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逃亡  作者: 白水
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顛末



街のピンク色のネオンが、カーテンを閉め切った部屋にまで入り込んでいる。

この街に足を踏み入れていく人間の欲望が、僕の部屋にまでしみ込んでくるようだった。

ハンガーに吊るされた学ランが、ピンクの光に飲まれていく。それがみょうにこの街に不似合いだった。


パチンコ屋や風俗店が乱立する歓楽街から一歩抜けた路地裏に、僕らが棲むアパートはあった。



「ねえ、お兄ちゃんどうしよう、あたし、母さん殺した」



そう言って妹の海里が顔を青くしながら僕の部屋に飛び込んできたのは、まだ街が目覚めていなかった時間帯だったと思う。

時計を見ていないから正確な時間はわからなかったけど、真夜中と言うには少し薄明るく、朝と言うには早すぎた。


そんな曖昧な空の境界に、僕の意識がぼんやりと浮かび、徐々に現実に下降してきたときだった。

僕の目に一番先に飛び込んできた色は、赤というには少し黒すぎる色だった。

海里はいつものパーカーの腹部分をその色に染め上げて、僕の部屋の前に立っていた。

それが海里の血ではなく母の返り血だろう、と思うと、特段驚かなかった。



「……いつ殺した?」


僕は寝起きなのにみょうに通った声をしていた。おかしいくらいに冷静で、取り乱していなかった。

それは海里も同じだった。海里の両腕には、抵抗の痕であろう引っかき傷が生々しく残っている。


「ついさっき。あたしが台所で食器洗ってたら背後にお母さんが居て、陶器の灰皿を持ってて。殺されると思ったから、殺しちゃった」


海里はまるで蟻を潰したときのように、淡々とそう言った。目に涙はない。


そっか、と僕が短く息を漏らすと海里は安堵したかのように微笑んだ。

片手にはまだ、いつも我が家で野菜を切っている包丁が持たされている。


日常的に妹に暴力を振るっている母が妹を殺しかけ、それに抵抗したら殺してしまった。


……それなら正当防衛で無問題なんじゃないか。

そう思うと、僕はこんな状況にも関わらず不思議とまた眠りたい気分になった。

昨夜、父親と酷く諍った疲れが残っているらしかった。


父は絵に描いたようなギャンブラーで、酒癖も悪く、給料が入っても一切家に金を入れずに自身の遊び金にしてしまうような男だった。

昨夜も父がギャンブルから負けて帰ってきたのを見計らい、僕が妹との生活費を求め詰め寄ったところで、母にこっぴどく殴られた。父はそれを酒を飲みながら笑って見ていた。


言わずもがな、母は僕と海里の本当の母ではない。

僕を追って海里が小学校に上がったと同時に、父が家に連れてきた。

「新しいお母さんだよ」なんて言葉はなく、「父さんの恋人だよ」と言ったことが、みょうに生々しく、気持ちが悪かった覚えがある。女の方は率先して「私はみんなのお母さんだからね」と口紅を付け過ぎた唇で笑った。幼い海里は新しい母の登場に無邪気に喜び、「綺麗な人だねえ」と笑っていた。

母はどこかの飲み屋でホステスをしていたらしいが、詳細はよくわからない。


しかし幸せそうに見えたのははじめだけで、彼女が家に来るようになってから、家の環境は更に劣悪になった。父のギャンブルの後に残ったわずかな金も、あの女が残り構わず使ってしまうようになり、毎月僕らの生活費が振り込まれる口座には全く金が入らなくなった。


そして何度か春がめぐり、僕も中学二年生になった。

その頃になって僕は高校には行けないんじゃないか、という不安がこみ上げて来ていた。

ついこの前、母がどこかの業者に僕の住み込みのバイトについて問い合わせているのを聞いた。

多分来年になれば僕はこの家からどこかへ売り飛ばされ、家では海里がひとり嬲り物にされるんだろう。

それは何としてでも避けたかった。


海里はこれでも母を尊敬している。

初めて会った日に、綺麗な色の口紅をくれたことが忘れられないらしい。

生まれながらに母と言う存在がおらず、母性に飢えていた海里にとっては、あの女だけが唯一の母親に見えるらしかった。本当の母を知っている自分から見れば、その海里の姿は哀れだった。

その情に浸け入り、母は特に海里に酷い暴力を振るった。それでも海里は何かと母をかばおうとする。


その海里がついに、母親を殺した。

海里は小学校五年生になったばかりだった。



一階から、劈くように匂って来る血と、肉の独特の腐臭が鼻を突き始めていた。

あの香水くさい女の匂いも、死んでしまえば生臭い肉の匂いになってしまうのか。

あまりのくだらなさに、僕は笑いさえこみ上げてきそうだった。

海里は相変わらず呆然とドアの前に立ちつくしている。


「あとね、怒らないでほしいんだけど…」

「なに?」


海里が血まみれになったパーカーの腹をなんども手繰り寄せながらつぶやいた。


「お父さんも、殺しちゃったの……」



その時になって海里が泣き始めた。

目尻に溜まった大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ出していく。



隣の犬が吠える声が聞こえる。

この家から放たれるあまりの異臭に、街が騒ぎだすのにもそう時間はかからないように思われた。



「海里、逃げよう」



もっと早くこうするべきだったんだ、と小さな海里の背中を抱きながら思った。


僕等は早くこの街からでなければならない。

ピンク色のネオンが反射している窓ガラスを見ながら、もう僕は地下鉄の乗り継ぎについて考えていた。

腐っているのは、両親の体だけじゃないはずだ。



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