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ピピピピピ。ピピピピピ。
やたら甲高い音が規則的に鳴り響いている。
「やめてください、この音…………誰ですか…………」
一緒に眠っているはずの仲間に声をかけ、声を出したことで頭が覚醒して、リリシャは状況を思い出した。
そうだ、ここはマクリアではない。
仲間達や何千何百という兵士達と共に旅した、魔帝城への道中でもないのだ。
リリシャは瞼を開いた。やっと慣れてきた、やわらかすぎるマットレスと毛布の間でもそもそ動き、枕元の時計から発する「ピピピ」という音を止める。こちらの時計と数字の読み方と、時間制度もすっかり覚えた。
今は朝の六時。寝たのが夜の十一時前だから、七時間以上寝たことになる。
どうりで頭がすっきりしているはずだ。魔帝討伐の道中では、こんなにたっぷりゆっくり眠れた日は数えるほどしかない。こちらに来てから、すっかり気が抜けてしまったようだ。
起きあがる。
リリシャが寝ているのは絨毯に直接、置いたマットレスの上だ。
「客用のベッドはないからなぁ。悪いけど、当分ここに寝てくれ」
そう言った時の桐人は、なんだかすまなさそうな顔をしていたけれど、リリシャはなにが申し訳ないのか、さっぱりわからない。マクリアでは、上級鑑定士として国王の命令を受けて魔帝討伐隊に加わってからも、こんなにやわらかい寝台で眠ったことは皆無だし、毛布だってとてもあたたかくて肌触りも抜群だ。
リリシャはパジャマ姿のまま部屋を出て、ぺたぺた歩いてリビングに入る。
リビングのカーテンを開けると、早朝の白い光がほぼ水平に射し込んできた。
存在が視認できないほど透明なガラスが張られた窓を開け、ベランダに出る。
朝の冷たい空気が頬や髪をなで、口の中から喉、胸の奥へと吸い込まれていく。
目の前に広がる直線的な建物の集合。遠くから響く乗り物の音。
(やっぱり、マクリアじゃない…………)
起きた時にわかっている事実だが、朝はいつも、まずこうして外を確認してしまう。
そして(今日もなんとか凌げますように)と祈り、自分が《鑑定士》として高い実力を持ち、それがこちらの世界――――『にほん』でも通用すること、各国から集まった仲間達との意思疎通のため、マクリアでほどこされていた《思念伝達》の術が『にほん』に来ても同じように作用していること(もし《思念伝達》が作用していなければ、リリシャは言語自体が通じなかったはずだ)、なにより、こちらに来てすぐに伊藤桐人という助言者兼宿と仕事の提供者を得ることができた幸運に、感謝を捧げるのだ。
リリシャは室内に戻って窓を閉め、自分が使わせてもらっている洋室の、隣の部屋をのぞく。
案の定、ベッドは空っぽだ。
仕事がある日の桐人は、リリシャが起きる前に家を出る。
彼は『ほすと』なる職業の人間で、夜明け前から正午までが勤務時間のため、夕方から夜中までは眠っている。そのため普段は、リリシャが鑑定の仕事を終えて帰宅した直後の、わずかな時間しか顔を合わせられなかった。
思えば、彼も奇特な人間だ。
自分を拾い、手当てし、最終的に当面の衣食住と仕事を与えてくれた桐人と出会っていなければ、自分は右も左もわからぬ別天地で、今頃どうなっていただろう。
『理子』という名前をつけてくれたのも、桐人だ。
「こちらで暮らすなら便宜上、こちら風の名前があったほうがいい」と勧めてくれたのだ。
リリシャは自分が使っている部屋に戻って、パジャマを脱ぐ。
服も、はじめて与えられた時は布地のなめらかさ、縫製の細かさと丈夫さ、発色の良さなどにびっくりした。「こんな上等の品物はもらえません」と躊躇したら、「いや、近くのユ〇クロでそろえただけだから」と桐人はまったく困った様子はなかった。
その鷹揚ぶりに、ますます(やはり王侯貴族なのでは…………)と疑ったものだ。
髪を梳いたリリシャは台所にむかい、朝食の支度にとりかかった。
「ただいま、理子…………は、いないのか…………」
自分が名付けた少女を呼んで、桐人はその不在に気づく。
今日はリリシャは仕事のある日だった。
時刻は午後一時前。桐人にとっては仕事から帰宅したばかりだが、リリシャは仕事の真っ最中だ。
リビングに入ると、テーブルの上にラップをかけた簡単な食事が用意され、『桐人』『夕食』と書かれたメモが添えられていた。その脇に『ホテル代』と書かれたメモと、千円札が二枚。
『一日二千円』は桐人がリリシャに部屋を貸す宿代で、リリシャが「無料では居づらいので」と言うので便宜上、設定した金額だ。占いの仕事を得てから今日まで、リリシャは律儀に毎日、払いつづけている。(そこまで気を遣わなくていいのに)と思う一方、毎日コンスタントに二千円を出せるだけの収入があるのかと思うと、けっこう驚きだ。
故郷では読み書きを習っていたというリリシャは、日本語はまだ文章では書けず、メモの字もよたよたしている。
その危なっかしい筆跡に口もとをほころばせると、桐人は上着を脱いでコーヒーを淹れ、リリシャが用意してくれた食事をレンジで温める。メモには『夕食』とあったが、リリシャと食べるつもりで後輩達との昼食を辞退してきたので、今、食べてしまうことにする。
それからスマホをチェックして客への営業メールを送信し、かるく掃除したり、買い物に行ったり、夕食を作ったりしていると、あっという間に四時半を過ぎた。
上着を着て、スマホやキーケースを手にとる。
リリシャの仕事の終了は五時なので、まっすぐ帰ってくれば、一緒に夕食をとるくらいの余裕はある。
思えば、奇妙な出会いだった。
ぼろ雑巾のような状態でゴミ捨て場に転がっていた少女は、自分を「日本人ではない」どころか「この世界の人間ではない」とのたまった。《鑑定士》と称する人間で、魔王(リリシャは《魔帝》と呼ぶが)を倒すために派遣された勇者一行の一人だ、とも。
むろん、桐人は少女の正気を疑った。
『ある日突然、異世界から来た美少女を拾う』は、アニメやライトノベルでは定番のシチュエーションだが、桐人の好みではない。
『推定未成年の家出娘がコスプレ系の店で働いていたところ、客に乱暴されかけたので逃げ出してきた』という状況のほうが、警察に丸投げすれば片付く分、まだマシだった。
ただ、警察を呼んで終わりにするには、少女には引っかかる部分がありすぎた。
結果、二ヶ月ちかくが過ぎた今でも、桐人は少女を自宅に置きつづけるという、想定外もいいところの選択をつづけている。
魔帝だの勇者だの異世界云々については、いまだ半信半疑のままだ。
リリシャのちょっと変わった髪や瞳の色、身の回りの当たり前にある道具や出来事にいちいち驚く様を見ていると、「本当に異世界の人間かもしれない」とも思うし、「演技かもしれない」「染めているだけかもしれない」とも思う。
ただ、彼女が《鑑定》と呼ぶ能力については、信じざるを得なかった。
なんといっても、桐人が十年以上秘めていた名を、初対面で見抜いたのだから。
あの出来事ゆえに、桐人はリリシャを警察に引き渡せなかった。
リリシャに占い師の仕事を斡旋したのも、桐人だ。
桐人の知人に、カフェをオープンしたはいいが、客足や売り上げに伸び悩む女性がいた。
彼女の料理や淹れたコーヒーには問題ない。となれば、必要なのは話題性、他店とは一味違うなにか、この店でなければ味わえない『売り』だ、と考えた桐人は、カフェの前でリリシャが占いをすることを提案した。カフェはもともと女性を対象にしたメニューと内装だし、女性客を呼び込むのに『よく当たる占い』は強力な武器になるはずだ。
知人は見た目が十代のリリシャに戸惑ったし、リリシャも「私の《鑑定》は占いではありません」と一度は機嫌を損ねた。
しかし、はじめてみれば桐人の狙いは大当たりで、リリシャはサイトもツイッターもまったくやっていないにも関わらず、またたく間に『よく当たる辛口占い師』として口コミが広がり、そのリリシャ目当てに来た客でカフェはにぎわい、桐人としては自分の先見の明をおおいに褒めたかった。
(まあ、長くつづけるのは無理かもしれないけどな)
本物の異世界人にせよ、そうでないにせよ、リリシャの身元がはっきりせず、未成年らしいという点はおおいに問題だ。桐人自身は『行くあてがないと主張する少女を保護した』だけのつもりだが、世間では『水商売の二十四歳の男が、未成年の少女を良からぬ目的で自宅に連れ込んだ』と見るだろう。『やましいことがないなら、さっさと警察に通報できたはずだ』と。
今のところ、リリシャは無害で興味深くて、遠慮も立場も知っている、見た目も中身も可愛げのある少女なので(ここは最重要だ。これが脂ぎったオッサンだったら、たとえ本物の異世界の国王だったとしても、助けたりなんか絶対しない)、宿と、日常の常識程度の知識は提供しているが、桐人自身が犯罪者として逮捕されるような事態になるなら、話は別だ。
そうならないよう、祈ってはいるが、もしそうなった場合、最悪、リリシャを切り捨てなければならないだろうと、すでに桐人は覚悟していた。
部屋の鍵をかけて駐車場に移動しながら、ついリリシャに「これから迎えに行く」と連絡しそうになって、彼女にはスマホも携帯電話も持たせていないことを思い出す。
(持たせたほうが便利に決まってるけど…………『身元不明の未成年』だとな…………)
書類がいろいろ面倒なことになるのは間違いない。こういうところでも『身元不明』と『未成年』はネックだ。
「うーん」とうなりながら、桐人は車のドアを開けて乗り込んだ。