はじめまして、知らない世界
強い女の子が頑張って活躍する話を書きたいと思い、何年も前から温めてきた話です。
アイデアを練り始めた当初は、主人公のキャラが立っていなくて、苦戦しましたが、今回のは、かなりしゃんと立ったキャラになってくれました。
これからどんどん、主人公の知らない世界を展開していく予定ですので、よろしくお願いします。
林間学校なんて、何が楽しいのか分からない。
行きたくもないのに、半ば強制的に参加させられ、バスで2時間もかかけて、山奥のキャンプ場にやってきてしまった。
頭の悪い同級生共と、原始的な炊事をして、雑魚寝をして、火を囲んで騒ぐのだと。
空調の効いた自宅で自習でもしていた方が、よほど将来のためになるだろうに。
僕は、馬鹿みたいにはしゃぎながらバスを降りたクラスメートを横目に、集団から離れた場所に座り込んで、西洋医学書を読んでいた。
「おい、こら!鹿羽!単独行動は慎め!点呼をするぞ!早く列に並ぶんだ!」
自己主張の強い真っ赤なジャージを着た、ガタイのいい男。
僕は、俗に体育会系と言われる人種であるこの担任教師が嫌いだ。
精神論に頼った詭弁を振りかざし、集団を模範という名の型にはめ込もうとする。
この男の理想とする世界で、僕は生きていけない。
僕の自我が潰れて、例えば、今、目の前で行儀良く列に並んでいる、没個性の学級委員みたいになってしまうのは嫌だから。
ため息をつき、本のページをめくろうとした。
その時だった。
観光バスが、宙を舞った。
それが、林間学校で寝泊まりする筈だった宿泊施設に衝突して、木造の建屋は木っ端微塵に消し飛んでしまう。
バスにも宿泊施設にも、人が入っていなかったことが不幸中の幸いだけど、危機が去った訳ではない。
「なんだよ、あの化け物は!」
「いやぁぁぁ!」
「お前達、落ち着くんだ!」
クラスメートや担任教師が、口々に叫んでいる。
僕らの目の前には、体長3mはあろうかという巨大な熊が立ちはだかっていた。
こいつが、荒ぶる剛腕で観光バスを投げ飛ばしたのだ。
まるで、幼児が玩具の車を投げるように、軽々と。
熊は、腐臭の漂うよだれを撒き散らしながら、狂ったように木々を薙ぎ倒し、僕らの方に向かって這ってくる。
焦点の定まらない目をギョロギョロと動かして、雄叫びをあげた。
様子がおかしい。
灰色の毛皮の表面が、時々大きく盛り上がった。
熊の体の中を、何か得体の知れないものが動き回っているようだった。
僕には、その熊が、怒りに我を忘れているようにも、何かから必死に逃れようとしているようにも見えた。
あの熊は、いや、あの得体の知れない生き物は何だろう。
僕は、医学書を放り捨てて、未知に吸い寄せられるように近付いた。
「お、おい!鹿羽!そいつから離れろ!」
担任が、他の生徒を避難させながら、僕に呼びかけたが、彼が発した言葉は、僕には届かない。
一歩、また一歩と、熊に向かって近付いてゆく。
僕の知らない何かが、目の前にある。
本でも、学校でも教えてもらえない何かが、僕の好奇心を駆り立てて、手招きしている。
じっとしてなんて、いられるものか。
灰色の巨腕が、振り上げられる。
熊の体が太陽を遮って、僕を影で覆った。
涼しい風が吹いて、髪を揺らし、服の間を通り抜ける。
蝉の声も、草木のざわめきも、心地よい振動を鼓膜に伝える。
煩わしいだけだった夏の香りが、こんなにも気持ち良く感じたのは、何年ぶりだろう。
僕はこの一瞬を、脳に焼き付けるように、目を見開いていた。
大きな爪がギラリと光を反射する。
次の瞬間、巨腕が弧を描いて振り下ろされた。
ーーーどすっ!
地面が抉れるほどの衝撃が走って、砂袋が爆ぜたような音が響く。
その衝撃で、僕の体は地べたに叩きつけられた。
死んだ、と思った。
あんな状況で、生きていられるわけがない。
熊の凶拳は、間違いなく僕の体を引き裂いただろう。
まあ、いい。
凡庸な日常に戻って、この知識欲を飼い殺しにされるくらいなら、死という未知の領域を思う存分知り尽くしてしてから、生涯を閉じるのも悪くない。
巻き上がる砂埃の中で、僕は自分の体を触って確かめた。
「死んで……ない」
引き裂かれるどころか、傷一つついていない。
驚いて、視線を彷徨わせた。
砂埃が風で流されて、ぼんやりしていた視界がはっきりと開けてくる。
唸りをあげる熊の腕は、僕のすぐ近くで止まっていた。
正確には、止められていた。
肩にかかるくらいの髪をなびかせた少女が、その細い腕一本で熊の爪を掴み、強烈な一撃を止めていたのだ。
さらに力を込めて妨害者を凪倒そうとする熊の腕を、彼女は顔色一つ変えずに、ギリギリと押し返す。
「死ぬ、なんて……」
倒れている僕に、彼女は清々しい笑顔を向けて言った。
「簡単に言っちゃダメだよ。鹿羽 誠一くん」
日本人離れした目鼻立ちと、深海のように深い青色の瞳。
柔らかそうな髪は、豊かに実った稲穂のように輝く金髪だ。
真っ白なワイシャツと、プリーツのミニスカートが眩しい。
「あ、そうだ。誠一くん、ちょっとこれ持っててくれない?」
そう言って、彼女はシンプルな黒のカチューシャを僕に放る。
「えっ、ちょっ…君は……ぐはっ⁉︎」
言いかけた僕の背中を、突然の激痛が襲う。
「ごめんなさいね。でも、貴方みたいな坊やの為にここまで来たかと思うと、どうしても苛立ってしまうの」
淑やかさの中に、力強さを秘めた声だ。
むせ返りながら振り向いた僕を見下ろして立っていたのは、赤眼の少女だった。
無表情なのだが、その瞳の中には怒りの色が覗き見える。
亜麻色の髪をシニヨンに結い上げて、時代錯誤としか思えないティーガウンを纏っていた。
いや、北欧系の顔立ちのせいで、本当に中世ヨーロッパの貴婦人が映画の中から飛び出してきたように見える。
彼女は、象牙色のステッキをクルクルと振り回し、僕の鼻先に突き付けて、言い放った。
「その腐った性根が直るまで、甘えは許さないから覚えておきなさい」
恐らく、これで僕を殴ったのだろう。
しかし、見ず知らずの女に殴られる謂れはない。
僕はステッキを手で振り払って、ティーガウンの女を睨み返した。
「いきなり殴るとか、僕の為とか、意味わからないですよ!何なんですか、君達は!」
僕の質問に、金髪の少女が、熊の爪を掴んだまま答えた。
「あたし達は、誠一くんのお父さんの弟の娘だから、えーっと、つまり従姉妹かな」
この状況で、屈託のない笑顔。
彼女は、目の前の怪物の攻撃を、まるで仔犬がじゃれてきている程度の余裕で抑えていた。
「詳しい話は、もう少し落ち着いてからしたいわ。ジェーン、遊んでいないで、その程度の相手くらい早く片付けてちょうだい」
「カミーユはせっかちさんだなぁ。それで、この子は どこ にいるの?」
「心臓よ」
会話の意味が分からない。
どこって、目の前にいるじゃないか。
ジェーンと呼ばれた少女は、今にも噛みつこうと首を伸ばして唸り声をあげる熊に向き直る。
「辛かったね…。ごめんね」
さっきまでの笑顔が歪んだ。
眉尻が下がり、瞳が潤んでいる。
耳が赤く色づいて、熱を持っているようだった。
空いている方の手で、熊の頬を撫でる。
熊は、それ以上、抵抗しなかった。
獣の荒い息がかかって、ジェーンの前髪を揺らす。
最期に、何かを伝えようとしているのか。
ジェーンは静かに頷いて、爪を掴んでいた手を離した。
瞼を伏せて一気に熊の懐に入り込む。
そして、その皮を、身を突き破った。
彼女の指先には、決して鋭い爪が生えているわけではない。
何かを掴むような形で指を立て、力ずくで対象にめり込ませたのだ。
人間とは思えない、圧倒的な怪力で。
ジェーンは、肩までずっぽりと肉塊の中に腕を入れると、ズルズルと音を立ててその腕を抜く。
熊が、声にならない声をあげてもがいた。
すると、熊の体から、白い蛇に似た生き物が引き摺り出された。
白い生き物が完全に取り出された時、巨体は断末魔をあげて倒れた。
太陽の下に晒された目のないその生き物は、キーキーと気味の悪い鳴き声をあげてジェーンの手から逃れようとのたうち回った。
「これは……⁈」
思わず身を乗り出す。
そんな僕を制止して、カミーユが横を通り過ぎた。
「生きている人間には寄生しないけれど、無闇に近付かないことね」
彼女はステッキの柄の部分を捻る。
「これは、この世に存在してはいけないほど、危険な生物だから」
ただのステッキだと思っていた象牙色の棒からは、細身の剣が抜かれた。
現れた白銀は、蛇のような生き物を細切れにする。
あまりに速すぎて、持ち主が剣を振るっている事さえ、感じさせない。
カミーユの剣さばきは、頭の中で描いた切り絵を形にするように、一切無駄な動きがなかった。
カミーユは、バラバラになった白い残骸を冷たい眼で睨み下ろし、剣先で指し示しながら言う。
「動物の死体を宿主にする寄生虫よ。この寄生虫に寄生されると、死体は生前と同じ、いえ、生前より優れた能力を持って生命活動を取り戻すことができるわ。ただし……」
ピクピクと痙攣している寄生虫の頭部に、とどめの一撃を突き立てる。
完全に動かなくなった事を確認すると、刃を引き抜いて言葉を続けた。
「個体との相性が悪かった場合、宿主は生前の自我を失う。そして、体内を寄生虫が這いずり回る苦しみに侵されながら、生きていかなければならないのよ。こうして、誰かが寄生虫を取り除いてくれるまで」
刃についた血を振り払って剣を鞘に収める。
伏し目がちな眼差しで、ジェーンと、さっきまで熊だった肉塊を見やった。
「あの腐敗状態だと、最近寄生されたのね」
ジェーンはただ黙っていた。
牙を剥き出しにして息絶えた熊の背を優しく、さする。
返り血を拭うのも忘れて。
その姿は、この灰色の獣を通して、どこか遠く、別の誰かを重ねて思っているようだった。
「ちなみに、もう貴方も気付いていると思うけれど……」
そこまで言って、カミーユが踵を返した。
目が合う。
出会ったばかりの僕に、こんな説明をご丁寧にする時点で、偶然居合わせただけという事はありえない。
僕は、額に浮かぶ汗を手の甲で拭った。
この汗が、夏の外気温のせいではない事は明らかだった。
カミーユが、人差し指で自分のこめかみをトントンと突つく。
「あれと同じものが私の脳と、ジェーンの脊椎に寄生しているわ」
今、僕を激しく襲ってくる目眩も、動悸も、きっと、夏の外気温のせいなんかではない。
青と緑がぐるぐる混ざって、視界が反転する。
「なんてことだろう……」
僕は史上最高に興奮していた。
汚い地面から跳ねるように起き上がる。
「気落ちする事はないわ。私達は、貴方に危害を加えに来たわけではないn……ーーー」
言いかけたカミーユの手首を掴んで、体を引き寄せる。
「姉さん!いいえ、僕の救世主!」
僕はカミーユの頬を両手で包み込んだ。
吐息が触れるほど顔を近付けて見つめる。
「最高です!貴女とジェーンさんに、一目惚れしました!貴女達の事をもっと知りたい!その個性的なファッションに隠された奥の部分まで!」
「……性根が腐っているとは思っていたけれど、節操までないのね」
カミーユの軽蔑と憐れみが混じった眼差しがキリキリと突き刺さるが、そんな事はどうでもいい。
「未だかつて、僕の心を!欲望を!こんなに掻き乱した人は他に居ないんです!お願いします!」
これを、運命の出会いだと僕は確信した。
できるだけ真面目な顔をして、僕の思いを告白するまでだ。
「解剖させてください!」
ステッキがちょっと視界を横切ったのが見えた。
頭に鈍い痛みが走る。
そこで、僕の記憶は一度途切れた。