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五日後、桐人のスマホに唯愛からその後の報告があり、リリシャが詳しい経緯を聞きたがったため、三人の予定を調整してカフェ『フォルチューヌ』に集合する。
唯愛の表情は明るかった。
「キリトさんに『縁切り』してもらったあと、不思議なくらい気分がすっきりして。変な怪我も悪夢もなくなったし、本当にありがとうございます」
唯愛の報告に、桐人も胸をなでおろす。
「じゃあ、今はちゃんと眠れているんだ?」
「はい。朝までぐっすり眠っています。幻聴とかもなくなりました」
「良かった。例の課長のセクハラは?」
「無くなりました。あのあとすぐ、派遣で新しい女の子が入ったんですけれど。その娘が二十歳と知った途端、彼女にアプローチするようになったんです。おかげで私はすっかり忘れられて、平和に仕事しています」
唯愛は心底ほっとした笑顔を見せたし、桐人も本気で「良かった」と安堵する。
一方で、より若いほうにあっさり乗り換えた課長の図々しさに呆れたし、二十歳の若さで四十過ぎの上司に言い寄られる派遣社員に、同情もする。
それを言うと、唯愛からは、
「大丈夫じゃないでしょうか。彼女、はっきりと『パパを補充したかったから、ちょうどいいです』って言っていましたから」
と、苦笑いが返ってきた。
なかなか、たくましい女性のようだ。
「今の問題は、菊池さんですね。入れ違いで、骨折して入院してしまったんです。優秀なので、みんな毎日『早く戻って来てほしい』と、ぼやいています」
ここでリリシャが口をはさんだ。
「たぶん、そのキクチさんは戻ってこないですよ」
「え? どうしてですか?」
「そのキクチさんが、今回の『呪い』の実行者だからです」
コーヒーカップを持っていた唯愛の手が止まったし、桐人も聞き間違いを疑う。
リリシャだけが平然とチョコレートケーキを食べていた。
「菊池さんが、って…………どういう意味ですか?」
「言ったとおりの意味です。あの『呪い』を唯愛さんにかけたのは、そのキクチさんです。カチョウは無関係です。『せくはら』は迷惑ですけれどね」
「え、でも」と唯愛は困惑を深くする。
「あれは…………あの『呪い』は、『恋のおまじない』だったんですよね? あの、菊池さんは女性です。それにたしか、四十七歳ですよ? 私の母と同年代です。そんな人が…………」
「恋に年齢は関係ありませんよ。性別も」
リリシャはなんてことない口調で言い切った。
「あの『呪具』しか《鑑定》していないので、読み取れた情報は少ないんですが…………いくつかの『念』は、はっきり読み取れました。あれは女性で、独身の中年で、唯愛さんに本当に強い思いを抱いていました。その『キクチ』という人は、全体に恰幅がよくて、これくらいの長さの黒髪で、こんな形の、赤い髪飾り…………『ばれった』ですか? を、つけている人ではないですか?」
リリシャがメモ帳に描いた絵に、唯愛が言葉を失う。
「つまり『告白したくても、できない状態』というのは『同性』で、かつ『母親のような年齢だったから』、そういうことか?」
桐人の確認に、リリシャはうなずいた。
「そう考えて、間違いないです。『呪具』から読み取れた範囲では、キクチさんは唯愛さんと出会った頃から、唯愛さんに惹かれていたようです。だから世話を焼き、唯愛さんがカチョウから『せくはら』された時は、心から怒ったんです。唯愛さんはキクチさんに『お母さんみたいだ』と言いませんでしたか?」
「え…………どうだろう…………覚えていませんけれど…………でも、言ったかもしれません。母の過干渉の件については時々、菊池さんにも相談にのってもらっていましたから。その時に『菊池さんみたいな人が、お母さんだったら』みたいなことは言ったかもしれません」
「キクチさんにとっては、思いが決壊する一言だったみたいです。唯愛さんはあくまで、キクチさんを先輩や同僚として慕っていたようですが、キクチさんは唯愛さんと親しくなるうちに『ひょっとしたら…………』と期待を抱いたようです。それなのに『お母さんみたい』と言われ、期待も恋も粉々に壊されてしまったんです。少なくとも本人は、そう感じたんです。『誰が母親だ』と怒り、苦しむ『念』が強く伝わってきました」
リリシャの説明に、桐人も「ああ…………」と遠い目になる。
店で、よく見る光景だ。散々優しくされ、笑いかけられて『ひょっして本気で愛されているのでは?』『ワンチャンあるのでは?』と期待したら、ただ、そういう仕事だった、というパターンである。
「じゃあ…………じゃあつまり、菊池さんは、私が『お母さんみたいだ』と言ったのを恨んで…………?」
「直接のきっかけは、それだったかもしれません。とにかく、それが一際強い『念』でしたから。そのあと、どういう経緯をたどったかは『呪具』からは明確に読み取れませんでしたが、最終的にはいい加減なまじないに頼って、それが『呪い』と化して、唯愛さんを苦しめたんです」
唯愛は呆然と顔色を失う。
桐人も唯愛に同情した。
『頼れる同僚』と信頼していたら、実は自分に気があった。というのは異性であっても、良くも悪くも驚くし、まして相手が同性で、母親ほど年齢の離れた存在となれば、二重三重にショックをうけざるをえないだろう。
「私…………どうすればいいんでしょう?」
唯愛の立場なら、誰もが思う一言だろう。
「菊池さんとは、先輩後輩の関係でやってきたんです。優秀だし人柄もいいし、同僚としては信頼も尊敬もしていますけれど、そういう対象として見たことは、一度もありません。そういう気持ちを持っている、と言われても…………」
「放っておけばいいと思います」
「でも、菊池さんは私を、その、好意を持ってくれているんですよね? そうとわかって、無視するのは…………きっと今までも、知らずに傷つけたようなことが」
「では、キクチさんの気持ちに応じますか?」
「それは…………」
「ですよね」
リリシャは肯定した。リリシャだけでなく、桐人にも読めていた答えだ。
「唯愛さんに、キクチさんを受け容れる気持ちがない以上、キクチさんの気持ちには、気づかないふりをするしかありません。実際、キクチさんは唯愛さんに告白したわけではありません。呪っただけです」
「それは…………」
「告げられていない以上、『気がつかなかった』で通すことは、それほど罪深いとは、わたしは思いません。人間は基本的に《鑑定》や《精神感応》能力でも持っていない限り、言葉にしないとわからない生き物です。まして告げないことを選んだのは、キクチさんです。一人の大人が真剣に考え、悩んだ結果、告げないことを選択したんです」
リリシャは淡々と唯愛に説く。
「告げなければ、永遠に唯愛さんに気づいてもらえないこと。唯愛さんが別の誰かと結ばれても、文句を言えないこと。わかったうえで、選択したはずです。仮に、わかっていなかったとしても、それは通りません。年齢や性別という、本人の努力ではどうにもならない要素があったにせよ、告げない以上は、唯愛さんに気づいてもらえない現実は受け容れるしかないです。黒澤部長だって、年齢や性別の壁を乗り越えて、はるたんに告白したんです。菊池さんに黒澤部長ほどの勇気や行動力がなかった以上、これが相応の結果です」
「あれはフィクションだ」
すかさず桐人がツッコむ。リリシャは、かまわずつづける。
「キクチさんの立場で考えてみてください。唯愛さんに好きな男性がいて、でも事情があって隠していたら、ある日突然『俺のこと好きだろ?』『でも俺は、君のことは好きじゃない』『俺のことは忘れてくれ』と言われたら。嬉しいですか?」
「…………」
唯愛の視線がちらりと、リリシャの隣へそれる。
「安易に『私のこと好きでしょ?』と暴露されるほうがつらくて、デリカシーが足りない時もあります。今、キクチさんが唯愛さんに望むとすれば、『私もキクチさんが好きです』と告白されることだけです。でも唯愛さんは、そうできませんよね? ならば、知らないふりをして黙っていることです。幸い、桐人の『呪い返し』は成功しました。この先は、キクチさんのほうから自然と離れていくと思います」
付け加える。
「もちろん、唯愛さんがキクチさんの行為を『どうしても許せない』『白日のもとにさらして贖罪させたい』というなら、話は別です。が、この国はたしか、『呪い』は罪にならないのでは?」
「ならない。『呪い』自体が、科学的に因果関係を立証されていないからな」
桐人が答える。そして唯愛に言った。
「俺も、理子の意見に賛成だ。唯愛さんとしては、知ってしまった以上、無視は難しいかもしれないけれど、理子の言うとおり、唯愛さんに菊池さんを受け容れる気持ちがない以上、下手に気遣われるほうが、菊池さんにとってはつらいし、残酷だ。気を遣うことで、また『縁』が結ばれる可能性もある。今回の件は本当に、唯愛さんの胸に秘めておくしかないよ。長い目で見れば、そのほうが菊池さんにとっては優しい対応だと思う」
「本当に、どうして呪われた方が、呪った方に優しくする必要があるのか、という話ですよ」
リリシャはかるく憤慨した口調で、ふたたびケーキを食べはじめる。
「…………そうですね」
唯愛も落ち着きを取り戻す。
「キリトさんやリリシャさんの言うとおりです。お断りするしかない以上、『気づいている』と伝えるのも残酷ですよね。ちょっと動揺してしまったみたいです。菊池さんとはこれまでどおり、同僚として接します。それ以上はありません」
苦さを含みながらも、唯愛は晴れ晴れとした笑みをとり戻す。
「それがいいよ」と桐人も賛成した。
数日後、桐人は『縁切り』の対価として店に来た唯愛から、『菊池さん』が退職したことを報告された。入院後、退職届が送られてきたという。菊池さんは退院後も、職場には一度も顔を出さず、職場に置いていた私物も郵送で済ませたそうだ。
私物を梱包したのは唯愛で、彼女も『今までお世話になりました。新しい職場でもがんばってください』とメールを送って、それで終わりにしたという。
帰宅してその話をリリシャに伝えながら、桐人は今回の件を思い返した。
「まさか、俺に『呪い返し』ができるとは思わなかった。『縁切り』に、あんな使い方があったなんてな」
「転職しますか?」
「まさか。今回は、まぐれだ」
優秀な《鑑定士》であるリリシャの補佐があってこそ、可能だった行為だ。桐人一人でどうにかできた、と思うほど、桐人は自分の能力を過信していない。
リリシャが『できる』と言ったから、その判断を信じただけなのだ。
「まあ、成功して良かった。『呪い返し』は成功すれば術者に呪いが返るが、失敗したら、こっちに呪いが来ていた。――――理子も、よく判断したな」
「これも、わたしの仕事なので。《魔帝》退治の時は、何度もやりました。それに、失敗したらしたで、対応策は用意していましたしね」
「対応策? どんな?」
「《魔帝》退治の際に、神官や魔術師や呪術師達から配られていた《解呪の呪具》を用意していました。桐人の『縁切り』が効かなかった時用に。桐人の『縁切り』より強力ですよ。なにしろ《魔帝》退治に選抜されるレベルの本職達が作成した品ですから」
さらっとした口調に、桐人は目をむいた。
「だったら、なんで最初からそれを出さないんだ!!」
「数に限りがあるんです。《魔帝》退治の時にずいぶん使ったうえ、こちらでは補充できませんから。桐人が『縁切り』できるなら、それに越したことはありませんでした。桐人も新しい経験を積めたでしょう?」
「よけいなお世話だ!!」
桐人が感じていた、リリシャに対する信頼感が吹き飛ぶ。
乱暴にジャケットをはおり、同居人の少女に声をかけた。
「行くぞ! 理子の冬用のコートだ!!」
桐人が名付けた少女は、抵抗することなく玄関までついてきて、ふと、ぽつりともらす。
「…………冬が終わったら…………わたしはどこにいるんですかね?」
リリシャが日本に飛ばされて来て、すでに三ヶ月以上。
寂しげな、不安を含んだその一言に、靴を履き終えた桐人は一瞬、迷ってから、ぽんと少女の肩を叩いて、玄関のドアを開けてやった。
「どこでもいいだろ。理子が望むなら、俺はいつでも部屋を貸す」
リリシャは一瞬、驚いた表情になり――――恥ずかしそうに、嬉しそうに笑う。
「――――ありがとうございます」
その笑顔に、桐人は彼女の『よけいなお世話』に対する報復を決めた。
(来年の夏は、絶対に一度はプールに連れて行く)
リリシャの反応を想像するだけで、夏まで退屈しそうにない。
「行くぞ」
桐人はリリシャの手を引き、駐車場にむかった。