雪消月 <二月>
あたしは雪が嫌いだ。
雪国に生まれたのに、と友人は言うが雪国の人間こそ暖かさを求める、とあたしは思う。南国出身者は雪山を登るし、北国出身者は海に潜る。
夏の暑さも湿気も苦手ではないのだから、雪が嫌いであっても文句を言われる筋合いはない。
雪の降らない土地に憧れながら結局はこの地に戻ってきた。最近は降雪量が少ないのが救いだ。それでも、この季節にはイライラが募る。滑り止めのゴムを張り付けたブーツですらしっかりと踏み込めない。新雪はふかふかと心許なく、根雪はたちが悪い。アイスバーンは言わずもがなだ。あたしはブーツのヒールを突き刺すように歩く。ストールをまき直していると空からちらほらとまた降ってきた。
塵を核にした水蒸気の固まり。
あたしは舌打ちして睨み上げる。落ちてくる灰色の結晶。傘をさそうと視線を戻した先にその店はあった。
季節屋雪消月支店。
雪を消してくれる。そう思ったらあたしは店の戸を押していた。
随分と古い店だ、というのが第一印象である。木や漆塗りや和紙張りの茶筒が並んでいる。
お茶屋か。あたしは落胆した。そうだ、雪を消してくれる店など、融雪剤を売る店くらいだろう。
店は暖房が効いておらず、しんとした、水の凍みた匂いがした。あたしはこの匂いが何か分かった。
これは雪の匂いだ。雪が溶けていく匂いだ。
「いらっしゃいませ」
店の奥から男が一人出てきた。ぼさぼさの頭に首のつまったセーター、コーデュロイのパンツに綿入りだろうはんてんを着ている。黒縁メガネは今時あるのかというほどフレームが丸い。
変な男。これが第二印象である。
「あのう、この店って…」
「季節屋雪消月支店です。雪消月屋、とも呼ばれています」
ゆきげ、づき。
「ここはお茶屋さん?」
「いいえ、売っているのは春風です」
「…春、風?」
明らかに茶筒だろう、と視線を向ければ男は手近な筒をひとつ取り、中指を折り曲げてノックした。木の筒は乾いた音をたてる。
「お試しになりますか」
渡された茶筒を開けてごらんなさいと促される。あたしは蓋を持ち上げた。きゅぽん、と空気が鳴って内蓋が見える。突起をつまみ筒を開けた。
「…わ、」
ふわっと漂ったのは優しい匂いだった。泥臭く、青臭く、澄んだ、甘い匂い。あたしは知ってる。これは、
「春の匂いだわ…」
筒の中は空っぽだった。ふわっと漂った匂いはすぐに霧散し、また水の凍みた匂いに変わる。
「春風の筒です。開けるたびに薄れはしますが、ひと月は保ちます」
「春風の、茶筒。これはお香かポプリなの?」
「香でもポプリでもアロマオイルでもありません。春風をすくって来て茶筒に詰めたのです」
春風を、すくって、来て。
春風をすくうの?
「風の吹き溜まりがあるように、春風にも吹き溜まりがあります。冬の間はそこに溜まっていることが多いので、一足早くすくいに行くのです。茶筒はその、父が茶筒の卸をしていたこともありますが、…茶筒に入れた春風はより柔らかくこなれるんですよ」
蓋を戻して筒を返す。男は棚に戻さずにはんてんの袖に入れた。春風を詰め直すのだと言う。
「この茶筒に春風が詰まっているというわけね」
「そうです」
「開けた春風はどうなるの」
「しばらくは辺りを漂ってから、南へ向かって集まります。春一番に合流するようです」
夢のある話だ。あたしは面白くなった。夢が嫌いなあたしは春が大好きだ。春一番のあの吹き飛ばされる感じが特に好きだった。髪を乱されても怒る気にはならない。あの春一番に合流する。
「これ、いただくわ」
手のひらにおさまる、千代柄の和紙を張られた茶筒を買った。
公園のベンチに座り、買ったばかりの包みを開く。かぽん、とアルミで出来た筒を開けた。ふわっと春風が出て来る。春風はしばらくあたしの周りに止まり、不意に霧散して消えた。土の匂い、水の匂い、日溜まりの匂い、緑の匂い。目を閉じるとさまざまな光景が浮かぶ。蓋を閉め、また開ける。あたしの好きな春が少しだけ来る。
春が来る。
北風が吹き、あたしは目を開けた。道路から掻き出された雪が視界にはいり溜め息をつく。
まだ冬なのよね。
寒気を感じ、立ち上がる。風邪をひいてしまう。ストールをまき直しながらふと、足元に視線を落とす。
あ。
足元の雪が小さく円形に溶けていた。その中で少し色を変えた葉が眠っている。ギザギザの緑の葉。
タンポポ。
春風は南へ行った。いつか吹き溜まりにいる風とともに、冬を押し上げるために吹き付ける。緑を目覚めさせる。布団をはがし春を告げる。
そうか、雪は大地の布団なのね。
眠りを妨げてしまったことに気づいたあたしは、近くの雪をすくってかけた。雪は手の熱で溶けて滴になる。鼻先にかざすと、水の匂いがする。
やっぱり、雪より水のほうが好き。
早く春になりますように。あたしはそんな願いを込めて中指で春風の茶筒を叩いた。
柔らかな音が響いた。春の足音になるのかもしれない。
【了】