「十六年と半年」
「話があるんだ。」
その一言を口にするまでに、三週間かかった。
十六年付き合った恋人は、向かいに座ってコーヒーを飲みながら、「何?」
と穏やかに笑う。
その笑顔を見た瞬間、やめようと何度も思った。
二人は結婚していなかった。
仕事が忙しい。
親の介護が落ち着いてきたら。
もう少し貯金できたら。
そんな「いつか」を積み重ねているうちに、十六年が過ぎた。
男は四十歳、彼女は三十八歳になっていた。
「別れてほしい。」
自分でも驚くほどあっさり出た。
彼女はしばらく黙っていた。
「好きな人、できた?」
男は小さくうなずく。
「いつから?」
「半年前、仕事で知り合った人。」
彼女は笑った。
「半年前?」
男は何も言えなかった。
半年が二人にはとっては、とても短い期間だってことくらい自分でもわかっていた。
それでも、その女性と過ごす時間は未来の話が多かった。
「一緒に旅行したら、楽しそうですね。いつか行ってみたいです。」
「お勧めのお店があるんです。ご都合いい時に、ご紹介したいです。」
「私も将来は、その辺りに住みたいと思ってて。」
「子ども…可愛いでしょうね。」
会話に自然と現れてくるのは、実現するかわからない未来の夢の話。
十六年付き合った恋人とは、もう未来の話は語らなくなっていた。
それは穏やかで変化のない、当たり前の日常だった。
だが、男はある日、ふと気づいてしまった。
この人の老いた姿も、同じように老いた自分が変わらず一緒にいる姿も、全く頭に思い浮かばないことに。
思い浮かぶのは、昨日の続き、だった。
彼女は静かに聞いた。
「結婚するの?」
「したいと思ってる。」
「そう。」
涙は流さなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただカップを両手で包み込み、少しだけ震えていた。
「十六年、長かった…ね。」
男は「ごめん」としか言えなかった。
その言葉だけでは、十六年は軽すぎた。
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一年後。
男は新しい恋人にプロポーズしていた。
「あなたの一番近くにずっといたいです。結婚してもらえませんか?」
彼女は堪えきれないというように泣き出して、ゆっくり「はい」と答えた。
男は彼女に対して、初めて未来の約束を口にした。
帰り道、春風が吹いていた。
駅前の広場には桜が咲いていた。
その桜を見上げたとき、十六年一緒にいた彼女が、自分の隣を歩きはじめた年の春を、不意に思い出した。
同じように桜が咲いていて、桜を見ながら他愛ない冗談を言い合っていた。
あの恋も、確かに本物だった。
十六年間、一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に歩き、歳を重ねてきた。
だからこそ、その終わりは、自分の裏切りだけでは片づけられないだろう。
未来を選んだこと、過去を傷つけたこと。
切り離せなかった。
男は桜の花びらを一枚、手のひらで受け止めようとした。
触れたと思った瞬間、風にさらわれた。
人は時に、新しい幸せへ向かうため、過去を抱えたまま歩き出さなければならない。
その重さは、一生なくなることはない。




