霞初月 <一月>
人間には三大欲求があるというが、確かに欲求が満たされないと何かしら障害が出る。
せめて性欲がないのであれば淡白ってだけで説明がついたのに。
私には睡眠欲がない。それに伴って食欲もない。
眠りたい、と思っても眠れたことがない。最後に寝たのはいつのことだか。そうだ、二ヶ月前だ。だいたい二ヶ月も寝ないとふとした瞬間に倒れて病院に運ばれる。そのまま丸三日意識不明で昏睡し、目覚めてみればまた不眠症だ。
初めて昏睡したときは無断欠席を心配した会社からの電話にも目覚めなかったため、気にして訪ねてきてくれた同僚に玄関先に倒れていたところを発見された。気が付けば病院のベッドの上だ。医者には栄養失調の傾向ありと診断されたが不眠の原因はわからなかった。ストレスではないかというのが大方の見方である。睡眠導入剤と各種栄養剤を処方されて退院した。
会社からは休養を勧められた。ちょうど抱えていた仕事が一段落ついたところだったし、有給も溜まっていたこともあって勧められるまま一週間ほど休暇を取った。休暇中の一週間、私は眠らずに過ごした。
最初は睡眠導入剤が効かないんだと思った。同時に服用している栄養剤で目がさえているのだ。疲れれば眠くなるのではないか、とそう思い、近場のスポーツクラブの体験コースに申し込んでみた。そういえば会社に入ってから運動というものをしていない。学生時代は体育会のクラブだったのだ。久しぶりの運動は体をリフレッシュさせた。そこのスポーツクラブは取引相手の関連会社で、取引先の名前を出すと入会費と年会費を割り引いてくれた。この値段ならたまの運動にいいな、ということで入会して帰って来た。
ところが三日通っても肉体的に疲れは感じるものの眠くはならない。カフェインがいけないのかもしれない、と大好きな珈琲も止めた。薬を処方してくれた病院へ行ってみた。自律神経がやられているのかもしれない、仕事などで悩みはないですか、とカウンセリングを勧められた。
しかしおかしなことに眠らないことに不安感はないのだった。障害といえば食欲がないぐらいだ。休暇明け復帰した仕事でも特になんの変化もなかった。生活自体も変わらず、変化といえば睡眠と食事の時間が減ったので、スポーツクラブへ通う時間と本を読む時間が増えたぐらいだ。それでも余る時間はレンタルビデオ屋で借りてきた映画で潰した。
そんな生活を送った後、前回より約二ヵ月後、私は再び倒れた。今度は商談中に。同じように病院に運び込まれ三日昏睡、その後元気に退院した。そんなことが何度か続いた後、医者が匙を投げた。
医者より対応が早かったのは会社だった。私は部署を外されはしなかったものの外回り担当からは外された。つまり、知らないところで倒れられたら困るということだ。会社内でのサポートの内勤に回されてしまったのだ。元々じっとしているのが性に合わない私は直訴したが、直訴している最中に倒れたのでそれ以上は訴えられなかった。飛ばされないだけましか。そう思って内勤の仕事をしていた。
生活しているうちに不眠と睡眠のリズムが二ヶ月のサイクルであることが掴めてきた。私はそれを上司に報告し、元の仕事に復帰した。私の代わりに外回り担当となっていた社員は喜んで内勤に戻った。不眠の周期が終わるあたりは外回りをしない。取引先と合わない。どうせならその前後は休暇を取ったらどうか。そんなこんなで私は二ヶ月に一度の休暇と元の仕事を手に入れたのだった。休日出勤は増えたが。
食欲がないので食事を忘れることが多い。忘れないように、なるべく職場の人に一緒に食事に誘ってもらうようにした。だから職場の人とも仲が良い。
睡眠欲がないことのデメリットが極端に少ないので私はそのことすら忘れ始めていた。
結局、それが油断になったのだろう。
私は「季節屋」という店に飛び込み営業をかけている最中、倒れた。
三日後、目覚めたとき私は病院にはいなかった。
見知らぬ部屋の布団の上で寝ていたのだ。
飛び起きてあたりを見回せば、こざっぱりした和室に布団が一組敷かれ、周りには私のスーツとかばんがきちんと置かれていた。
「起きられましたら呼び鈴を鳴らしてください」
書置きとともに鈴が置いてあった。ここは一体どこなのだろう。荷物を確認したが何も取られてはいなかった。とりあえず、呼び鈴を鳴らしてみた。
ちりりりん。
涼しげな音があたりに響いた。しばらくして、廊下を擦る足音が近づいてきた。すっ、と音もなく開いたふすまの向こうには年のころ二十かそこらの和服姿の娘が立っていた。
「お目覚めですか」
ふすまを静かに閉めると娘は私の布団のそばに膝を折った。
「三日もお眠りだったので少し心配をしてました」
「すみません。持病のようなもんなんです。うっかりしてました。ところで、ここはどこなんでしょう」
「季節屋霞初月支店、というよろずやの奥の間です。あなたが突然お倒れになったのでこちらにお運びしたんです」 ということは、私は仕事中に倒れたのだ。これは会社に知られるとまずい。この仕事に復帰する条件が外では倒れないということだったのだから。
「あの、」
「ご安心下さい。お勤め先には連絡いたしておりません。こちらの部屋の時を早送りしましたから」
「早送り…?」
「ええ、外の時間は三分と経ってませんわ。眠りの病のかたは目覚めるまで待てばよい、ということでしたから」
娘は落ち着いた口調で離すが私にはなんのことだか理解できない。とりあえず、会社に電話をしなければ。
「電話なら、部屋の外でお願いしますね。その間に部屋の時間を戻しておきますから」
携帯電話を確認すると圏外だったので、とりあえず私は部屋の外に出た。
ふすま一枚向こうに出ただけなのに廊下は冷え切っていた。一月の空気は体に染みる。いつの間にか着替えさせられていた寝巻きだろう浴衣は上着がないと寒い。とにかく、会社に一報を入れなければ。
「…もしもし、三枝ですけど」
「おう、三枝か。どうした。なにかトラブルか?」
「いえ、無断で休んでいることを謝りたいのですが」
「は? なに言ってんだ。今日も普通に出社しただろ? あ、直帰の連絡か?」
電話に出た内勤の先輩は一人で勝手に、直帰にしとくから、俺も今接客中でさ、と言って電話を切った。
なんだ、一体。
自動に待受状態に戻った携帯電話の画面には、時計表示が動いている。
16:04。日付は三日前のものだった。
電波を受けて自動で変わるようになっている携帯電話が狂うなんて考えられない。それでも念のためネットに繋いでみた。ニュースを流しているサイトの日付を確認する。同じ。
私は三日寝ていたわけではなかったのか?
いつも三日間昏睡するのでそう言う周期なのだと思い込んでいたが、今回はちょっと眠ってしまっただけなのだろうか。日付的にはそんな感じである。しかし、あの娘が「三日寝ていた」と言ったではないか。
私は騙されているのか?
「あら、電話はお済みですか?」
部屋から出てきた娘は小さな砂時計を両手に持っていた。
「着替えられて、店のほうにいらっしゃっていただけません? 店は廊下の突き当たりですから。ああ、浴衣と布団はそのままで結構ですわ」
娘はそう言って目の前を横切った。足袋が床をする音。
「……あの、私の服を着替えさせたのは、」
私は娘の背中に向かって問い掛けた。呼び止めなければ、と思ったのだがそんなことしか思い浮かばなかったのだ。言ってみて、そういえば、と思い当たる。こんな若い娘に着替えさせられたのならば恥ずかしい。
「ええ、もちろん兄ですわ。今は店に出ていますの。兄がここへ運び、差し出がましいとは思いましたが着替えさせました。眠りの病ならば着替えたほうが楽かと思って」
そういえば、この店を訪れたときに店番をしていたのは若い男だった。あの男の妹か。
「では、店においでくださいましね」
娘は床を滑るように去っていった。私は身震いを一つして、部屋に戻った。その身震いがなにのせいかは分からなかったけれども。
さて、どうしたものか。
すっかり着替えて布団の上にあぐらをかきながら、私は考え込んだ。
とりあえず、直帰の連絡は入れたことになったし、元々今日はアポがないからこその飛込みだ。時間だけはたっぷりある。スポーツクラブの常連になったおかげで多少の体力はついた。何かあっても、自分ひとり逃げ切るくらいはできるだろう。
思い切って付き合ってみるのもいいかもしれない。暇つぶしだ。
荷物を持ってひんやりとした廊下を進む。娘の言ったとおり、突き当たりに木の引き戸があった。ここが「奥の間」だろう。隙間から暖かい空気が漏れてきている。私は戸を開けた。
「……ああ、来たね」
木戸の向こうは畳になっている。そこに男が座していた。丸い卓袱台の上には飲みかけの湯のみがひとつ。古い物書き用の机の上に手持ち金庫と算盤が載っている。一段低くなって、店だ。
「どうぞ、座って」
そう言って座布団を勧められた。
「……どうも、」
男は作務衣の上にどてらを着込んでいた。火鉢の上で鉄瓶が湯気を立てている。
「茶でもどう?」
「いえ、お構いなく……お世話になりっぱなしで」
「いいや、眠りの病じゃしょうがない。近頃じゃこんな町中まで霞が降りてんだな。全く、霞の爺さんも遊びまくってんな」
「はあ、」
「兄さん、眠れなくなってからどんくらい?」
なぜ、この男は私が不眠であることを知っているのだろうか。しかも、霞とは?
「……二年、二年と少し」
「ああ、随分とほおっておいてもんだね。兄さんもう少し身体に気をつけなさい」
男は鉄瓶から湯を注いだ急須を傾けた。湯飲みをもうひとつ取り出し私のほうに寄越した。
「あいにく茶受けがなくてね、」
茶を啜って身体の芯から温まることが出来た。廊下よりは暖かい部屋も、店が土間ということもあって底冷えする。
「それで、霞吐きはしたことあるの?」
「は?」
なんだそれは。
「吸い込んだ霞を吐かないと、眠りの病は治らんぞ」
「というか、その、眠りの病ってなんなんですか、」
「ほう、そこから話をしないとならないのか。いいかい、兄さん、眠りの病ってのはね……」
男は朗々と語り始めた。
その昔、仙人を志した男がいた。
男は仙人になるため、師となる仙人を捜す旅に出たがなかなか見つからない。もともとが人の噂を辿る旅であるから、簡単に見つかるはずもない。男は旅の間も自己流で仙人になる修行を積んだ。
仙人は霞を食い、千里を見通し万里を走り、永久の時を生きる。薬草を育て、不治の病も治し、人々を諭す。男はさまざまな噂を訊きながらかすかな伝を辿って行った。
男は肉魚を断ち、穀を断った。女を断ち、物欲を断った。草を食み、野で眠った。世俗と離れることで穏やかな心を手に入れたが、食と眠りを断つことは出来なかった。
男は旅の果て、山の泉の辺で天地に祈った。
祈り続けて幾年月。男の夢枕に仙人が立った。
そんなに仙になりたいか。
はい。なりとうございます。
何ゆえ仙を望むか。
仙は不死と訊きます。私は死にとうないのです。千里を見、万里を生きとうございます。
何ゆえ不死を望むか。
私は次の世を見とうございます。
ならば、お前の志を試そう。
男は辺り一面の霞に目覚めた。その霞を吸い込んだとき、男は眠ることなく動くことが出来た。男は眠らず野を駆け山を越え世の端まで見に行った。食を摂ることも忘れ世の中の隅々まで見渡そうとした。果てもない湖を見、天へも届く山へも登った。
男は幾日も幾月も幾年も眠らずにいたために、時の数えを怠ってしまった。自分がどれほどの時を生きたのかが分からなくなってしまったのだ。気付いたときから数えを始めたが、さて、すると時が遅々として進まない。
男は時を持て余すようになってしまった。
野を駆け、世の端まで行くことにも飽き、じっと時が移り変わるのを見ていることにも飽いた。次の世を見たいと願ったが、なんとまあ、世の移り代わりの遅いことか。
人は食い、飲み、笑い、怒り、泣き、喜び、憂い、眠り……そんな些細なことをするのに忙しく、安穏とした世を動かそうとはついぞ思っていないようなのである。
あの船があと一里、南に向かっていたら誰も見つけたことのない島に辿り着いただろうに。あの娘が怪我人を見捨てさえしなければ地主の重税から開放されていたのに。
男は永い時を過ごすうちに世の移り代わりの分岐点のようなものを見ることができるようになっていた。
至極つまらない話である。
眠りの病というのは、眠らなくなる病のことらしい。眠れなくなるのではなく眠らなくなる。眠らなくても生活にほとんど支障が出ない。精神的には活力もあるし活動時間が増えるから深刻にはなりにくい。だが、精神的には平気でも肉体的にはそうはいかない。活動限界を迎えた身体は突然、眠りだす。
「活動限界は、人それぞれなんだけどね。兄さんは平均的なほうさ。知っている限り、五年間眠らない人がいたよ」
眠って回復した身体が目覚めれば、また眠らなくなる。この眠っている期間もさまざまだという。唐突に眠りだすことから「眠りの病」と名が付いた。
「でね、これの原因は霞なのさ」
眠りの病の原因は霞を吸い込んだことにある。「霞の爺さん」が霞を撒いて廻る役目だ。霞は休みなく湧き出るので定期的に撒いて廻る必要があるらしい。
「兄さんはその霞を吸っちまったんだな」
霞は人気のないところで撒いていたが、霞撒きを一任されている「霞の爺さん」が町中で撒くことに興味を覚えたそうだ。
それで最近眠りの病が増えているという。全く、迷惑な話だ。
眠りの病を治すためには、吸い込んだ霞を体内から出さなくてはならない。それが「霞吐き」である。なんと、口から霞を嘔吐するという。嘔吐するためには専用の薬湯を飲む必要がある。薬湯の材料はとある草だ。
「それで、その草とはなんなのでしょう」
「ある山の頂きにしか生えない、薬草の一種さ」
「その山とは、」
「古い言い伝えのある霊山の一つでね、素人には登れたもんじゃない。ああ、大丈夫、草は採取してくれる専門の職人がいる。ただし、馬鹿みたいに高額なんだわ」
額を訊いた私は驚いて湯飲みを取り落とすところだった。私の年収にも相当するではないか。
ははあん、ここはそう言う店なのか?
「兄さん、これが霊感商法の類だとか疑ってるね」
当たり前である。
「まあ、無理もないけど。そのままでも、眠りの病のままでも生き死にには問題ないよ。医者に行っても原因は分からない。心因性だとか、栄養失調ぐらいは言われるだろうがね。ただし、人は年をとるにつれて体力が落ちる。眠りだす回数は増えるよ」
そんなことを言われても、一年分の稼ぎをそんなわけもわからない草につぎ込む気はない。
「だからね、兄さん。頼まれてくれないか。俺の仕事を手伝ってくれたら報酬として草をあげよう。つまり、副業さ」
男が仙人になりたいと志したのは、世の想像し尽くせぬ思いもかけない転換を目にする為であった。であるのに、今や物事は男の想像の範疇でしか動こうとしない。
男は語り合える友を亡くし、親類も身近な者は既に亡かった。夢枕に仙人が立ったころから食欲を忘れ、睡眠を忘れていた。その為、肉も果実も草も口にすることができず、目を閉じても眠ることができなかった。
仙になろうと心穏やかに祈っていたときが懐かしいほどに、男は苛立っていた。
男は自分の夢枕に立った仙人に会おうと思い、幾日も幾月も幾年も噂を頼りに探し回った。
男が宛のない旅に憔悴しきった頃、あの夢枕の仙人がふいに現れた。
仙になりたいと願ったのではなかったのか。
なりとうと思いました。
ならば何故にわしを探すのだ。お前は千里を見通し万里を走り、永久の時を生きることができる。薬草を育て、病に苦しむ人を治すこともできるだろう。
私は、もう、仙ではいとうないのです。
何故、
私は千里の果ても万里の涯も見申した。しかし、もうどうしても心穏やかではいられないのです。食したいのに食せず、眠りたいのに眠れず、見たくないものだけ見えてしまうのです。
次の世が見たいのではなかったか、
はい、次の世が見たいと、そう確かに願いました。けれど次の世は一向に訪れませぬ。私が見るのは日々連なった一日のみ。しかし私はその一日に入ることはできないのです。人々の一日は眠りで終わるのに私の一日は終わることがありません。人々は食することで育っていくのに私は何も変わりませぬ。
では、仙から人へ戻りたいというのか。
できることなら、戻りとうございます。
人へ戻ることはできぬ。
……は、
仙と人は似て非なるもの。人が仙になったとき、既に人としての肉体も全て失っているのだ。
では、私は続にこのまま、
死することはできる。死して人でもなく仙でもないものになるのだ。
……死するか、このまま心穏やかでないまま生き続けるか、というわけなのですね。
さよう。さあ、選べ。続か、終か。
男は考えた。考えに考え、人には永に思える時のあと、答えた。
私は、死にとうございます。
わかった。
仙人は男の頭に掌を乗せた。すると男はみるみるうちに崩れ、土けらとなった。初めは男の体ほどだった土けらは、むくむくと増え始め、とうとう頂は天にも届くほどの山になった。
仙人は急な斜面を軽々と登り、天にも届く頂の上で男に話しかけた。
仙を志し、飽いた男よ。お前の望みを叶える為に湧き出した霞は、お前が仙に飽いた為に塞がることはない。何事にも望めば報いがある。霞は永く漂い続け、たなびくだろう。霞を吸い込んだものは、眠らず、食さず、しかし永遠には生きはしない。男よ、お前の山に薬草を預けよう。お前の霞を知らず吸い込んでしまったものの為に。
仙人は懐から布袋を取り出し、土に埋めた。竹筒の水をぼたぼたと布袋のある辺りへかけた。
男よ、草を探すものがこの山を訪れる。次の世が知りたければ、そのものたちに訊くがいい。
男はこうして、願い通り次の世を待つことになった。
男の言った「副業」とは、人捜しだった。
いや、人「捜し」だけではない。捜し出し、取り押さえ、縛ってでも連れて来る、という誘拐まがいなものである。
「それは犯罪では?」
私の問いに、男は、
「犯罪まがい、と言って欲しいね」
と言った。何が違うというのだ。
「そもそも、契約を破ったのはあっちなのさ。霞撒きを依頼したとき、町中で撒かないのが条件だった。霞草を採りにいく手配もあるし、山にも機嫌ってのがある。なのに霞の爺さんときたら場所も考えずに撒きやがって……」
男は煙草の煙を吐きつつ悪態を衝いた。今時珍しい刻み煙草である。長いパイプの先を火鉢で炙るとなんとも言えない薫りが立つ。外国製の煙草か、香、いや薬草やらそんなものに似た薫りだ。ドクダミの葉を石で叩いて汁を出す遊びを思い出す。
「それで、霞の爺さん、という方はどういう人間なのです?」
「言葉通り、霞を撒く爺さ。人間か、と言われれば、ふむ、人間とはいかなる基準をもって人間とするかによるな。……兄さん、俺が人間に見えるかね、」
す、と前髪を掻き上げた男が見つめるので、私は柄にも無く心臓が脈打つのを感じた。―――なんだそれは。相手は男――いや、今考えるべくはそれではなく。
人間か、と問われれば人間にしか見えない。犬や猫、猿とは明らかに違っていたし、なにより私とこうして向かい合って会話をしているのだ。
人間に見える、むしろ人間にしか見えない。そう答えると男は、
「ならば霞の爺さんは人間ってことになる」
と言う。私が訊きたかったのは人間かどうか、ではなくどのような人間か、つまり、
「背格好や歳、できれば特長を知りたいのです、」
「ああ、そういう。背、は兄さんの胸の辺り、格好はそうだな、いつも小奇麗にしている。衣装持ちだから何を着ているかというのには答えられないな。歳は、ええと、こちらの見た目で言うと、七十くらいだ。そうそう髪は白髪。一番の特徴は、霞甕を持ってる」
「……霞甕?」
「霞を入れておく甕さ。こんくらいの、両の手の平に乗っちまうくらいの小さな甕だが」
霞の爺さん、の特徴はどうやらその甕だけらしい。外観の特徴はどこにでもいる老人のようである。
そんな人物を私は捜し出せるのだろうか。
「まあ、仕事のついでにでも捜してくれればそれでいいさ。俺は急いではいないのでね。時はたっぷりある。兄さんが暇なときでも、ちょっくら捜しておくれ」
男はそう言って煙草を吸い込んだ。薬草の薫りが店中を満たした。
バンで廻っている移動式屋台の弁当を買った。あつあつの味噌汁を付けてくれた。雪はちらほらと残っているが天気は良い。誰もいない公園のベンチで食べることにした。
食欲はなくとも、旨そうな匂いには弱い。それが体を温めてくれるものならなおさらだった。一月のこの時期、外回りは体が冷える。
発泡スチロールのカップの味噌汁は具が細かく切られていてスープのように飲むことが出来る。ぶる、とひとつ震えると体の中から温かい息が出た。ほ。煮込みハンバーグも旨い。添えてある温野菜が嬉しかった。
一人もくもくと食べていると、隣のベンチに老人が座っていることに気付いた。スーツを着た身奇麗な白髪の小柄な老人だ。にこにこと微笑みながら足元にじゃれ付く猫を見ている。
……あとは甕を持っていれば完璧だな。老人の風貌はあの店の男が言っていたものそのものである。つまり、どこにでもいそうな老人だ。そんなことを考えていたら箸からハンバーグが転げ落ちた。
機敏に反応した猫が飛びつく。それを追ってこちらを見た老人と目が合った。
どうも、と軽く会釈をする。見知らぬ老人だが目が合ってしまった以上、会釈ぐらいはしたほうがいい。そう思っただけなのだが老人はにこにことこちらのベンチに移って来た。
「まだまだ寒い日が続きますねえ」
老人は話し掛けてきた。
「はあ、」
寒いならばコートでも着ればいいじゃないか。そんな言葉を飲み込んだ私は生返事をしてしまう。日常スポーツクラブで体を鍛えている私ですら、厚手のコートを着ている。それなのにこの老人はスーツだけだった。
「こんな町中でもね、底冷えはしますね。ビルの谷間とか風が冷たくて。すると山なんか頬が凍ってしまいそうになるほど寒いんですよねえ」
「山のほうからいらっしゃったんですか?」
「ええ、山のほうで仕事をしてるんです。いつもはね。でもこんなに冷えるとどうしても町が恋しくなってしまってね」
と、老人はどこから取り出したのか魔法瓶の番茶を啜り始めた。私も味噌汁を啜る。ハンバーグを喰い終えた猫がスラックスを引っ掻いた。
「おいおい、これはおまえのごはんじゃないぞ」
「おじいさんの猫ですか?」
「いえいえ、ただの顔見知りです」
老人が猫を抱き上げる。猫はおとなしく膝に乗った。
「仕事が終わらないと収入がないので同居人は歓迎出来なくてね」
「お好きですか、猫」
「ええ、ええ。山にはこんな懐こいのはいなくてね。ついつい降りてきてしまった」
連れ合いにでも先立たれ、一人暮らしの老人なのだろうか。顎を撫でられた猫が喉を鳴らす。随分慣れているようだ。
「お兄さんはお仕事ですか」
「ええ。外回りの途中です」
「そうですか、そうですか」
老人はにこにこしながら番茶を啜る。
季節屋には外回りの合間に訪れるようにしている。眠れない病はまだ続いていた上、よく分からない依頼、いや交換条件だが交わした約束を破ることは私の仁義に反する。
と、理由をつけてはいたものの、実のところ私の興味は季節屋に置いている商品にある。一見古道具屋かと思ったが、設えられている古びた箪笥や机、長椅子やらは陳列棚の代わりであり、その上に乗っている雑多なものがこの店の売り物なのだ。雑多というのはその売り物がコルク栓の付いた硝子瓶、アルミの水筒、皮の布袋に二枚貝を合わせ紐で結んだもの、小甕大甕などと統一感がないからである。いや、一貫した共通点はある。それはそれらが全て何かを入れる容れ物である点だ。
箪笥の中には布の端切れが乱雑に入れられており、小引き出しには短冊のような細長い紙切れがたくさん入っていた。引き出しは時折整頓されるが、またすぐに乱雑になる。私はいつか季節屋の主人が引き出しを掻き回しているのを目撃した。となれば、整頓しているのはあの二十ほどの娘なのだろう。
「兄さん、その後調子はどうだね」
男は私が訪れるときは決まって刻み煙草をふかしていた。最初は店を出てからも服についた薬草のような薫りが気になったが、今はそうでもない。しかし煙草のお陰で店が煙く感じる。この店には換気扇がない。換気をしなくてよいのかと訊ねれば、
「この店はいい歳だから、俺がしなくても自分で呼吸するだろうよ」
という。なるほど、柱や入り口の戸の合わせからは外が細く見え、隙間風が自然に換気をしてくれているようだった。
私の興味をひいたこの店の商品たちは、容れ物ではあるがその内に何も入れてはいなかった。硝子瓶の向こう側はよく透けて見え、甕を持ち上げても何かが入っている風ではない。蓋を開けて中を見て見たかったが、どの商品も口に当たる部分に和紙で封がしてあるのだ。
私はそのうちの一つを、購うつもりで値段を訊いた。三角錐の硝子瓶がいたく気に入ったのだ。
しかし男は売約済みだ、と一蹴した。
「兄さんはそれを購うよりも先に霞の爺さんを見つけてくれないと。霞吐きをしないと眠りの病は治らんよ。この寒空、外で眠ってしまったらそれこそずぅっと眠り続けるはめになる」
確かに、時期は一月の下旬に差し掛かり、初春とは名ばかりの冷え込みになっていた。これでは鶯は鳴くまい。鳴こうと思っても留まる梅が咲いていない。
地面に弁当を置くと、老人の膝から勇んで飛び降りた猫が食い始めた。残っていたのは五分の一ほどだったが、猫の体には十分だったようだ。満足した、とひと鳴きし、私の脚に顔を摺り寄せてきた。
「懐かれましたね」
「食べ物にね。それだけですよ」
「いやいや、お兄さんは良いお人のようだ」
にこにこと小柄な老人は言った。
「お兄さんは見たところ体格もいいし顔色もいいけれど、悩みなどはないのかね?」
「は?」
唐突に何を言うのだ。
「猫のご飯の御礼に、少しでもお力になれればと思ってね。お兄さん、一日の時間は足りているかね?」
「………十分です」
「しかし急いではいないのでしょう?」
「確かに、俺は急いではいない。時はたっぷりあるが、一月ももう幾日かだ。兄さんは急いだほうがいい。一月が終わったら次の一月まで十一ヶ月も待たなくてはならないだろう」
なんという奇妙な事を言うのだろう。私は思ったが口には出さなかった。この男の言うことは初めから奇妙だった。
「兄さん、お客様もお茶を如何ですか」
奥の木戸を開けて入ってきたのはこの男の妹だった。あちらで用意してきてくれたらしい茶器を卓袱台の脇に置く。厚手の皮手袋を履き鉄瓶から湯を注いだ。柑橘系の香りが立つ。
「柚子湯ですわ」
差し出された湯飲みを遠慮なく受取り、ふうふう冷まし冷まし啜る。蜂蜜の甘さが広がる。
「風邪のひきはじめにも宜しいんですよ」
「旨いです」
にっこりと笑う娘に、私は俯きがちになる。気付かれないよう湯飲みを啜り、舌を焼いた。
私が季節屋に通う理由は、この娘にもあるらしかった。
隣で猫が鳴き、はっと我に返った。弁当は既に冷たくなっていて、思いかけず長く考え事をしていたらしい。味噌汁はよく冷えていて、一口啜った私はぶるりと身震いした。
「まあまあ、お兄さん、お茶をどうぞ」
隣の老人が魔法瓶を差し出してきた。私はどうしようかと迷ったが、冷たい味噌汁を飲むと空いた発泡スチロールのカップにお茶を注いでもらった。口を付け、それから思い出してコートを襟元まで留めた。
「おまえ、冷えてしまったがやるよ」
嘘ではない。むしろ有り余るくらいの時間がある。
「しかし、時間が有れば、と思うときもあるだろう? 眠っている時間が勿体無いと思う時が」
「はあ………」
私は訳が分からず生返事をした。この老人は何が言いたいのだろう。何を礼としてくれるというのだろう。
「そう、そう。そうだろう、そうだろう。人は時間が足りないだろう。人の世を見るには余にも時間がなさ過ぎる」
老人はごそごそとスーツの内ポケットを探っている。
「お兄さんにね、ちぃっとばかし時間をあげよう。お兄さんは若いから、よくよく体が動くよ。ちぃっとばかし不都合もあるけれども」
老人が取り出したのは小さな甕だった。どうしてこんなものが内ポケットに入っていたのかが不思議だが、両の手の平に納まるほどの甕である。
あ、と思った時にはもう遅く、老人は甕の蓋を取った。
「―――爺さん、やってくれたねえ」
ずずっと茶を啜ったのは老人だった。座布団にきちんと正座し、膝にはあの小甕を乗せている。
「契約違反だよ。話が違う。おかげでこんな町中に店を構えるはめになった」
「町はいいじゃないか。人も多いし、なにより猫が沢山いる」
「町中じゃあ商売にならないんだよ」
「しかし、この兄さんが来ただろう」
「こいつは偶々だ。いいかい爺さん、町じゃ眠りの病の奴はみいんな医者に行っちまうんだ。実際この兄さんも霞吐きのことなんざ知りもしなかったし、眠れないことすら特段不便に思っちゃいない。俺らのような商売はちょっくら寂れた町が丁度いいってのに」
「霞は霞に惹かれる。構えておればいつか客は来る」
と、老人はにこにこと茶を啜る。
「いつかってなあ、」
剣呑さが増し始めた、一方的に男の側だけだが、その空気を換えたのは男の妹だった。
「あらあら兄さん、無事にお戻りなのですからもういいでしょう。爺さま、兄も爺さまと連絡が取れずに随分心配してましたのよ」
男が刻み煙草をパイプに入れ、火鉢から火をとった。細く煙がたなびいて行く。
「それにしてもお兄さんがわしを捕まえて来るよう契約していたとはねえ。そうと知っていたら甕なんぞ出しませんよ」
老人の空けた小甕からはさあっと白い湯気のような霞が湧き出、私を囲んだのだが、私は吸い込むことなく、霞は甕に戻って行ったのだ。
「こりゃしまった、」
そう呟いて老人は背を向き逃げようとしたが、動きはこちらのほうが速かった。胸のあたりにあるスーツの襟を捕まえ、胴に腕を廻して捕らえる。
霞の爺さんですね、というと観念したのか力を抜き、季節屋へ連れて行くように言った。
「お兄さんの前で霞を撒いた覚えはなかったんですがねえ」
私にも覚えがない。老人とは今日が初対面だと思う。
「この兄さんが霞を吸ったのは二年よりも前だ。爺さんちょくちょく降りてきて、そこかしこで霞を撒いてただろ」
「ああ、二年となると家内が………」
亡くなったのだろうか。言葉尻を濁す老人に同情の目を向けると、男がわざわざこちらにむかって煙を吐き出した。
「先立ってはいないよ、愛想を尽かしただけさ。それを反省して捜しに出たものの、あちらこちらに霞を撒くから困った同業者がふん縛って俺のところに送ってきたのよ」
「縛って、」
「こう、ぐるぐる巻きにですね」
老人が身振りで示した。
「婆さんが会いたくないってんだから仕様がないだろう。見つけられるはずもないのにうろつかれて、霞だけ撒かれるのが嫌だったのさ」
「あやつの店は生真面目ですからねえ」
全容が掴めず、自分がこの場にいても良いのか、疑問に思った。手持ち無沙汰をごまかすためにただ茶を啜る。
「………柚子湯、旨かったな」
「あら、ありがとうございます。褒めて頂き嬉しいですわ」
いつかの茶を思い出し、ぽつりと呟いた言葉を聞かれていた。頬が紅潮したことが分かる。娘は微笑みながら、私の空になった湯飲みを満たした。
「きっちり契約さえ守ってくれれば、婆さんに会わせてやれたのに」
「いやいや、久方ぶりに町へ出るとですね、こう、うきうきしてくるのですよ。心が湧き立つというのかね。すると人に会いたくなってしまって―――人がいるほうへ、いるほうへと下りてきてしまった」
「よく言うよ。契約を守る気なんぞなかったのだろうよ、」
「それを分かっていて契約された兄さんも兄さんですわ、ねえ」
そう思いません、とこちらに話を振られ、私は返事を曖昧に濁した。ふう、と煙を吐いた男はパイプに残った刻み葉を火鉢に捨てた。ぱちぱちと葉が燃え、一層薬草臭くなる。
「まあいいさ。これで兄さんとの契約が成立したし」
ぶすっとした表情で言われ、この男は契約が成立しなければよかったのかと不審に思う。
「ああ、爺さんのおかげで稼ぎがゼロだ。結局この兄さんしか客が来なかった」
「悪巧みをするからです。真っ当な商売をすればいいのに」
娘がくすくす笑いながら、ごめんなさいね、と両手を合わせて私を見た。大人びた言葉づかいをする娘の歳相応、いや、正確な歳は分からないから外見に相応な行為が可愛らしい。
しかし、より何がなんだか分からなくなった。
「ほら、兄さん、謝りなさいな。この方のおかげで大事になる前に事が済んだのですから」
娘が促し、男が渋々、居住いを正す。膝頭を並べ正座され、指先を付いて上体を深く下げた。私に向かって。
「すまなかった、」
そしてゆっくりと頭を上げ、唇の端に笑みを浮かべながら付け加えた。
「しかし、助かった」
私はさっぱり理解できず、ぽかん、という顔をしていたのだろう。娘のくすくす笑いが大きくなり、袖で口元を抑えるどころかくるりと後ろを向いてしまった。男は胡座に戻り、何事もなかったかのように空のパイプを咥えた。
「おまえさん、それではお兄さんを混乱させるだけさね。順を追って説明してやらな、」
「事の発端が何を偉そうに、」
「あら、そもそもの始まりは兄さんじゃありませんか」
老人、男、娘が訳知りの会話を交わす。
「俺は謝ったじゃないか、」
「ではきちんと説明もしてあげて下さいな。ねえ?」
唐突に振られ、条件反射で頷いた。あ、と思ったが考えてみれば私にとってもこの男が事の発端なのだ。契約も交わしたし、成立もした。説明を受けるのは当然だ。
男は口を歪め渋っていたが、旗色の悪いのを見てとり、溜息を付いた。
どうやら観念したらしい。
男は湯飲みに手を伸ばし、唇を湿らせる。そして、
「兄さん、怒らないと約束してくれるかい?」
私にしっかり念を押すと、ようやく話し始めた。
眠りの病に効く薬草、霞草はとても高額である、というのがそもそもの原因だと男は言った。
「高額じゃなければ俺だってこんなことは思いつかないし、考えもしなかったろう。霞草があんな霊山にしか生えず、専門の職人にしか採取できず、しかも流通量が少ない。それがそもそもの原因なんだ」
男と老人が出会ったのは男が店を構えてからある程度の年月が経った頃だった。ある程度の年月が経っていたが、店には全くといっていいほど客が来ない。従業員も雇い入れたいのに客が来ないから金がない。商品を購い入れようにも元手がない。妹に手伝いを頼むのがやっとであり、仕入れに行ってもらう旅費も無い状況だった。
そこに霞の爺さんが送られてきた。送られてきた、というのは老人の所業に困り果てた同業者がふん縛り、言葉通り送ってよこしたのだという。
「爺さんは元々、この店の持ち主でね。古巣ならどうにか出来るだろうと読んだらしい。全く、いい迷惑だよ」
「ええ、それで兄さんは悪巧みをしたんです」
霞の爺さんの持っている霞甕の話は有名であり、男も聞き及んでいた。男は考えた。
つまり、霞をわざと吸い、霞吐きの霞を封詰して商品にしよう。
男の提案に老人は取引を持ちかけた。霞甕は定期的に蓋を開けて霞を巻かなければならない。この縛りを解き、自由の身をくれたならば霞を吸わせてやろう。ついでに霞草を格安で卸してくれる仕入れ屋を仲介してやろう。
老人は離れて暮らしている妻を追って町にちょくちょく降りていた際、あまりにも霞をむやみやたらに撒くものだから、身を寄せていた遠縁にあたる者が困り果て、男の同業者にあたる人物に相談したのだと言う。家族親類が眠りの病になってしまい、霞草を買うために大枚をはたくはめになった。その話を聞いていた男は、自由の身にしてやってもいいが、条件を付けた。
霞は、人の少ない町で撒くこと。ちょっと寂れた、伝承が残っているような里がいい。眠りの病になったものたちは噂を伝い、この店にやってくる。そこで男は霞草を売る。
つまり、霞を吸ったものたちが客として訪れればまた売上になる。
どちらに転んでもよい契約である。
「契約の条件は俺が噂を流した町で撒く、ってことだったのに、この爺さん、全く噂のない町中で撒きやがった。お陰で客なんぞさっぱりきやしない。兄さん以外は、」
なんのことはない。私を助けてくれようとした男は、私を鴨にしようとしていたのである。
「しかも、町中で撒いていたことがばれまして、先日、爺さまをこちらに連れていらした方が見えたんです。爺さまを捕まえない限り、霞草を一切うちに卸させない、と仰いまして、それで兄さん慌てて爺さまを捜してんですけど、」
娘の言葉ににこにとと話を聞いていた老人が動きを止めた。
「なんだ、あいつにばれたのか」
「こんだけ派手に撒いてばれんものか。そうそう、うちには預けておけんから爺さんを引き取りに来ると言ってた、」
「なに、おまえさん、それを承知したんか」
「俺に逆らえると思うのか、」
老人はさあっと顔色を変えると、慌ただしく身支度を整え、立ち上がった。
「わしは行く。あいつには宜しく言っておいてくれ」
そして急いで靴を履き、店を去ろうとする背中に、娘が声を掛けた。
「宜しく、は本人に言うのがいいと思いますわ。先ほどからすうっと、お待ちだもの」
老人の表情の無い顔が振り向いた。
「……来とるのか、」
「はい、奥の間に」
娘はにこにこと笑いながら、次の間に続く木戸を指した。老人にはっきりとした諦めが浮かび、項垂れながら靴を脱ぎ、揃え、再び座した。
「今度ばかりは観念するんだね」
男が言い、にやりと笑った。
「兄さんは偉そうなこと、言えませんでしょう」
娘が窘める。そして私の方を見、言った。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。わたくしも兄も店を離れることが出来ないものですから、あなたさまにご面倒なことをお頼みいたしました。おかげさまで爺さまも無事に戻り、安堵いたしました」
三つ指を付き、優雅に腰を折る娘に鼓動が高鳴った。頭を下げたときに着物の襟足から覗くうなじと、ほつれた後れ毛に目が行く。
いけない、今はそういう目をする場でなく―――
思わず泳いだ先に男と目が合い、目元だけで笑われた。すぐ逸らし、ごまかすために咳払いを一つ、する。
「頭を上げて下さい。私も自分の身のことで契約をしたまでですし、」
そう言うと娘は顔をあげ、微笑んだ。
「そう仰って頂けますと、心が楽になりますわ」
にっこり、と擬態語が見えそうな笑みを向けられ、私は、ええ、とか、まあ、とか口の中でもごもごと返事をする。
「さてね、兄さん。約束の霞草なのだけどね」
助け船になったのは男だった。悪いね、と小声で付け加えるのも忘れていない。
悪くは無い。むしろ助かった。
ここ二年の欲求不満というのか、睡眠欲と食欲が減退している代わりというのか、言いたくはないが、反比例するように、言っておくがあくまでゆるやかに、性欲というのが私の中で勝っている。女に対する鼓動というのが、左胸から頭を巡り、体の隅々へと――つまり、下半身へと直結しそうになり、私は理性で抑えた。男が口を挟まなければ、そんな堰など崩壊してしまったかもしれない。犯罪じみたことになる気は無いが、少なくとも娘には軽蔑されただろう程度には事が起きたに違いない。
その意識が男に戻され、私は実際安堵の息を吐いていた。
「ええ、契約が成立したのだから頂けますよね」
「ああ、もちろん。しかしだね、頼み事があるんだ」
「またですか」
「いやいや今回は兄さんにとっても悪い話じゃないよ」
以前にも同じ台詞を聞いたような。
「して、何を」
「いやなに、霞吐きをするだろう? 兄さんは知らないだろうが、薬湯を飲むと体中の吸い込んだ霞が出てくるんだ。それをもらえないかと思ってね、」
「私の霞を?」
「そう」
何故そんなものを欲しがるのだろう。
「この店はね、兄さん、元々霞を売る店なのさ。そこいらの容れ物には皆、霞が入っている。客は気に入りの霞の入っている容れ物、または霞で染めた端布れやらを購う。眠りの病の霞はね、一旦人の体に入らなきゃ売り物に出来ないのでね、」
「それも兄さんの悪巧みの内でしたわね。霞草を求めに来たお客さまの霞を売る、という」
「なかなかに商売上手だろう。商品を売って同時に商品を仕入れる、なんてそうそうに出来たものじゃないよ」
「ですから兄さんには偉く出る資格はないと言っていますのに」
霞を売る店。あの雑多な「容れ物」たちは空ではなく、霞が入っているというのか。
「では、あの霞たちはどこから手に入れたのです、」
客も来ず、元手がないと言っていたのに。
「あああれか。あれは、」
「兄のですわ」
男の代わりに娘が答えた。
「え?」
「あの霞たちは兄のですわ。商品を仕入れる元手が無いもので、兄が爺さまの霞を吸って態と眠りの病になり、霞吐きをしてそれを詰めているんです。あの方が怒るのも無理はないわ。商売にするために霞の爺さまをうちに寄越したのではないですもの」
男は霞甕の霞を態々吸い、霞草を少量ずつ使って上手く霞を吐き続けたらしい。男が銜えていたパイプに入っていた薬草臭い刻み煙草は、薬草だった。湯にして飲むよりも効果が薄く、眠りの病を治すことなく霞吐きが出来るという。
「その上、ちっとも売れませんの」
「この前ひとつふたつ、売れただろう」
「ひとつふたつじゃ、霞草のほうが高くつきますわ。眠りの霞は濃いほうが購い手がつきますのに、あんな薄いものじゃ、」
「……ってことで兄さん、兄さんの吐いた霞を頂けないかね。なあに、吐き出した霞は本来霧散して消えてしまうものなのだ。霞を売る事が出来るのは霞初屋、うちくらいだろう。ちょっとくれればいいんだ、」
と、男は刻み煙草の入った丸缶を出した。卵がひとつ入るかは入らないかの大きさであり、易々と手の平に乗ってしまう。
「これ程でなかなかの金額だ。希少品だよ。兄さんが霞吐きするには半分ほど薬湯にする必要がある。さて、どうする」
「どうすると言ったって………あなたはそんな高価なものを吸っていたのですか」
この男の煙草が薬臭い理由が分かった。薬草そのものだったのだ。
「ほんの少量、微々たるものだよ。これを吸わなきゃ商品も並ばないだろう」
「それに兄さんは体力が無いから、すぐにひと月ふた月は寝込んでしまいますから、商いも出来ませんし、」
「商いに支障は来たしてないだろう。おまえもぐずぐず言うものじゃない、」
男は娘に睨みをきかせ、すぐに私に向き直合る。
「で、どうする、」
どうするもこうするも。私には年収にも匹敵する、男の誇大かもしれないがおそらくそれほどの値はつくのだろう訳のわからない草に、払う金はない。ただでくれるというならば貰いたい。そもそも吐いた霞など私には使いようがないのだ。貰ってくれるというならば貰って頂こう。それでこの店が助かるというのならば―――娘の助けとなるのならば、願ったりだろう。
「………いいでしょう。霞は差し上げます」
「そうかい、そりゃ助かるよ」
男はあからさまににっこりと、霞草を摘み懐紙に包んだ。娘に渡し、
「じゃあこいつで薬湯を、」
「はい、少々お待ちくださいましね」
娘は懐紙を持って去り、男三人が店に残された。しゅんしゅんと鉄瓶が沸き、蓋が時折跳ねる。しばし誰も口を開かず沈黙が続き、したところで老人が言った。
「霞というものはですね、霞に惹かれるのですよ」
え、と私は小さく返答をする。誰に語りかけているのか分からず、とりあえず老人を見やる。老人は小さな霞甕を撫でながら誰を見るわけでなく話していた。
「人のね、欲求というものは果てしないものです。ここまででよい、という制限も限界もありゃしません。見たいも知りたいも、聞きたいも何でも次から次へと沸いて出るもんです。それは誰にも止められはしませんし、欲を持ったことを誰にも責められる筋合いはございません、」
自分はもっと上に行けるのではないか。もっと多くを知り、多くの人と会い、もっと仕事も趣味も何もかもが出来るのではないか。
それには何よりも、時間が足りない。
「霞というのはね、そういう欲を薄めたりするもんなんです。薄うく薄うく、すると心がぐんと楽になる。麓の辺りを彷徨っていた心が一気に頂きに昇る。深呼吸して周りを見て見れば、何てことはない、この世は霞で出来ていることに気付く。欲というものは叶うと散ってしまうでしょう。霞は欲を薄めて霧散させちまう。霞というものはね、本来そんなものなんですよ」
時間が欲しいと思い、それを手に入れた。困ったというよりも嬉しいことが勝った。やれる事が広がり、ますます行動的になる。
しかし、私は上には行けなかった。
いや、行かなかったのかもしれない。
「だけどね、霞でいっぱいになっちまうといけない。ぼんやりして少なくなっちまう。知りたいことも見たいこともなくなり、至極つまらなくなっちまう。そこではっと気付く。短い時間でね、知ることの出来ないことも見ることも出来ないことがあるってことがなんて楽しいか。―――だからね、霞なんてのは容れ物に入れて、ちょこっと飾っておくぐらいが丁度いい。布切れや紙切れに染めて栞にするくらいで丁度いいんですよ」
老人は霞甕の蓋を開け、ゆっくりと霞が立ち昇る。店を一周した霞は甕に戻った。
「まあお兄さんもこの世を愉しみなさい。限りある一生というものはなかなかに良いものらしいですよ」
確かにそうなのかもしれない、と私は思った。やりたくて仕様がないあの焦燥感の、したくて仕様のないあの切望感の、何とも言いがたい感覚。最近それを感じたのはいつのことだったか。年の瀬の押し迫った充実感はなく、常に正月休みのようなするべきことが薄れる日々。私が好きだったのは師走の慌ただしさだ。
「ええ、そうなのでしょうね」
「霞吸わせた張本人が説教する話じゃないな、」
「仕様があるまい。霞は時折撒かねばならないんだからな」
霞甕を懐にしまい、老人は悪びれた様子も無く言い放つ。そこで木戸が開き、盆を掲げた娘が入ってきた。後ろに背の低い男がひとり。
「薬湯が入りましたわ」
どうぞ、と盆ごと前に据えられる。湯飲みがふたつ載っており、ひとつからは甘やかな柚子の香りが漂っている。
「お口直しに柚子湯をどうぞ」
娘が笑み、勧められるままにもうひとつの湯飲みを手に取る。
「爺さんは連れて行くぞ。いいな、」
「ああ、面倒をかけてすまないな」
「全くだ。この季節は寒くて得意じゃないんだよ。お前に頼んだのが間違いだった。おい、行くぞ」
背の低い男が店主の男に言い、老人が渋々立ち上がった。
「ああ、優しくしとくれよ。年寄りは労わるもんだよ」
「何が年寄りだ。労わられたかったら大人しくしておけ」
背の低い男が老人の襟首を掴み、木戸を開けた。半ば引きずるように連れられ、
「お邪魔さまだったね、」
「ええ、爺さまもお元気で」
「今度は言い付けを守れよ」
「さあ行くぞ。ここは寒くてたまらん」
「行くよ、行くよ。引っ張らんでもついて行くさ。お兄さんもお元気で。ああ、気が向いたら出いい、あの公園の猫に餌をやってくれませんか。週に一度、いや月に二、三度でいい。甘やかすのもよくないから」
別れの挨拶をされたが、私はろくに返事が出来なかった。勧められるままに干した薬湯のせいか、猛烈な吐き気が私を襲っていた。
二月に入ると冷え込みも厳しくなり、足場も悪く外回りには向かない。泥水が跳ねた靴を拭い、コートの襟を立て直した。いかつく喉を咳払いする。
ふと目の端に霞がうつり、ぎょっとして振り向くと何のことはない、排水溝から昇る湯気だった。こんな町中には滅多に霞は降りず、見かける時刻に私は起きていない。
いつもの公園に足を向ける。月に二、三度でいいといわれたが、気が向けば一緒に昼食をとる仲になった。
眠りを取り戻すと同時に、私の生活はすっかり元に戻った。スポーツクラブは解約こそしていないものの、行く機会はない。
季節屋を訪れる習慣すら、いや季節屋自体がなくなってしまった。それは違うか。霞初月支店が無くなってしまっただけで、季節屋はある。支店名を変えてはいたが。そこには男も娘もいなかった。
露と消えたか、霞となったか。店のものに尋ねても行方ははぐらかされ、しきりと購うことを勧めてくるので閉口して訪れる気にならないのである。
そういえばあの店のものたちは、全くと言っていいほど商売らしい商売をしてこなかった。商品も勧められず、案内もうけない。行く度になにかしらもてなしてもらったのに売りつけられることはなかった。……霞草は別として。
霞初月の思い出は紙切れ一枚。私の吐いた霞で染めて貰い、とりあえず財布に入れてある。
あれほどに、語ることも思い出すこともしたくないほど霞吐きは苦しかったのだが、色付きもせず香りも付いていない。霞だから当然だ、と思うが正直少し寂しい。
まあ、いつかまた会えるだろう。
足元にじゃれ付く猫は、一月で随分と大きくなった。春には嫁でも婿でも見つけに行くだろう。
一月が終わったら次の一月まで十一ヶ月も待たなくてはならないだろう。
限りある一生というものはなかなかに良いものらしいですよ。
私の一生には限りがあるが、十一ヶ月を待つぐらいは、まあ、出来るのはないかと考えている。それまでにあの商売下手な店主が店を潰してなければの話だが。
じゃれつく猫はいつの間にか姿を消していた。食べ物がないとわかればすぐいなくなる、なんて現金な。しかし。
もうひとつ咳払いし、私は歩き出す。まだまだ行かねばならないところがある。風邪などひいていられるものか。家に帰ったら柚子湯でも飲んでおく。
【了】