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ぎらつくシャンデリアと、そこここからあがる男と女の歓声。酒と料理の匂い。
「ねぇ、キリト君。あれやって、あれぇ」
甘ったるい声と共に、きれいにネイルを塗った手が桐人の肩に置かれる。
桐人はちょっと苦笑した。
「まーた始まったの、アケミさん」
「だーって。アケミ姐さんは魅力的だからぁ」
語尾にハートや星印でもついていそうなハイテンションな声が答える。
実際、アケミは『魅力的』な部類に入った。
勤めている店では毎月一、二位を争うキャバ嬢で、ぱっと見、三十手前の華やかな顔立ちをしている。みずみずしい若さや新鮮さには欠けるが、その分を明るさやトーク力で補い、豪快かつ頼もしい包容力はそこらの新人には太刀打ちできない。桐人の店でも、彼女の密かなファンである若手は少なくない。
そういう上客が、数ある店の、数多いる男達の中から桐人を選んで、定期的に通って来てくれるのには、れっきとした理由がある。
「キリト君は可愛いし。子持ちのシングルマザーとしてはね、がんばってる男の子は誰でも応援したくなっちゃうの」
アケミ自身はそう語るが、それを鵜呑みにするほど桐人も素人ではない。
桐人は早々に求められている行動に移った。
なお、ぱっと見、三十手前のアケミは実年齢三十四歳。「おチビ二人が成人するまではね。アタシが、がんばんないと」と語る、二人の子持ちのシングルマザーである。
桐人は、ヘルプについていた若手達にさがるように指示し、テーブルにアケミと二人だけになる。もう、すっかり持ち歩くのが習慣になった道具を胸ポケットから取り出して、テーブルに並べていく。
「今度は新しい人? それとも前に切ったやつ?」
「新しい人よ。三ヶ月くらい前からお店に来るようになったんだけど、最近、本格的にしつこくなってね」
ため息をつきながら、アケミはスマホを桐人に見せてくれる。
画面にはびっしり、男からの一方的なメールが並んでいた。
いわゆる『ストーカー』の類のメールである。
夜に酒を呑む業態上、どうしてもキャバ嬢にはこの手の客の問題がつきまとう。アケミのように人気があるキャバ嬢は、人気がある分、おかしな客にあたる回数も多くなる。
桐人はスマホ画面のメール送信者名を確認して、その名前を呟く。
テーブルの上に白い紙切れと白い糸、そして小さなハサミが並んでいる。
桐人はアケミと向かい合うよう、座りなおす。
「先週もやったばかりだし、このペースだとアケミさんをハゲにしてしまいそうで、申し訳ないんだけど」
「大丈夫よぉ、その時はウィッグを作るもの」
桐人の軽口に、アケミもかるい調子で応じる。
桐人はアケミのふわふわと巻いた茶髪を人差し指と親指でほんの一束、つまむと、アケミにしつこくからんでくるという客の名前を口の中でくりかえした。
不意に「これだ!」という手応えを感じて、その瞬間を逃さず、髪をつまんだ人差し指と親指に力を込める。すかさずテーブルの上の糸をとり、つかんだ髪の束をくるくる巻いてしまう。
もう、すっかり手馴れた作業だ。糸もはじめから必要な長さに切ってある。
多少の長さを残して糸を巻くのをやめ、ハサミをとって、糸で結んだ少し上を切る。
桐人の手の中にアケミの茶色く染めた髪の細い束が残り、アケミはほっとした表情をのぞかせた。
そのまま髪の束を輪状にして残った糸を巻き、糸の端と端をきつく結ぶ。
最後に白い紙をとり、それで髪の束を包むと、アケミに手渡した。
「はい、終わり。念のため、塩を一つまみ振ってから処分するといいよ」
「ありがと~キリト君っ。これで、また安心して眠れるわぁ。お礼に、シャンパン注文しちゃう」
アケミの言葉は、いちいち語尾に音符かハートマークでもついていそうなハイテンションだが、不思議と憎めない。たぶん、だましだまされが日常的なこの世界で、アケミは『馬鹿だけど裏表がない』というのが見てとれる人柄だからだ。
少なくとも『そうとわかる』キャラ作りを徹底していて、だからこそ、見ている者にも無用な苛立ちを感じさせない。
「運が良ければそのまま消えるし、悪くても二、三ヶ月は顔を見せないよ。また来たら、切ってあげるから」
今夜のアケミのように、嫌な客、困った客との縁を『切る』。その能力を持っている。
それが、アケミが桐人に通う理由であり、浮き沈みの激しいこの世界で、桐人が一定の売上をキープできている理由の一つだった。
困った客に悩まされるキャバ嬢、ホステス、ホストは繁華街にはあふれており、彼ら彼女らの数パーセントは、桐人の『お得意様』なのだ。
「助かったぁ。ありがとね、キリト君。なんかね、もうわかるようになっちゃったわ。『あ、この人もうヤバいな』『スイッチ入ったな』って。ストーカーになる瞬間っていうの? 『ここだ!』『ヤバい!』って、ビビッてくるのよねぇ」
「アケミさん、人気者だから」
若手のヘルプが戻って来て、酒を注ぎはじめる。
ぼやくアケミの顔には、化粧でもごまかせない本気でうんざりする感情がのぞいており、桐人も嘘ではない同情を示すが、だからといってここで「子供達のためにも、夜の仕事を辞めて、まっとうな昼の仕事に就いたら?」なんてお説教をしたりはしない。
業種という点では桐人も同じ穴のムジナだし、アケミだって言われてそれができる状況なら、さっさとそうしているはずなのだ。
桐人が彼女にしてやれるのは、頼まれたとおり、困った客との『縁切り』をすること。
アケミが桐人に求めているのは説教ではないし、彼女に求められていることを黙ってこなしていれば、彼女は桐人の『お得意様』でいてくれるのだから。
それからしばらく、桐人はあれこれとアケミが気持ちよく酔う手伝いをしていたが、「指名です」と耳元にささやかれる。
「いってらっしゃーい」
ひらひらと手をふるアケミに挨拶して、指示されたテーブルに赴くと、待っていたのは初めて会う客だった。
見た目は二十代前半の、癖のないセミロングの黒髪をハーフアップにした、いかにも育ちの良さそうな清楚な雰囲気の女性だった。あまり繁華街にはそぐわない。
桐人が挨拶すると、自己紹介もそこそこに用件を切り出してきた。
「あの、さっき、あの人の髪を切っているのを見かけて」
「ああ、あれは…………」
「髪と一緒に、人の『縁』も切れるって、本当ですか!?」
客は性急だった。
「本当なら…………私も切ってもらいたいんです!」
「ストーカーとの縁を? それとも、元彼がしつこく、よりを戻したがっているとか?」
若い女性には多いパターンだろう。特に目の前の女性のような、いかにもおとなしげな清楚タイプは、一方的な片思い系のストーカーに目をつけられやすい、というのが桐人の個人的な感想だった。
かるい口調で確認しつつも、桐人は頭と態度をホストから縁切りモードに切り替える。キャバ嬢以外の客から飛び込みで依頼を受けることも時々あるので、慌てることはない。
ポケットの中の糸の残りを確認しながら、切ってほしい相手を予測したが、返答は桐人の予測を越えていた。
「…………母です」
桐人は客の、思いつめて青ざめた顔を見つめた。
「切ってほしいのは、母です。私の母との縁を…………切ってほしいんです…………!!」