雪性
唐突に気づいた。ここは異世界なのだ、と。
正確には自分が日本人だったことを思い出したので、異世界転生に気づいたというべきかもしれない。母親の毛皮が背中から割れる姿に、「ファスナーがなくて楽だなあ」と思った瞬間怒涛のように前世の記憶が蘇り、五歳のわたしはぶっ倒れて三日三晩うなされた。
さいわい両親の看病と、前世の人生経験からくる図太さで立ち直ることができたけれど。
五歳にしてOLだった過去を思い出すとか、わたしって超賢い子どもじゃない? 神童フラグ立てちゃったかもね! などと伸びた鼻は同年代の子どもにバキバキに折られた。
生まれ変わった世界では、わたしは《雪性》という人外だった。
《雪性》は地球でいうところのイエティ。雪山で暮らす二足歩行の毛むくじゃら生物。
伝票は? 帳簿は? 電卓、パソコン、文明の利器はどこいった!? わたしの事務能力が生かせる場面がひとつもないじゃない! 前世の記憶は利点になるどころか、文明の違いにマイナスとなった。
魔法ってなに? 指先から蒼い光線出して鹿を倒してるんですけど、外見込みで特撮ですか。基本、魔法を使った雪山暮しですからね。科学の需要もないですよねハハハハ……。
獲物を狩る以外にも応用のきく魔法。極寒の地でも生きられる密集した毛皮。多少の毒でも堪えない鉄の胃袋。雪性は異世界でわりと最強生物に近かった。
++++++++++
「また草食ってるのか? そのうち糞から芽が出るんじゃねえか」
「品のないこと言わないでよ。スターズの葉は美味しいんだから。ちょっと舌が痺れるけど」
「痺れ草を好んで食う変わり者はおまえ以外に見たことないぜ。味覚音痴のリタって呼ばれているの知ってるか?」
「あなたはお子様味覚のテッドって呼ばれているのを知ってる?」
「誰がお子様だっ」
「怒ったあなたにモイロの葉を渡すと機嫌がよくなるからじゃない?」
長い毛におおわれた顔は表情がわかりにくいが、ピクピクと動く尖った耳が不機嫌を表している。すぐに耳にあらわれるところがおかしい。甘いモイロの葉を持っていればあげるのに。
テッドは巨大な体躯を誇る《雪性》だ。若衆でも一二を争う腕っぷしの強さと魔力の高さで、里長の血を受け継ぐだけある。成獣となった証の灰色の毛皮。二重に生えた被毛は長く、間に空気を含んでいるから冬の雪山でも活動できる。ひときわ立派な鬣が風に揺れていた。
かくいうわたしもほぼ同じ姿だけど、成獣になっても雌の毛皮は白から変わらない。ただ発情期を迎えると雌の垂れ耳部分の毛が赤色になり、雄を惹きつける匂いを出す。交尾可能となったことを知らせるためだ。
わたしの耳はまだ白い。
同じ年に生まれた子どもは立派な成獣になっているのに、わたしだけ成長が遅れているのだ。
テッドを筆頭に「近年まれにみる恵まれ年だ」と囁かれた幼なじみたちが、天狗の鼻を折った犯人だ。十歳で魔法が使えるようになるのが普通なのに、五歳から手のひらを光らせるテッド。七歳になると同い年の子ども全員が魔法を使っていた。
わたし? 日本人に魔法が使えるかー!! 前世の記憶が目覚めたことで、雪性の本能部分でなにかが眠らされたのだと思う。おもに魔法に対する天才的なセンスとか、あふれんばかりの魔力とかがね!
魔力の弱さは個体の弱さにもつながるのか、皆がすくすくニョキニョキ育っていくのを尻目に、やっと幼獣の和毛が取れたのは十三歳。十五、十六歳で同い年の子が耳の色を変えたというのに、わたしは真っ白のままだった。
いいんですけどね、別に。
里中見渡しても全員イエティだからイケメンいませんし。モテるどころか可哀想な行き遅れを見る目で見られても心痛みませんし……いや、せめての大人の証に耳の色くらいは変えたいけれど。
耳が白くてももう十九歳だ。いつまでも両親の巣にはいられない。
森の端っこに巣作りをしたわたしの隣で、「この枝ぶりは捨てがたい」とかなんとか訳のわからないことを言って巣を作ったのがテッドだ。
幼なじみたちがどんどん番いを成立させる中で、テッドだけはひとりだった。次期里長と目される彼はモテてモテて困っているはずなのに、昔と変わらずわたしにかまってくる。魔法が使えないのでモシャモシャ菜食生活を送っていると、「栄養が偏るだろうが」と母親のようなことを言い、彼が狩った鹿肉をわけてくれた。
貴重なたんぱく質は有難くいただいたけれど、素直な気持ちでは食べられなかった。
テッドとは特別仲が良かった。幼なじみたちと一緒に雪原を転げまわり、里長の巣と近かったから二人で遊ぶことも多かった。子どものころは精神年齢のぶんわたしがお姉さんだと彼を弟あつかいし、彼の世話を焼いたものだ。魔法の行使によってすぐに立場は逆転したけれど。
彼の毛が灰色に変わり始めたとき、わたしは寂しかった。
仲の良かった兄弟が離れていくような気がしていた。
けれど全身の毛皮が灰色になっても彼はそばにいてくれた。
――弱い個体のそばに。
面倒見のいい彼は幼なじみを放っておけないのだろう。
毎晩手のひらに意識を集中してみる。一瞬たりとも光らない。
垂れた耳を引っ張ってみる。一筋の赤味もない。
もし、魔法が使えたら。
もし、耳が赤ければ。
どちらかひとつでも叶うなら、彼は安心してわたしのそばを離れられるだろう。
スターズの葉を噛みしめると青臭く、苦い味がした。
「最近寝るのが遅いようだが、なにしてるんだ?」
雪性は気配に敏感な狩人だ。視力も聴力もまさに人外。
巣は隣同士だし、意識していればわたしが特訓しているのがわかるのかもしれない。わたしは彼がなにをしているのかなんてわからないけど。パーツは同じなのに性能は天地の開きがある。テッドの身体能力の高さに慄きつつ、正直に告げた。
「魔法が使えるようにならないかと思って特訓してるの」
「で、成果は?」
「コツさえ! コツさえつかめばいけそうな気がするのに!」
ぎゅっと握った拳はきっかけがあれば光りそうな気がする。
悲しいかな、わたしは魔力というものを感じたことがない。皆がいうような「練り上げればいいだけ」とか、「一点に集中してピッだよピ!」とかふざけた感覚がわからないのだ。指先からビームが出せるようになったら幼なじみたちのお尻に火を点けてやる。
「なんで今ごろ魔法なんだ?」
「今ごろじゃなくて、今さらだけどね。いつまでもテッドに頼ってはいられないし、そろそろあなたも番いを探さないとおじさんとおばさんが困るでしょう?」
「おれの番いね……そんなことを心配していたのか?」
「黙っていても希望者が群がってくるみたいだから、心配の必要はないかもしれないけど。……わたし自身も番いを探そうと思ってるの。魔法が使えなくてもいいって雄がいたら、紹介してくれない?」
冗談まじりの言葉にテッドは黙ってしまった。物好きな心当たりを考えてくれているのだろうか。
番いか……でもイエティだからなあ。ライクな気持ちしか抱けないかもしれない。そう考えると、一生独身なら耳は白いままの方が楽そうだ。いや、魔法は使えないと困るけれど。
やがて口を開いた彼は意外な提案をしてきた。
「コツをつかみたいって言っただろ。おれが教えてやるから、今晩巣に来いよ」
「子どものころ散々教えてもらったのにできなかったんですけど?」
かつて、もっとも根気よく魔法の使い方を教えてくれたのはテッドだ。
いつまでたっても上達しない自分に見切りをつけて、わたしから終わらせてしまった。
「おまえの魔力も成長して高まっているだろうし、おれの教え方も上手くなってると思うぜ。里のチビどもにたまに教えてやってるしな。やってみないうちからあきらめるのか?」
言い分には一理ある。
わたしは魔法の使い方を教えてもらうことにした。
++++++++++
テッドの巣は体格に合わせてか大きな造りだ。がっしりとした木組みの家はログハウスに近い。塗装はしないので自然の木材ではあるけれど、表面はなめらかに削ってある。彼が巣を作るとき、木の種類から選び始めたときは巣にかける熱意に若干引いていた。しかし中に入ってみると居心地がよいので、大雑把に見えて好きなものは細部までこだわりたいテッドらしいと感心する。
床には大きな月虎の毛皮が敷かれていた。幼なじみたちが騒いでいたのはこれかー……。
月虎は明るい金色の毛皮をもつ虎で、サーベルみたいな牙と蒼光を弾く毛皮は雪性でも仕留めるのに難儀する猛獣だ。普通は二、三人で狩る獲物をテッドひとりで仕留めてきたと里が沸いてたっけ。雪山に住む虎だけあって月虎の毛皮はふかふかで暖かく、人気ナンバーワンの最高級敷物だ。
うながされて座ると、テッドが隣に腰を下ろした。
額と額を合わせ、軽く頬をこすりつける。親しい雪性同士で交わす親愛の仕草で、狩りに出ていた彼に対してお疲れ様の意味をこめている。
「なにか食うか? 肉ならあるが」
「ありがとう、でもご飯は食べてきたの。狩りが遅くなったっておばさんたちが言ってたわ。テッドはまだなんでしょう? わたしのことは気にしないでいいから」
大きな鹿肉にかぶりついたテッドに、持参したモイロの葉を出す。
手ぶらで教えを乞うわけにもいかないし、彼の好きな葉を探し回って採って来ましたよ。
甘みの強いモイロの葉は滅多に見つからない貴重品だ。お子ちゃま舌のテッドは甘いものが好きなのだ。くるりと回転した耳はご機嫌な証拠。喜んでもらえてなによりです。
鹿肉の塊を三つもたいらげたテッドはスイーツ代わりにモイロの葉を食べ、人心地ついたようだ。口まわりの毛をペロペロ舐めている。細められた黒い瞳は満足げな光を宿していた。
「で、魔法を使うための特訓というのはなにをしているんだ?」
「一念岩をも通す、ということで、拳を握ってそこに精神を集中させているの」
「魔力は? “蒼光”は魔力を練って収束させないと意味がないぞ。ただの光る拳だ」
「……光るところまでいったら苦労しないわよ」
ボソッと告白するとテッドの目が丸くなった。
「…………つまり、なんだ、魔力の流れが操れないってことか?」
「いいえ。そもそも魔力の流れを感じられないってこと」
未知の生物を見るような驚きを表してくれた。
いやいやおかしいから。自分たちこそ《雪性》というファンタジー生物だから。魔力ってなに。血液以外のどんなものがこの身体を流れているというのか、わたしにはさっぱりわからない。
昔教えてもらったときはどこで躓いているか自分でもわからなかったし、説明することもできなかった。だから嫌になって投げ出したんだろう。でも現状に甘んじていてはいられない。テッドをわたしのお守りから解放しなくては。
ガシガシとうなじの鬣を掻いていたテッドは、「嘘だろ……」と呟いた。
「リタ、おまえ毛皮は脱げるよな?」
「それ嫌味? 生まれてこの方一度たりとも脱いだことありませんけど」
雪性の毛皮は着脱可能だ。幼獣のときは身体を保護するために脱ぐことはできないが、十歳あたりで魔法が使えるようになると自分の毛皮を脱げるようになる。けれど毛皮を脱ぐと無防備になるので、大抵は巣の中で番いといるときに限り、我が子の前でも滅多に脱がないのだ。
わたしが前世の記憶に目覚める引き金は、母親の毛皮が脱げるという幼心にも衝撃的な光景のためだった。
毛皮を脱ぐには、全身の皮膚に魔力を行き渡らせ、毛皮部分を浮かして剥がすように脱ぐのがコツらしい。それがどんなコツだかわからないんだってば。
これ以上驚く顔を見たくなくてそっぽを向くと、テッドが身体をずらして真横に並んだ。毛先と毛先が触れ合うぐらいに近い。
「毛皮の脱ぎ方も知らないんじゃ、魔法を使う以前の問題だろうが」
「だからそれをあなたが教えてくれるんでしょう?」
「……おれが毛皮の脱ぎ方を教えていいんだな?」
籠ったような声だった。口の中で唸るような、そんな喋り方は歯切れの良い彼には珍しい。
初歩的すぎてあきれた? 怒ってるの……?
少し不安になって見上げたテッドの顔はすぐそばにあった。黒い瞳にわたしが小さく映っている。彼の猿みたいな顔は毛におおわれて細やかな表情は判別できないけれど、妙な迫力が漂っていた。
「いっいいも悪いも、他の雄には頼めないしっ……」
「冗談だよな? おれ以外の誰に頼もうっていうんだ」
雄の体格は雌より一回り大きい。並外れて立派なテッドと平均より育たなかったわたしとでは、二回りも違った。彼が意識していなくても身を乗り出されたら、大きな体の影にすっかり隠れてしまう。
圧し掛かられているような威圧感に腰が引けてしまった。
「嫌なら教えてくれなくてもいいわよ、大丈夫っ、魔法が使えなくたって死ぬわけじゃないし!」
「でもおまえは魔法が使いたいんだろう? ――おれから離れるために」
尖った耳が警戒をあらわしてピンと立っている。ふくりと膨らんだ灰色の毛皮。
……どうして?
この雪山で最強の若い雄が緊張している。彼を脅かすものなどなにひとつ存在しないというのに。
「自立と言ってよ。いつまでもテッドに迷惑をかけたくないの」
「面倒を見るのが迷惑だと、おれが一度でも口にしたか? おまえの勝手な想像だろう」
「言わないけど、あなたが番いを見つけるのに邪魔になっているわ!」
「番いならとっくに見つけているさ」
言葉の意味がわからなくて瞬いた。
番いを見つけているのなら、どうしてわたしの世話を焼くのだろう。
《雪性》は番いの結びつきが非常に強い種族だ。片時も離れたがらず、常に行動を共にする。もし相手がいたらわたしのそばになどいられないはず。
「じゃあ巣がからっぽなのはどうして……?」
「さあな。究極に鈍い雌がおれの求愛に気づいていないからじゃねえか?」
テッドは自嘲するように言うと、さらに体を近づけてきた。もう触れるどころか密着の域に達している。毛皮ごしに体温が伝わってきた。爛々と輝く瞳はわたしの視線をとらえ、逸らすことを許さない。
「毛皮の脱ぎ方を教えてやるよ。おれの魔力に合わせて、身体からふるい落とせ」
テッドの顔が迫り、唇に弾力のあるものが重なった。毛むくじゃらの雪性は、毛が生えていないところが限られている。唇だ、と認識したころには、彼はさらに先に進んでいた。
呆けて抵抗など忘れていた。べろりと唇を舐めた熱い舌が隙間から入ってくる。
甘い。
甘い? ……モイロの葉。
自分では口にしなかったその甘みを伝えられてわたしの頭はパンクしそうになった。
なななっ、なんで!?
テッドを押し返そうとしたけれど力の差は歴然としていた。突っぱねた手が勘に障ったのかまとめて捕らえられ、月虎の敷物に押し倒された。上からおおいかぶさられると動くこともままならない。
「んん! ……うっ……はぁ、……」
上顎を舐められた。硬直する舌に舌が絡む。交わる唾液と一緒に、喉を焼く灼熱感。むせそうになって唾液ではないと気づいた。
口腔内、喉、さらに胃の腑から全身へ熱が巡る。血管を流れる血液を知覚できたらこんな感じだろうか。身体の中心から隅々までなにかが行き渡っている。とどまることなく循環している。
これが、“魔力”。
わかる。自分の身体をおおっているもの。皮膚の上にあって、そう、少し隙間がある。ここに注ぎ込んだら? 浮いて、滑って、ゆで卵の皮をむくようにつるりと脱げるんじゃないだろうか。
無意識の思考に魔力が従った。
背中がむず痒い。そこに誰かの手がかかり毛皮を引っ張ってくれる。身をよじるようにふるわせると、頭のてっぺんから足までスルッと毛皮が剥がれた。ほうっと解放の息を吐く。
外気が冷たいなんて初めて。肌寒さは雪性にとって縁遠い感覚なのに。
「よくやった。もう目を開けていいぞ」
馴染みがあるのに聞いたことのない声がした。
おそるおそる目を開けると、見知らぬ青年がわたしを見下ろしていた。
…………だれ?
濃い灰色の短髪に黒い瞳。褐色の肌。彫りの深い造作は日本人ではちょっと見かけませんよね? 引き締まった体は鍛えられた筋肉の付き具合を確認できる状態、つまり裸だった。
そして彼に押さえつけられているわたしも裸だった。
陽射しを一切浴びたことのないような真っ白の肌は、透き通って青みがかっているようにも見える。小ぶりな胸の頂はピンク色で、両足の付け根には白い毛が申し訳程度に生えていた。
着ぐるみのように毛皮が着脱可能と知っていても、知識だけだった。母親が毛皮を脱ぎかけている姿を見たのは一瞬で、完全に脱ぎ捨てた姿は見たことがない。自分自身にいたっては、「永遠に脱げないのだから皮膚も一緒」だと開き直って想像もしなかった。
《雪性》って、毛皮を脱ぐと人間になるの?
誰も教えてくれなかった。人間の居ない世界だから“人間”という概念がないのだろう。無防備になるから毛皮を脱ぐのは番いの前だけにしなさいと、両親から言い聞かせられてはきたけれど。
無防備な姿ってこれ!? たしかに肌は産毛だけで、二重被毛の雪性に比べれば無防備ですけど! イエティの毛を毟ったらイケメンってどんなイリュージョン!?
ずんぐりむっくりな毛皮の下にこんなのが入っているなんて聞いてません。
「雌の髪や肌は白いんだな。瞳の色は変わらずか。でも肌は柔いな……」
腰にクる低音で独り言ちた青年はわたしの額から前髪を払った。自分の髪が真っ白なことより、頬を丸ごと包んだ手のひらに驚いていた。青年は物珍しげにふにふにと頬をつまんだり撫でたりしている。
顔が近すぎるって!!
テッドの容姿は整っていた。意志の強そうな眉の下は長い睫。雪性って目に雪が入らないように長い睫なんだけど、人間になったらこうも色気があるとは。けぶる黒瞳は熱っぽくわたしを見つめていた。
「リタ? どうした。初めて毛皮を脱いで疲れたか? おれの魔力に酔ったのか? 交感は最小限にとどめたから影響は少ないはずなんだが……」
額と額が合わせられ、軽く頬をこすりつけられた。雪性同士の親愛の仕草だ。おそらくいたわりの意味を込めてしてくれたのはわかるけど……! わたしの顔は真っ赤だろう。
里の女の子が「テッドって本当に格好良いよね!」と騒ぐ中、「へぇ、イエティの中ではこれがイケメンなのか~」とずれた感性をもっていたことを謝ります。
雪性は両親もわたしもみんな猿顔だから、異性へのときめきを感じることはなかった。周囲の雪性がわたしを愛してくれていることも知っているし、わたしも皆のことが好きだった。家族のように、友達のように。同族にそれ以上の気持ちを抱くことはなかったのに……。
「だ、大丈夫だから、ちょっと離れてくれない? 服、じゃなくて毛皮を着たいからっ」
「せっかく脱いだのにもう着るのか?」
「脱げたのは嬉しいし、手伝ってくれたのは感謝してるけどっ、……そう! 寒いのっ、寒いから毛皮を着なくちゃね!」
ちっがーーーう!! 抱きしめてなんて頼んでないっ!
裸の胸に密着したらあたたかいけど、そういう温もりを欲していたんじゃなくて!
魔力のなせるわざなのか。火の気もないのに凍死しないのは、厳密にいうと人間じゃないからなんだろう。それでも触れあう肌の感触はわたしの知る人間と同じだった。
離してくれないと破れそうな心臓の鼓動がテッドに伝わってしまう。もがいても太い腕はちっとも緩まない。それどころか足まで絡まされて、わたしはギブアップだと彼の脇腹をぺちぺち叩いた。
くっ……自分では思いっきり叩いているつもりなのに、雌の非力さよ。
「テッド、お願いだから毛皮を着させて」
「寒いならおれがあたためてやる」
「お気持ちだけで十分です、じゃなくてっ、恥ずかしいの!」
脱ぎ捨てたお互いの毛皮が毛布がわりにかかっていて見えないけれど、感じますから。下半身も裸ですから。自主規制モザイクでスルーしたテッドのものもダイレクトタッチですから。
毛皮を下さい、切実に。
うかつに動くともできず泣きそうになっていたら、なにかに気づいた様子でテッドが身を起こした。でもわたしの毛皮は遠ざけられ、脱いでも巨大な彼の毛皮に埋もれるように二人で座ることになった。仕方がないので腕のあたりの毛皮を借りて身体に巻き付けた。反対の腕部分は隠そうともしないテッドの腰に押しつけておく。
人間の姿になって縮んでいるとはいえ、片腕の毛皮で全身がすっぽり隠れる。テッドが雪性の姿のままなら、わたしは彼の半分もないんじゃないだろうか。
裸なのが落ち着かなくて月虎の敷物の上でもぞもぞしていたら、テッドが真剣な顔で尋ねてきた。毛皮がなくなると表情がわかりやすい。
「恥ずかしいって言ったよな? それはおれの姿がか?」
「お互いにって意味よ。毛皮がないと身体を隠すことができないでしょう?」
「どうして隠す必要があるんだ。おれに見られるのが嫌なのか?」
「テッド以外でも、誰かに見られたら恥ずかしいわ」
前世ゆえの羞恥心だ。毛皮一枚で生活しているのだから、雪性にとってみれば今さらなにを恥ずかしがるのかと疑問に思うだろう。無防備な姿が心もとないと言えば理解してもらえるのだろうか。
「――おれを意識しているのか?」
表情がわかりやすくなった。それは彼が半ば勘付いていることを確かめるように尋ねたことも、わたしの顔がもう赤くなれないほど真っ赤になったことも誤魔化しようがなかった。
テッドの腕が伸ばされる。反射的にビクッと肩を揺らしたら、ためらいがちに頭を撫でられた。何度もやさしく髪を梳く指先に緊張がほぐれる。
「おれはもっとリタの姿を見ていたい。顔以外も見たいし、こうして触りたい。……毛皮を脱ぐのが番いの間に限る意味を知ってるか?」
「相手を信頼しているってことでしょう?」
無防備な姿をさらしても攻撃されない。それは相手が自分を傷つけたりしないとわかっているから。
「それもあるが、それだけじゃない。愛し合うためだ。なにも隠さず触れ合って、感じ合って、心と身体を重ねるためだ。おまえがおれを信頼しているのは知っている。じゃなきゃこんな真似を許さないだろう?」
髪だけに留まる指。外見は変わってもテッドはテッドだ。たとえば彼が毛皮を剥いでわたしに無理強いをするかというと、しないだろう。
迷わず肯くと苦笑された。
「今は危機感がなくてもいい。耳も白いしな。――おまえに意識されるようになっておれがどれほど嬉しいか、きっとわかっちゃいないんだろう? おまえはどの雄に対しても同じ反応だ。強い雄も弱い雄も同じ。おれはおまえが“雌”の視線で“雄”を見ているのか疑問だった。発情期を迎えていないからか? それとも、同族と認識していないからか?」
鋭い、と目を白黒させてしまった。同族と思ってはいたけれど、恋愛対象として見たことはない。
「……やっぱりな。おまえは他の雌と違う。普通のやり方がことごとく通じない」
諦観の口調だった。彼にそんな言われ方をされることをしただろうか。記憶にない。
不満が顔にあらわれていたのか「狩った獲物をやっただろう」と言われた。鹿肉はたしかにおすそ分けしてもらったけれど、毎回きちんとお礼は言ってますよ。あれがなにか?
テッドは胡乱な眼でわたしを見ると、それ以上鹿の話題には触れなかった。
「おまえはチビでドジでおまけに魔法も使えなくて、最初はおれが守ってやらなきゃやばいって気持ちだけだった。不味そうな草食ってばかりでちっとも育たないしな。肉をやってみれば皆に分けて一口食うだけ。おれはおまえにたらふく食わせたかったんだぜ? 腹が立って、もっともっと肉をやろうと思った。分ける相手に困ったら、自分で食うしかないだろう? おかげで狩りの腕は上達したがな」
幼なじみたちが肉を分けると遠慮するようになった訳がわかった。「食わないとテッドががっかりするぞ」とニヤニヤして言われたのは、彼の育成計画に気づいていたからだろう。
「次第に面倒を見るのが楽しくなった。おれの狩った獲物でおまえの腹を満たしたい。いつもそばにいて守ってやりたい。おまえが機嫌よく笑っていればおれまで嬉しくなる。その役目は誰にも譲る気はなかった。番いが誰なのか、ようやくわかった。おまえはまったく気づいていなかっただろう?」
「すごく面倒見のいい幼なじみだな、と……」
「まあいいさ、長期戦は覚悟の上だった。だが、おれ以外の番いを探すと言い出すから、どうしてやろうかと思った。巣に引きずり込んで、耳の色が変わるまで待って、丸ごと食っちまおうかと悩んだよ。自棄になるのは毛皮を脱いでからでも遅くないと思ってな、試してよかったぜ」
わたしを通りこした先を見るようにうっそりと笑う。
怖い怖い! さりげなく監禁を匂わされた未来予想図に、彼の巣に来てよかったのだろうかと思った。
「リタ、おれの番いになってくれ。毛皮を着ていても脱いでもおまえが愛しい。おまえが望むのなら、巣の中ではずっと毛皮を脱いでいよう」
テッドの瞳がまっすぐにわたしを射ぬく。毛皮が豊かな感情をおおい隠していたのなら、いつも彼はこんな顔でわたしを見ていたんだろうか。
雪性が毛皮を脱ぐのは番いの前でだけ。
自分の認識不足は置いておいて、テッドがどうしてわたしの前で毛皮を脱いだのか考えてみればよかった。横に巣を作ったことも、毎日様子を見に来てくれることも、幼なじみの親切心からできることだろうか? 「また草かよ」と言いつつも採取についてきてくれた。足を挫いたときにおんぶして連れ帰ってくれた。猛吹雪の夜は身を寄せ合って夜を明かしたし、親愛の挨拶も両親より彼と交わした数の方が多い。
次から次によみがえる行動に心臓が挙動不審になる。
尖った耳で機嫌を察することができるぐらいそばにいた。
彼の匂いが自分の毛皮に移るのが当たり前になるほど馴染んでいた。
魔法が使いたかったのも、耳の色が赤くなるように願ったのも、テッドに負担をかけたくなかったから。好きだから心苦しかったのだ。灰色の毛皮が隣にいないことを考えると、想像だけで胸が痛い。
――なんだ。
わたし、テッドのことが好きだったんだ。
恥ずかしい。見た目が人間じゃないから、きっと好きにならないと思っていた。人間なんてひとりもいない異世界で、人間だった記憶にとらわれて自分の心も見えなくなっていた。
《雪性》として生まれたわたしは、もう人間じゃない。雪性として育ち、愛され、愛していくんだ。
わたしは目が潤みそうになるのをこらえて微笑んだ。
テッドの手をぎゅっと握る。
人間の手。自分の気持ちに気づけたのは彼が毛皮を脱いだことがきっかけなのは間違いない。
でも、毛皮があってもなくても、このやさしさとぬくもりは変わらない。だからどちらの姿でも愛しいと思えた。
「……毛皮がないと寒いのに、いいの?」
「ならおまえがあたためてくれ」
再び抱き寄せられた胸にもたれかかり、わたしはテッドの毛皮にくるまって眠りに落ちた。
この夜から彼の巣は、わたしの巣にもなった。
後日、大きな鹿を手にやって来た幼なじみたちは、「やっとくっついたか!」と口々に祝福してくれた。
そしてテッドの努力が報われたことを喜んでいた。
雄が自分で仕留めた獲物を捧げるのは求愛の証だそうで……本当に申し訳ありません、十年近くずっとスルーしていました。ひとり暮らしには立派すぎる巣も、月虎の敷物も、あからさますぎるのにと責められていたのを庇ってくれたのはテッドだった。
――「いいんだよ。あおずけ食らってるぶん、楽しみが増すってもんだ」って、わたしのまだ白い垂れ耳を撫でながら、黒い瞳がギラギラと輝いていた。
……やっぱり目が怖い怖い! あっ、皆帰らないでー!!