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「十六年と半年」

作者: ミオ
掲載日:2026/06/27

「話があるんだ。」


その一言を口にするまでに、三週間かかった。


十六年付き合った恋人は、向かいに座ってコーヒーを飲みながら、「何?」

と穏やかに笑う。

その笑顔を見た瞬間、やめようと何度も思った。


二人は結婚していなかった。


仕事が忙しい。

親の介護が落ち着いてきたら。

もう少し貯金できたら。


そんな「いつか」を積み重ねているうちに、十六年が過ぎた。


男は四十歳、彼女は三十八歳になっていた。


「別れてほしい。」


自分でも驚くほどあっさり出た。


彼女はしばらく黙っていた。


「好きな人、できた?」


男は小さくうなずく。


「いつから?」


「半年前、仕事で知り合った人。」


彼女は笑った。


「半年前?」


男は何も言えなかった。


半年が二人にはとっては、とても短い期間だってことくらい自分でもわかっていた。


それでも、その女性と過ごす時間は未来の話が多かった。


「一緒に旅行したら、楽しそうですね。いつか行ってみたいです。」


「お勧めのお店があるんです。ご都合いい時に、ご紹介したいです。」


「私も将来は、その辺りに住みたいと思ってて。」


「子ども…可愛いでしょうね。」


会話に自然と現れてくるのは、実現するかわからない未来の夢の話。


十六年付き合った恋人とは、もう未来の話は語らなくなっていた。


それは穏やかで変化のない、当たり前の日常だった。


だが、男はある日、ふと気づいてしまった。


この人の老いた姿も、同じように老いた自分が変わらず一緒にいる姿も、全く頭に思い浮かばないことに。


思い浮かぶのは、昨日の続き、だった。


彼女は静かに聞いた。


「結婚するの?」


「したいと思ってる。」


「そう。」


涙は流さなかった。


怒鳴りもしなかった。


ただカップを両手で包み込み、少しだけ震えていた。


「十六年、長かった…ね。」


男は「ごめん」としか言えなかった。


その言葉だけでは、十六年は軽すぎた。



---



一年後。


男は新しい恋人にプロポーズしていた。


「あなたの一番近くにずっといたいです。結婚してもらえませんか?」


彼女は堪えきれないというように泣き出して、ゆっくり「はい」と答えた。


男は彼女に対して、初めて未来の約束を口にした。


帰り道、春風が吹いていた。


駅前の広場には桜が咲いていた。


その桜を見上げたとき、十六年一緒にいた彼女が、自分の隣を歩きはじめた年の春を、不意に思い出した。


同じように桜が咲いていて、桜を見ながら他愛ない冗談を言い合っていた。


あの恋も、確かに本物だった。


十六年間、一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に歩き、歳を重ねてきた。


だからこそ、その終わりは、自分の裏切りだけでは片づけられないだろう。


未来を選んだこと、過去を傷つけたこと。


切り離せなかった。


男は桜の花びらを一枚、手のひらで受け止めようとした。


触れたと思った瞬間、風にさらわれた。


人は時に、新しい幸せへ向かうため、過去を抱えたまま歩き出さなければならない。


その重さは、一生なくなることはない。

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