因ではない。
馬車を追う少年は、地疾りを維持したまま、駆け続けている。
あり得ない光景だった。
全体重を前方へ倒すことにより推進力を得る地疾りは、バランスを崩しやすい。連続して地疾りを繰り出そうものなら、当然転倒する。踏ん張れたとしても、脚にかかる負荷は想像を絶し、肉が離れるか、骨が折れるかする。
だから、今見ている光景は、本来ならばあり得ない。
マントをはためかせる少年は、凄まじい速度でこちらに接近している。
「もっと速度を上げろッ!」エルロが馭者台に怒鳴る。
エルロは知らなかったが、これも歩法術の一種だ。
バランス感覚に優れ、身体操作に長けた極一部の者だけが習得に到る、歩法術の極致。獸のように地を這うその姿から、この技は〈獸駆け〉と呼ばれる。
少年と馬車との距離が、ぐんぐん縮まっていく。
このままでは、追いつかれる。
エルロはシムカ=トドゥクに眼をやり、部下たちを一瞥し、再び少女に視線を据える。
ようやく手に入れた獲物。ここまできてみすみす奪い返されるなんてことは絶対に赦されない。
「お前等、絶対にその小娘をお頭の元へ届けろ」
彼が部下たちにそう告げるのと、少年の片腕が荷台の縁に届きそうになったのは、ほぼ同時だった。
エルロはすでに覚悟を決めていた。
鬣犬にとっては、死ぬのも仕事のうちだ。まして小規模とはいえ部隊の隊長であるエルロに課せられた責任は、重い。この命を捨ててでも必ずシムカ=トドゥクを本隊へ連れ帰らなければならない。
だからエルロは躊躇することなく荷台から飛び降りた。
突然降ってきた鬣犬の影に、少年の眼が見開かれる。
エルロと少年の躯がぶつかり、絡み合い、地面を転げる。
傾斜し回転する視界の中で、エルロは馬車が街道の先へと走り去る光景を確かに捉える。
打撲と擦り傷。全身に痛みが食い込む。口中に鉄錆の味が広がる。だが、そんなことはどうでもいい。護衛の小僧の足止めは成功した。いくらこの小僧の韋駄天でも、追いつくことはできまい。愉快そうに肩を揺らしながら、エルロはゆっくりと起き上がる。
少年は、すでに立ち上がっていた。
薄汚れたマント。乱雑な髪型。鋭い眼光。遠眼鏡の中に見い出した少年の姿を、今度は月光の中に見つける。
あの時感じたのは、恐怖だった。
だが今、彼が感じているのは、愉悦。出し抜いたという嘲り、獲物を手に入れたという喜び。
だからエルロは少年に嗤笑を向ける。
数秒後には、それが間違いだったと知る。
街道の彼方へと馬車は消えた。
緩やかに帯を引く後塵を、ラドゥは見つめる。
ずいぶん引き離された。馬車も速度を上げていた。いくらラドゥの脚といえど、もう追いつけない。
ラドゥは鬣犬の男に視線を移す。
砂埃に塗れた黒衣を揺らしながら、男は立ち上がった。
飛び降りてきた瞬間、あの男には殺気が無かった。迎撃する為ではなく、ラドゥの足止めだけを目的に、その身を投げ出してきたのだ。ゆえにラドゥの反応が、一瞬遅れた。
避けきることが出来なかった。
男は勝ち誇るような嘲笑をこちらに向けている。
それに対しラドゥが向けるのは、暗い眼差し。
獲物を狙う猛禽類のものではない。
兇暴な、赤毛の男と同質の、残忍な眼つきだ。
これから自分が何をするのか、ラドゥにはわかっている。
胸中が、鉄のように冷えていく。
道義や慈悲という物を、心から切り離す。
ナイフを引き抜く。刃が、妖気を帯びる。
ラドゥが近づくと、男は剣を引き抜く。
月明かりを反射する切っ先など意に介さず、ラドゥは平然と間合いを詰める。
男が斬りかかる。
が、それよりも速く、ラドゥの拳が男の鳩尾に叩き込まれている。
ガクンと、男は崩れ落ちる。
どれだけの間、闇の中を漂っていたのかわからない。
不意に突き立てられた鋭い激痛に、エルロの意識は闇中から無理矢理引き揚げられた。
土の匂い。地べたの味。エルロはうつ伏せに倒れていた。
起き上がろうと躯を動かし、再度、激痛が全身を貫く。
右手が灼けるように熱い。そして動かない。
痛みに悶えながら、顔を引き揚げる。
ナイフにより、右手が地面に縫い付けられていた。これでは動けるはずがない。
黒い影がエルロの視界に立ちはだかった。
革編靴の踵が、縫い付けられた右手の人差し指に置かれる。
エルロは頭を上げる。
背筋を怖気が走る。
シムカ=トドゥクの護衛の少年が、彼を見下ろしていた。
一切の感情を排したような、氷のような表情を浮かべていた。
エルロの全身が、慄える。
歴戦の傭兵である彼の本能が告げている。これから酷い事が起こる、と。
「シムカ様を何処へ連れて行った?」
聞く者の心胆を寒からしめる声が、エルロの鼓膜を撫でる。
喋るな、とエルロは自分に言い聞かせる。俺は鬣犬であり、死ぬのも仕事の内だ。確かに俺は恐怖を感じている。遠眼鏡で覗いていた時からわかっていた、このガキは普通じゃない。だが屈服するのは、降伏するのは、鬣犬の恥だ。敵に降参するなど、断じて赦されていない。何があろうと俺は喋らない。鬣犬として、第二支隊隊長として、使命を全うしながら俺は死ぬ。
エルロは答えるかわりに唾を吐き、先ほどと同じ、小馬鹿にしたような嗤いを口元に浮かべる。
瞬間、骨の砕ける音が夜に響き渡る。
エルロの全身が、引き攣る。
人差し指が粉々になったのがわかる。
脂汗が顔面に浮かぶ。絶叫を噛み殺すように奥歯を噛み締める。それでも低い唸りが、唇から漏れる。
「あまり時間をかけていられない。俺の質問に答えろ。シムカ様は何処だ?」
荒い呼吸を整えようと大きく息を吸う。強く眼を瞑り、痛みを忘れようとする。
中指が砕ける感覚。
今度は、絶叫を抑えられなかった。
「何処だ?」
冷たい声。
移動するブーツ。
痛みを忘れる暇もない。
薬指が踏み砕かれる。
立て続けに、小指が犠牲となる。
エルロは咆える。咆え続ける。
最後に親指を踏み砕くと、ラドゥは男を見下ろした。
痛みを紛らわせる為か、男は額を何度も地面に打ちつけている。
「ひとつ、教えておいてやる」ラドゥはしゃがみ、男の頭髪を鷲掴むと、ぐいと上向かせる。額と額が突き合わさるほどの至近距離で、ラドゥは男を睨む。「次は左手だ」その言葉に、男の顔が、歪む。ラドゥの瞳は、さらに暗く沈む。「左手が終わってもアンタが吐かないなら、次は耳を削ぐ。それで駄目なら鼻だ。それでも強情を張るというなら、いいだろう、睾丸を抉り出してやる。アンタが吐くまで、俺は続ける。わかったか?」
実際のところ、ラドゥは拷問など好きではない。戦闘となれば平然と人を殺す。戦いを有利に進める為に相手の腕を折り、脚を砕き、咽喉を潰すこともある。だがラドゥは、殺す時は極力苦しまないようにと決めていた。過剰な暴力は好みではない。まして生かしたまま痛めつけるなど、出来ることならしたくない。
だが、今はそんな事を言っている場合ではない。
一刻一秒が、シムカの命に関わる。
守ると、約束した。連れて行くと誓った。
彼女の居場所を吐かせる為なら、躊躇いはない。
ガロの教え通りだ。ラドゥは徹底的にやる。
目的の為なら、どこまでだって残忍になれる。
そしてそのことは、眼を合わせている男にも伝わっている。
それほどまでに、今のラドゥの顔貌には、魔の翳が射している。
「それじゃ、もう一度聞く」ラドゥは男の右手からナイフを引き抜き、血を振り払った。「シムカは何処だ?」
【17】
にわかに活気だった外界の気配に、ドムグは眼を覚ました。長靴が地を蹴る音、上衣が擦れる音、部下たちの下卑た嗤い声。天幕の中で身を起こす。その身に刻まれた鬣犬の刺青が、まるで生きているかのように躍動する。ドムグはすぐさま服を纏い、剣を佩き、外へ出る。
闇が、薄い。
空は仄かに白みはじめている。
払暁が近い。
だが、それだけでは活気だった部下たちの説明にはならない。
「お頭」こちらに駆け寄ってきた人影が口を開いた。ジジだ。「起きてたんですか」
「こう煩くちゃおちおち眠ってもいられねぇからな」鋭い眼光をジジに向け、「何があった」
「それを伝えるために来たんですよ」腹心の部下である弟は、嗤った。「街道の斥候から報告が来ました。第二支隊がシムカ=トドゥクを手に入れたようです」
鬣犬がいるのは街道から些か外れた山麓の森林、そこにぽっかりと開いた広場だった。陣を張るのにお誂え向きなその場所は、いつもは〈ビルジ〉を目指す隊商の野営地として活用されているらしいのだが、ここ数日は鬣犬が占領している。通りには常に立哨が配置され、何人たりともこの陣地へは立ち入ることを赦さない。
そんな広場に今、一台の馬車が進入してくる。
荷台には拳を掲げる男たち。そして縮こまる、少女の姿。
鬣犬たちは仲間の帰還に、獲物の確保に、雄叫びを上げる。
そんな中にあっても鬣犬の首領は腕を組み、静かに、馬車の到着を待つ。
「まさかまさかね」飄々とした調子で、ザルファがドムグの隣に立った。「あんな穴だらけの作戦で、まさか本当に小娘を捕らえられるとはな」
「気に入らねぇか?」
「別に」かったるそうにザルファは肩をすくめる。「ただ、つまらねぇと思っただけだ」
「あんたがどう思おうと、俺たちには関係ない。それにわかっているはずだ、俺たちには遊んでいる余裕なんざ」
鬱陶しそうにザルファはドムグの言葉を遮る。「皆まで言うな。俺もプロだ。お前等のやり方に口を挟むつもりはない」そうしてにやりとする。「払うもんさえ払ってもらえりゃ、俺はそれで構わない」
「そりゃそうだろうよ」ドムグも口元を歪める。「しかし解せねぇな。一級狩人のあんただ、金なんざ有り余ってんだろ。どうして未だに裏の世界に片足を突っ込んでる?」
「知らないのか? 金ってのは幾ら持ってても困らないんだぜ」
「答えになってないな」
「俺は骨の髄までどっぷり肥溜めに浸かってる。今さら抜け出せると思うか?」
「俺の眼には、あんたは抜け出せないんじゃなく、抜け出す気がないように見えるぜ」
その通りというように、ザルファは嗤う。
ふたりの眼前で馬車が停止する。
少女を伴い、鬣犬たちは荷台から降りる。ドムグの前に整列し、敬礼する。
「エルロの野郎がいねぇな」
ドムグの問いに、鬣犬が説明する。
「なるほどな」ドムグは頷く。「俺の部下として、使命を全うしたってわけだ。惜しい奴を失ったな」
ひとりの鬣犬が、俯く少女を首領の前へ引き出す。
「痣の確認は」ドムグが訊く。
「済んでいます」
「種別は」
「〈蛇〉です」
驚いたように眼を見開き、
「本当か?」
ドムグはようやく手に入れた獲物、シムカ=トドゥクの頭髪を掴み、乱暴に上向かせる。潤んだ瞳、スッとした鼻梁、小さな唇。なかなかの器量よしだ。少女趣味の変態貴族にでも売り払えば、かなりの金になりそうだ。が、売却相手は貴族ではなく〈蜈蚣〉だ。奴等は商品の容姿など気にしない。男だろうが、女だろうが、老いていようが幼かろうが、奴等の関心は商品が生きていること、そしてその身に痣を刻んでいること。ドムグは少女の額布を摑み、強引に引き千切った。
シムカの頬を涙が一筋伝う。
ドムグは少女の額にのたくる痣を指先で擦る。
「確かに蛇だ。まさか参號憑きだったとはな」
獸憑きに顕れる痣は、四つに分類される。
黒い楕円形の〈玉痣〉。
細い筋が幾重にも折り重なる〈蚯蚓痣〉。
皮膚を蛇行する一筋の〈蛇痣〉。
そして蠢くような、赤黒い、長蟲を思わせる〈蜈蚣痣〉。
多少の差異はあれど、獸憑きに浮かぶ痣の形状はこの四つで間違いない。なぜこのような痣が顕れるのか、理由はわかっていない。獸に関する事象は悉く解明されていず、これから先も、解明されることはないのかもしれない。わかっているのは、痣の形が、獸の等級を顕しているということ。
玉痣は〈伍號種〉。
蚯蚓痣は〈肆號種〉。
蛇痣は〈参號種〉。
そして蜈蚣痣は〈弐號種〉。
玉痣と蚯蚓痣は獸憑きの中でも最も一般的な形だ。この世界に生きる八割程の憑人は、どちらかの痣をその身に刻んでいる。残りの二割の者だけが、躯に蛇を走らせる。
蜈蚣痣については、存在しないものと思って差し支えない。もともと顕現率が極端に低いことにくわえ、躯に蟲を這わせる赤児はまず間違いなく間引かれる。国によっては、ふた親、その親族一同までもが罪科に問われ、抹殺されることさえある。弐號種とは厄災だ。厄災を宿した人間を生かしておくわけにはいかない。ゆえに弐號憑きは、ほぼ存在しない。そう、ほぼだ。ドムグの知る限り、この世界にはふたりだけ、蟲を這わせた者がいる。
ひとりは〈憑人の里〉に。
もうひとりは、自身の痣の名を冠する最悪の犯罪集団を率いている。
少女の髪から手を離し、ドムグは愉快そうに肩を揺すった。
今回の仕事の依頼人であるヨキ国暗部の男は、シムカ=トドゥクの痣の種類までは把握していなかった。ドムグはおおかた玉痣か蚯蚓痣だろうと当たりをつけていた。それがどうだ、蓋を開けてみればそこには蛇の紋様。参號憑きともなれば、蜈蚣の連中、一体幾ら払う?
部下を多く失った。
一度は諦めかけた。
だが、粘った甲斐があったというものだ。
「……ゴドは? ゴドは、無事なんですか……?」
か細い声がドムグの耳に届いた。
濡れた視線が、ドムグを見上げていた。その瞳は、懸命にドムグを睨んでいた。
「ゴドは……本当にッ……」
「生きてるぜ、まだな」ドムグはそう言って少女の肩を抱き、にやりとする。「俺を睨むとは、なかなか気骨があるじゃねぇか。俺は気概のある奴が嫌いじゃねぇ。それに、言われた通り投降もしてきたしな、少しくらい褒美をやろう」
あの老い耄れを連れてこい、ドムグの命令に、鬣犬たちが広場隅の天幕から老人を引きずり出し、ドムグの前に放り出した。地に伏せる人影は、低く掠れた呻きをあげる。起き上がろうとするも、両腕が縛られおり、身を捩ることしかできない。
「ゴドッ!」
シムカは駆け寄り、老人を助け起こした。
「ゴド、しっかりしてッ」
「シムカ……様……」ゴドは身を裂かれるような声を絞り出す。「本当に、貴女なのですか……」
「そう、わたしだよ」少女は老剣士の頭を掻き抱く。頬が痩けている。髪が抜け落ちている。鬣犬が人質をまともに扱うわけがない。どのような酷い仕打ちを受けていたことか。腹部に巻かれた包帯は薄汚れているが、血染みは見られない。捕らえられた時に、傷が塞がっていたことだけが唯一の救いか。でなければ、今頃、彼は。
「よかった」シムカは腕に力を込める。「生きていて、よかった」
「なぜ、逃げなかったのです……」
「ごめんなさい」そうしなければならないことはわかっていた。自分が生きることこそが、ゴドの唯一の望みだということは、わかってはいたのだ。ラドゥにも悪いことをした。命を懸けて護衛を引き受けてくれたというのに、自分の我が儘で、すべてを台無しにしてしまった。それでも、此処に来た。自分の命と引き換えに、ゴドが助かるというのなら。「あなたを、見捨てられなかった」
「なかなか泣かせる光景じゃねぇか」ドムグは傍らに控えるジジに嗤いかける。「ああいうのを家族愛って言うんだぜ?」
「俺たちには無縁の感情でしょう、お頭」ジジは苛立たしげに肩をすくめる。「それにあのお涙頂戴を見るのは二度目、いい加減飽き飽きですよ」
「オメェが失敗した時か?」
「そうです。あの時も同じようなものを見せられました。ウンザリですよ」
「オメェが苛ついてるのは、あの三文芝居のせいじゃねぇだろ」
「……確かに、そうかもしれませんね」襲撃の記憶を思い出し、ジジは忌々しげに吐き捨てる。「あの小僧に邪魔されたせいで、すべての計画が台無しになった。できればあの時のことは、思い出したくないんですよ」
「心配すんな。護衛のガキはいねぇ。俺たちの勝ちだ」
ドムグは少女と老人を顎で指し「こいつ等を連れてけ」と指示する。
「ガキの方も縛っときますか」
ふたりを引っ立てる鬣犬の問いに、
「老い耄れがいる以上、どうせ逃げやしねぇ。見張るだけで十分だ」ドムグはシムカの額に視線を据える。「それに獸憑きってのは縄で縛るもんじゃねぇ。こいつ等にはこいつ等に適した縛り方がある。そうだろ、ジジ?」
「ええ、その通りです」
「さっさと連れてけ」
少女と老人の姿が薄闇に紛れると、
「さて」
ドムグはザルファを見つめ、切り出す。
「獲物も手に入った事だし、俺たちはこれからちょっとしたブリーフィングを行う」
「逃走経路の相談か?」
「そんな所だ。で、あんたはどうする。今回の仕事はあらかた片付いたわけだし、あんたが南部に帰るってんなら止めねぇよ。もちろん報酬はすぐに用意する。この国でこうも円滑に事を運べたのは、ひとえに一級狩人であるあんたのお陰だからな、相場に色つけた額を支払うぜ」
「ずいぶんと殊勝な心がけだな」
「だからこそ、鬣犬は裏で生き残ってるのさ」
「獲物が手に入った瞬間、厄介払いとはな」
「おいおい、俺はそんなつもりじゃ」
「冗談だよ」ザルファは嗤い「気持ちは受け取っておくが、乗りかかった船から降りるほど俺も薄情じゃない。お前等がこの国を出るまで付き合うさ」
そう言って、ザルファはドムグに背を向ける。
ドムグは遠ざかる一級狩人の背を見つめながら、内心舌打ちをする。
(そろそろあの野郎を厄介払いしたかったんだがな)
ザルファは諸刃の剣だ。手元に置いておくには、あまりに危険すぎる。
(まあいい)想念を振り払うように首を振り、ドムグは部下たちの元へ歩き出す。(シムカ=トドゥクは手に入れたんだ。あとはミカヅツへ帰還するだけだ。あと少しの間、奴の手綱を握ってりゃあいいだけの話だ)
ジジ、他数名の側近たちがドムグを囲む。
「ヨキ国への連絡は?」
「依頼人から預かっていた鳩を先ほど飛ばしました」
ジジの言葉に、ドムグは頷く。
「蜈蚣への文はどうします?」古参のひとりが訊ねる。「鴉を送りますか?」
「やめとけ」ドムグは鋭く制する。「ザルファの野郎と別れるまで、蜈蚣との連絡は控えろ。野郎は獸みたいに勘が鋭いからな」ドムグは用心深く周囲に眼を配る。山稜の投げかける影。散在する天幕。轟々と燃え盛る篝火。徘徊する鬣犬たち。ザルファの姿は見当たらない。だが、この何処かに、奴はいる。ドムグは凄絶な表情で側近たちに釘を刺す。「いいか、絶対に気取られるなよ」
「よお、シムカ=トドゥク」
その声に、少女は顔を上げた。
赤毛の男がこちらに向かい歩いてくる。
シムカを見張っていた三人の鬣犬が敬礼した。
「このガキに少し話がある。鬱陶しいから消えてろ」
ザルファの命令に頷くと、三人は少し離れた篝火の方へ移動した。が、その視線は依然シムカへと注がれている。あそこまで警戒する必要は無いのに、とシムカは思う。鬣犬の首領が言っていた通り、ゴドを置いて逃げるなど、彼女にはできない。
そんな彼女の近衛剣士が、傍らで身を起こす。
「貴様、一体何の用だ」ゴドはザルファを睨み、声を荒げる。後ろ手に縛られた状態で、それでも主人を庇おうと立ち上がり、少女の前に進み出る。「誰であろうと、シムカ様には、指一本触れさせはせんぞッ」
「そう気色ばむなよ。俺にガキの趣味はない。それにコイツが獸憑きだろうが蛇痣だろうが、どうでもいい。言ったろ、俺は話を訊きに来ただけだ」ザルファが少女を見下ろす。「あの小僧は誰だ?」
シムカの躯が、固まる。
「俺と戦り合ったあの小僧だよ。何者だ?」
ゆっくりと、シムカはザルファを見上げる。
虎の双眸が、彼女を見返している。
そこに宿ったあまりに狂暴な光に、シムカは息を呑む。
この男の気配は鬣犬とは違う。
どこがどう違うのか、シムカには言語化できない。だが、確かに違う。
だからといって安心できるというわけではない。むしろこの男の方が、鬣犬などよりも、よほど恐ろしい。
ここに連行される馬車の中で、シムカは鬣犬たちの話を盗み聞きしていた。やはりこの男はゾルガ国の一級狩人〈削刃のザルファ〉で間違いないようだ。
そんな男が、鬣犬と行動を共にしていた。
自分を追っていた。
やはり、逃げ切るのは最初から無理だったのだ。
シムカは拳を握り締め、
「……知りま、せん」
そう、呟いた。
「知らない?」冷ややかなザルファの声。「そんなわけないだろ」
「いいえ、わたしは、知りません」
ただでさえラドゥを裏切り、シムカは此処へ来たのだ。せめてこれ以上彼を巻き込まないように努力するのが、恩返しのはずだ。
シムカはキッとザルファを睨んだ。
「たとえ知っていたとしても、あなたの様な人には、絶対に教えませんッ」
思いがけぬ強い語調に、ゴドが驚く。
ザルファは依然、シムカを見下ろし続けている。
彼女はザルファから視線を逸らさない。
重苦しい沈黙が、ふたりの間に流れる。
「そうか」不意にザルファは肩をすくめ、あっけないほど簡単に引き下がった。「ま、別にいいさ。あの小僧に直接訊けばいいだけの話しだしな」
そう言ってふたりに背を向ける。
「待て」その背中を、ゴドが呼び止めた。「貴様等、一体何を考えている」
かったるそうな表情でザルファが振り返る。
「何の話だ」
「この、状況のことだ」ゴドは自分の縛られた腕を見下ろし、シムカに慈愛の眼差しを注ぎ、ザルファには険悪な視線を向ける。「貴様は、いや鬣犬は、一体何を企んでいる」
【18】
ブリーフィングを終える頃には、すでに闇は消え失せていた。朝鳥の囀りが深閑とした夜の終わりを告げている。降りかかる曙光に眼を細めながら、ドムグはジジたちを伴い、野営地の中央へと移動する。何事かと集ってきた鬣犬たちのひとりに、
「小娘と老い耄れを連れてこい」
ドムグは命じ、
「これから面白いもんが見れるぜ」
そう嗤った。
黒い無頼漢たちの中から、ザルファが歩み出てきた。
「騒がしいな」
「丁度よかった、あんたを呼ぼうと思ってたところだ」
「何の用だ」
「仕事だ」
「俺に?」
「あんたにぴったりのな。これから小娘を縛る」
「なるほど。それで俺の出番か」
「その通り。獸狩りこそがあんたの本分だろう?」
獸憑きの身動きを封じる事を〈縛り〉、あるいは〈緊獸〉と云う。これは物理的に身柄を拘束する事を意味しているわけではない。熟練の憑人は自在に獸を喚ぶことが出来る。よって獸憑きを拘束する場合、もっとも重要なのは術者の意識を奪うことにある。どうやら獸と術者の間には何らかの精神的な繋がりがあるようで、術者が死ぬか気を失うかすると、獸は霧散する。この性質を逆手に取ったのが〈縛り〉である。術者の意識が獸に作用するように、獸の意識もまた、術者に作用する。ならば、獸を殺せばどうなるか。結論から言ってしまえば、獸が死のうと術者が死に到ることはない。だが獸の死はそのまま術者に流れ込み、途轍もない負荷でその精神を圧迫する。その負荷に耐えられず、まず間違いなく術者は昏倒する。修業を積んだ熟練の術者でも二、三日、素人同然のシムカならば、十日は昏睡状態が続くだろう。生け捕りにする場合、これほど都合のいい方法が他にあるだろうか。
「殺すのは構わないが、あの小娘、喚べるのか?」
「その為にあの老い耄れがいる」
鬣犬たちの間から、シムカとゴドが引き出されてくる。
親子のように身を寄せ合っているふたりを、無骨な男どもが引き離す。
ドムグが指示すると、ふたりの男がゴドを引きずって鬣犬の輪から離れる。
「ゴドッ!」叫び、シムカは暴れる。だが、所詮少女の細腕では鬣犬に敵うわけもなく、背後から抑えつける男の手に身動きを封じられる。
「そういうことか」ザルファは納得したように頷いた。「あの爺を出しに、獸を引きずり出そうって腹か」
「その通りだ」
素性を隠し暮らしていた獸憑きが、予期せずして獸を喚んでしまい、その正体を晒してしまうという事件が時たま起こる。獸を喚ぶ為には、強い感情が必要となる。憑人の里の〈操獸団〉などは、修業を重ねることで一瞬で感情を高ぶらせ、獸を召喚する。その時の感情の振り幅はまさに激情と呼ぶに相応しいもので、通常、日常生活の中で獸を喚ぶ程までの激情に駆られることは、無い。
だが、例えば大切な人間の死を目の当たりにしたら。
両親の死。兄弟の死。子供の死。伴侶の死。
そういう時、人は激情に駆られる。
ほとんどの事例が葬儀の場や紛争地帯で確認されているのは、偶然ではない。
悲歎は、獸を喚ぶのにうってつけの感情なのだ。
ふたりの男が、ゴドを地面に抛り投げた。
そしておもむろに、剣を引き抜く。
その光景を目の当たりにしたシムカは、必死の形相でドムグを見つめる。
「どうしてッ、わたしが投降すれば、ゴドの命は助けてくれるってッ!」
「そんなくだらない御託を、まさか本気で信じてやがったわけじゃねぇよな」やれやれとドムグは首を振る。「妾腹とはいえやはり王族か、よほど世間離れしてるらしいな。おい、しっかり見せつけろよ」
少女を抑えつけていた腕が、彼女の顔に伸びる。側頭部を摑み、顔を逸らせないようにする。
シムカは必死に身を捩るが、どうにもならない。
「悪い野郎だな」ザルファが忍び笑いをする。「お前を見てると〈肥溜め〉のクソ共を思い出すぜ」
「クソ野郎はお嫌いか?」
「大好きさ」ザルファの双眸が妖しく光る。「俺が唯一嫌いなのは、蜈蚣だけだ」
「だろうな」
苦笑し、ドムグはザルファに背を向ける。
そして片腕を掲げる。
同調するように、ふたり男は白刃を振りあげる。
ジジが嗤う。
シムカを抑えつけている男が嗤う。
鬣犬たちが嗤う。
そうしてドムグが嗤う。
シムカは肩と頭を抑えられ、身動きが取れない。
だが、腕は動かせる。暴れながら、腰裏に手を伸ばす。短剣の柄が指先に触れる。念のため、シムカはこの得物を隠し持っていた。正直、取り上げられると覚悟していたのだが、鬣犬の誰ひとりとして彼女の身体を検める者はいなかった。投降してきた以上、抵抗する気力はないと判断されたのだろうが、何よりシムカが少女であることが大きかった。たかだか十四の小娘に何が出来る、鬣犬たちの態度には、そういった感情がありありと表れていた。
だから彼女を検めることもしなければ、四肢の自由を奪うこともしなかった。
『女子供は戦えないと思っている奴等がごまんといる。そういう奴等は、俺やあなたのような者を見ると、まず間違いなく油断します』
ラドゥの言っていたとおりだった。
この男たちは、油断している。
シムカは短剣を抜き、背後の男に向け、思い切り刃を突き出した。
刃が下腹部に沈む感触が掌に伝わる。
「ぐぉ……ッ!」
呻き声と共に、男の手が緩む。
シムカは男の腕を振り払い、駆け出す。
周囲の鬣犬たちが、ざわつく。
「得物を隠し持ってやがっただと?」
「相変わらずお前等は詰めが甘いな」
ドムグの毒づきと、ザルファの嗤笑を背に、シムカはゴドの元へ、ただひたすらに駆ける。
ひとりの男が立ち塞がった。
誤って獸を喚んでしまったトラウマは、いまだ根深い。
人を傷つけるのは、途轍もなく怖い。
しかしゴドの死が目前に迫っている今、シムカは人を傷つけることに恐怖を感じていなかった。
ただ、ゴドがこの世からいなくなってしまうことだけが、恐ろしかった。
シムカは短剣を強く握り締めた。
ラドゥはなんと言っていたか。
『今のは〈地疾り〉です』
あの動きは、わたしには出来ない。でも、他にも何か教えてくれた。
『跳躍や踏み込みで代用できます。重要なのは、相手よりも速く動くことです』
シムカはラドゥの教え通り、跳んだ。
突然身を投げてきた少女に、男は驚く。
『殺すなら咽喉を。動きを奪いたいなら脚を。とりあえず傷を負わせたいなら上半身を狙います』
跳躍の勢いを刃に乗せ、シムカは男の上半身に斬り込んだ。
飛び散る血。揺らめく黒衣。蹈鞴を踏む男。
その脇を、転がるように通り抜け、再びシムカは走り出す。
ゴドがすぐそこにいる。あともう少しで手が届く。あと、少しで。
急にシムカの襟元が後ろから引かれる。
襟刳りが咽喉に食い込む。息が出来ない。短剣を取り落とす。少女は仰向けに倒れる。鬣犬のひとりが彼女を見下ろしている。男は短剣を蹴り払うと、シムカを強引に立たせる。そうして先ほどの男よりもさらに強く、彼女の身動きを封じる。
シムカの動きは、所詮つけ焼き刃だ。
不意を突いてふたりの男をいなすことに成功したが、ここにいるのは歴戦の傭兵たち、小娘ひとり捕らえることなど、容易い。
「手間かけさせやがって」ドムグの怒声が轟く。「今度は逃がすな、しっかりその眼に焼き付けさせろ、老い耄れが死ぬところをな」
シムカはゴドを呼ぶ。
地に伏せていた老人が、顔を上げる。
シムカはゴドの名を何度も呼ぶ。両眼から大粒の涙がこぼれ落ちる。
ゴドはゆっくりと身を起こし、主を安心させるように、微笑む。が、その顔は鬣犬の蹴りにより、再び地に沈む。ひとりがゴドの頭部を踏みつけ、動きを封じる。もうひとりが剣を振りあげる。
罪人に地を舐めさせながら断頭する、それは鬣犬の故国、ミカヅツ国の処刑方式。
シムカの呼び声は叫びとなり、ついには慟哭へと変わる。
嫌だ
シムカの眼の奥で、黒い何かが蠢く。
嫌だ。死んで欲しくない。助けないと、ゴドを助けないとッ
胸の奥から、それが沸き上がってくる。血管の中を、それが流れていく。全身を、黒い、牙を備えたそれが、満たしていく。
覚えのある感覚。母様が死んだ日、胸奥に兆したのと、まったく同じ感覚。
黒い、牙を備えたそれが、こちらを見つめている。こちらを見つめながら、嗤っている。
「殺れ」
ドムグの声が、シムカの耳に届く。
シムカは暴れる。
こちらを見つめる黒いそれは、嗤い続けている。
白刃がゴドへ振り下ろされる。
その光景に、少女の感情が爆発する。
獸が、咆吼するように嗤う。
シムカは声にならない声で、叫ぶ。
瞬間、〈獸〉が少女の内から解き放たれる。
「成功か」
視界を漂う黒い粒子を手で払いながら、ドムグはシムカを凝視した。
少女の全身から、夜霧が噴出している。曙光に照らされた霧は、しかし一切の光を反射しない。
ただ濃く、黒く、闇い。
少女を羽交い締めにしていた男は、すでに身を退いている。夜霧は忌み物、獸は忌み者。この考えは、この世界に生きる人間に共通の感情だ。歴戦の傭兵とはいえど、夜霧に対する嫌悪は堅気の人間とそう変わりはない。人は穢れを、闇を、そして魔を恐れるものだ。
周辺に撒き散らされた夜霧が、まるで意思を持っているかのように、シムカの前方で渦を巻きはじめる。
見るも悍ましい濃霧。
〈霧溜り〉が生まれる。
その中心から、黒い、太い腕が突き出される。
「お出ましか」ドムグは嗤う。「まさか爺を殺す前に喚びやがるとはな」
振り下ろされた刃は、突然の夜霧の奔流にその狙いを外されていた。
ゴドの危機が、シムカの感情を爆発させたらしい。
唐突に夜霧が霽れる。
野営地の視界が鮮明になる。
少女の目の前に、一匹の獸が蹲っている。
大きい。伍號種よりも、肆號種よりもさらに巨大で、力強い。
長く太い四肢。巌のような胴体。そして猿と狼を融合させたかのような、獰猛な顔つき。
参號種。
獸はシムカを見、それから周囲の鬣犬を見、それからゴドとその傍らのふたりの男に眼をとめる。
獸にとって自分以外は、すべて獲物だ。奴等は自分に近い物を片端から喰らい尽くす。しかし触媒である少女は別だ。この人間がいなければ自分は存在できないということを、参號種は本能的に理解している。
シムカを除き、もっとも近い獲物、それは。
獸が地を蹴った。
巨体からは想像もつかぬ俊敏性。
ゴドの傍らに立っていた鬣犬の頭部が、掻き消えた。
喰い千切られていた。
首から上を失った死体が、ゴトリと倒れる。
噴き出した血潮が、ゴドに降りかかる。
獸の殺戮衝動に限りはない。
次の瞬間には、参號種の薙いだ腕が、もうひとりの男の上半身を、ごっそり抉り取っている。獸の足下に肉塊が転がる。漂う血霧を浴びながら、獸は肉を咀嚼し、満足げに骨を咬み砕く。
そうして参號種の視線が、地に伏せるゴドへ向けられる。
「出番だぜ」
ドムグの言葉に、
「らしいな」
ザルファは歩き始める。
参號種の巨体に気圧されている鬣犬どもを尻目に、一級狩人は嬉々として怪物の元へ向かっていく。
夜霧の匂い。血の匂い。獸の匂い。
肉を喰む音。血を啜る音。骨を砕く音。
ザルファは剣に手をかける。
参號種程度では遊びにもならないが、まあ、余興とでも思えば丁度いい。
ザルファはこれから、大勢殺す予定だった。
虎の双眸が獲物を前に、狂暴に輝く。
削刃を引き抜く。
異形の刃が悍ましい血臭を放つ。
ザルファはゆっくりと歩み、参號種を見据え、不意に立ち止まる。
その視線が獸から逸れ、四方に広がる森林に向けられる。
獸の出現により、周囲は再び深い寂寞に沈んでいる。
物音ひとつ、葉擦れの微かな音さえ聞こえない。野生動物の気配すら掻き消えている。森林には何もいない。誰もいない。
だが、しかし。
ザルファの蟀谷が、疼いた。
一級狩人の動体視力が、樹々の間隙を過るマントの裾端を捉えた。
「なんだよ」心底愉しそうに、ザルファは嗤い声をあげた。「俺の出番はなさそうだな、小僧」
「やめてッ!」シムカは声を絞り出す。「お願い、止まってッ!」
だが、獸は止まらない。シムカの叫びも、懇願も、意に介さない。
当然だ。憑人が獸を御するためには、想像を絶する修業が必要とされる。精神と肉体を鍛え上げてはじめて獸を操ることができるのだ、獸の召喚の仕方すら理解していない彼女が、参號種を御すことなど、出来ようはずもない。
瞬く間にふたりの男を殺した獸の次なる狙いは、地に伏せるゴド。
参號種は身を掲げた。
血に濡れた乱杭歯が、陽光にぎらつく。
猿とも狼ともつかない凶悪な貌が、嗤った。
気がついたときには、シムカは走り出していた。
獸は触媒を傷つけない。ならば自分がゴドとの間に割って入れば、参號種はその動きを止めるはず。
その考えは、間違いではない。
だが、遅すぎた。
シムカとゴドとの間は、二間程。少女の足でもすぐに駆け抜けられるほどの、わずかな距離。
しかし獸の俊敏性からすれば、シムカの動きはあまりにも鈍すぎた。
獸は牙を剥き、ゴドに喰らいかかった。
その時だ。
獸の真横で、何かが燦めいた。




