駆け込み訴え 関東戦国前夜版
太田道灌は、なぜ上杉顕定にここまで巨大な承認欲求を向けているのか。『太田道灌状』を読んだ時のその疑問を、そのまま『駈込み訴え』にしました。
太田道灌が関東管領の館へ押しかけたのは、夜半をとうに過ぎたころでした。
供は二人だけでした。五十歳にもなろうとする名将が、鎧を着けたまま雨に濡れ、取次の者が止めるのも聞かず、二十半ばの若き関東管領の館の庭先まで、夜討ち同然で入り込みました。
「お屋形様に、申し上げたいことがございます」
奥から返事はありませんでした。
「今夜、どうしても申し上げなければなりません」
やがて、上杉顕定の声がしました。
「明日にしろ」
道灌は俯いたまま笑いました。
「明日。お屋形様は、いつも明日とおっしゃる。弥七郎の出仕も明日、降人の赦免も明日、所領の裁許も明日、軍議も明日。そうして明日が来るころには敵は退き、味方は散り、私の申し上げたことだけが、手遅れになっております」
「道灌」
「今夜は帰れとおっしゃるのでしょう。いつもそうです。お話は聞いてくださる。けれど、聞き入れてはくださらない。私は同じことを幾度も申し上げ、そのたびに、もう少し待て、評定にかける、皆の意見を聞くとおっしゃる。そのうちに、私が取りなした者は疑われ、忠節を尽くした者は敵方へ戻り、戦場では機を失う。これでは、何のために申し上げているのか分かりません」
板戸が開きました。
顕定は白い寝巻の上へ夜着を羽織っていました。怒っているというより、道灌がなぜここまで来たのか理解できずにいる顔でした。
道灌は懐から紙束を取り出しました。
「ここに、これまでのことをすべて書いてまいりました。まずは大串弥七郎のことです。あの者は敵中に身を置きながら内情を知らせ、数十人を討ち取り、味方には一人の損失も出しておりません。お屋形様もご存じのはずです。それなのに、なぜいまだお赦しにならない。周りの者が何を申したかは存じませんが、他の者と同じに扱える者ではありません。私がその働きを請け合うと、あと何度申し上げればよろしいのです」
顕定が何か言いかけましたが、道灌は止まりませんでした。
「毛呂の者たちも同じです。父祖以来、何十年と忠節を尽くした家を、一度敵方へ寄ったからといって、これまでの功まで無かったことにはできません。しかも、敵方へ寄った者は他にもいる。なぜ、あの者だけが赦されず、別の者は赦されるのです。私が取りなしたからですか。私の申し上げた者だから、お疑いになるのですか。私が、私が……もしそうなら、初めからそうおっしゃればよい。私の言葉には値打ちがないと」
「そんなことは言っていない」
「お言葉にはなさらない。ですが、なさっていることは同じです」
道灌は紙束を握り締めました。
「私は、降った者は赦すべきだと申し上げました。いったん命を助けると約した者を、後から追い詰めてはならない。そうでなければ、次から誰も降ってはまいりません。これは情けではありません。いくさの道理です。私情だけで申し上げているのではない。いや、私情がないとは申しません。私が取りなした者が疑われれば、私の面目にも関わる。ですが、それだけではない。お家のためを思えばこそ――」
道灌は、そこで一度言葉を切りました。何を言うつもりだったのか、自分でも分からなくなったのでした。
「ともかく、私の言葉を退けられた末は、いつも同じです。五十子でも、あの陣は持たないと申し上げた。白井でも、いたずらに日を送ってはならないと諫めた。敵が退いた折には、すぐ追うべきだと申した。ですが、皆があれこれ論じるうちに機を逃した。追えば討てた敵がいた。救えた兵がいた。守れた城もあった。今になっても、無念でなりません」
「昔のことだろう」
「昔のことではありません」
道灌の声が強くなりました。
「済んだことでもありません。私は今も考えております。あの時、もう一度強く申し上げていれば。命に背いてでも兵を出していれば。いや、お屋形様が私の言葉を、きちんと聞いてくださっていれば。……私の言い方も悪かったのかもしれません。もっと分かりやすく申し上げるべきだった。けれど、これ以上どう言えば届いたのでしょう」
雨の音が庭へ落ちていました。
道灌は顕定の返事を待たずに続けました。
「私は、お屋形様を深く深くお恨み申し上げております」
近習たちが顔を上げました。
「けれど、恨んでいるから申し上げているのではありません。……いや、恨んでいるからこそ、ここまで申しているのかもしれません。私にも、もう分からないのです。どうでもよいお方なら、これほど言葉を尽くしはしません。何をなさろうと、お好きになさればよいと見限れば済む。けれど私は、お屋形様の御本意に沿いたかった」
「なら、従えばいい」
「従ってまいりました」
道灌は即座に答えました。
「従って、戦って、敵を破り、城を落とし、降人を取りなし、兵を集めてまいりました。父の代から、当家を支えてまいりました。けれど、ただ黙って従うことだけを忠節とおっしゃるなら、私でなくてもいい。間違っておられる時にも黙って従えとおっしゃるなら、私をお使いになる意味はありません」
道灌は、さらに一歩、縁へ近づきました。
「いくさのことなら、私の方が分かっております」
顕定の目が細くなりました。それでも道灌は止まりませんでした。
「自負で申しているのではありません。事実です。お屋形様の周りには、阿り諂う者ばかりで、誰も本当のことを申し上げない。だから私が申すのです。これほど働いた者を取り立てないことは、お屋形様にとっても、お家にとっても……いや、この国にとっても不幸なことです。褒美だけが欲しいのではない。もっとも、欲しくないと言えば嘘になります。働きに見合う扱いは受けたい。私の言葉を、たかが扇谷の家宰の申すことだと退けないでいただきたい」
そこで顕定が、初めてはっきりと口を挟みました。
「それは定正に言えばよいだろう」
道灌は動きを止めました。
「おまえの主は定正だ。弥七郎のことも、毛呂のことも、おまえ自身の処遇も、まず定正に言うべき話ではないのか。なぜ私のところへ来る。おまえは扇谷の家宰だろう。少しは立場をわきまえろ」
道灌はしばらく顕定を見つめました。それから、かすかに笑いました。
「……身分」
「そうだ」
「私は、お屋形様のおためにも働いてまいりました」
「働きを頼んだ覚えはある。だが、おまえを家臣にした覚えはない」
道灌の顔から血の気が引きました。道灌は自分の反応に驚きました。顕定の言葉にこんなに衝撃を受けた自分に――
「……左様でございますか」
絞り出した声は、妙に穏やかでした。
「なら、五十子であっしをお使いになったのは、何だったんでございます。白井で策を求められたのは。敵が迫れば兵を求め、陣が崩れりゃ後始末を命じ、それでも事が済めば、あっしは定正様の家臣で、お屋形様には関わりがねえとおっしゃる」
「関わりがないとは言っていない」
「同じことでございましょう」
「違う」
「何が違うんでございます」
返事を待たず、道灌はまた話し始めました。
「定正様にも、幾度となく申し上げております。それでも足りねえから、ここへ参ったんでございます。いや、定正様に申すべきことと、お屋形様に申すべきことは違う。違うはずなんでさぁ。あっしは、お屋形様に分かっていただきたい。何を、と問われりゃ、うまく申せません。いくさのことだけじゃない。弥七郎のことだけでもない。あっしの功を認めてほしい、それだけでもないんです」
道灌の言葉は、次第に速くなりました。
「あっしは、お屋形様の御本意に沿えなかったことを悔いております。きっと、あっしの心構えが足りなかったんでございましょう。だからお屋形様も、こんな血も涙もない扱いをなさる。そういうことでございましょうよ。けれど、あっしの献策を退けなすったことは、恨んでおります。忠節は尽くしました。それでも、報われちゃいない。報いを求めるのが浅ましいってんなら、そうです、あっしは浅ましい人間でさぁ。ですが、あっしを取り立てねえことは、お家のためにも国のためにもならない。自分のためだけに申してるんじゃございません。……いや、自分のためでもあります。それの何が悪いんでございます。これだけ働いて働いて、自分のために何一つ求めちゃならねえんですか」
顕定は黙っていました。道灌は、もはや紙束を見ることもありませんでした。
「お屋形様は、あっしの功を認めてるとおっしゃる。なら、なぜあっしの言葉をお聞きにならねえんです。耳も貸してくださらねえんなら、いったい何を認めておられるんでございます。いくさに勝ったことだけですか。城を落としたことだけですか。あっしが何を考えて、どうしてああして、こうしてきたのかは、どうでもいいんでございますか」
一つの訴えが終わる前に、別の訴えが始まりました。弥七郎の出仕へ戻り、毛呂の所領へ飛び、五十子の敗戦を語り、父の功を持ち出し、また自分の登用へ戻りました。
言い方を変えても、訴えは同じところへ戻りました。
聞いていただきたい。
いや、分かってほしい。
違う、認めてほしい。
恨んでいる。
それでも、見限りたくはない。
道灌自身、どの言葉が本心で、どれがその場の勢いなのか、もう分かってはいませんでした。
「あっしは……お屋形様に、何をしていただきてえんでしょう。弥七郎を赦していただきたい。降人の所領を安堵していただきたい。あっしの献策を聞き入れていただきたい。あっしを取り立てていただきたい。……それで足りるんでございましょうか。たぶん、足りねえんです。まだ何かが欠けてる。みんな叶っても、あっしはまた、別のことを申し上げるんでございましょう」
顕定は道灌を見下ろしていました。
「道灌」
「分かっていただきてえんでさぁ」
「何をだ」
道灌は口を開きました。けれど、言葉は出ませんでした。
顕定はあらためて道灌に聞きました。
「おまえが何を言いたいのか、私にはさっぱり分からない。分かってほしいことがあるなら、きちんと言え」
長い長い沈黙の後、道灌は笑いました。泣き出す寸前のような、壊れた笑いでした。
「ふ、ふふ……」
静かな夜半の庭に道灌の笑い声だけが響きました。
「それが……それが分からねえから! これほど、これほど申し上げてるんでさぁ!」
静寂でした。
松明の弾ける音だけが響きました。
顕定はため息をつき、道灌の手から紙束を取りました。道灌は一瞬、奪い返そうとするように指へ力を込めましたが、すぐに手を離しました。
「……読めばよいのだな。読めば、おまえは納得するのか」
「分かりません」
「まったく、面倒な男だ」
「へえ。あっしも、そう思いますよ」
顕定は紙束を持ったまま、奥へ戻りました。
板戸が閉じた後も、道灌はしばらく庭に膝をついていました。
何一つ解決してはいませんでした。弥七郎が赦されたわけでも、所領の裁許が改まったわけでも、道灌が取り立てられたわけでもありません。それでも顕定が紙束を受け取ったという、その一事だけで、道灌はようやく立ち上がりました。
定正ではなく、顕定でなければならなかったのでした。
『太田道灌状』には偽書説がありますが、内容は研究上もしばしば参照されています。本作は史料の真偽を論じるものではなく、そこに描かれた道灌の訴えの切実さを創作化したものです。
悲劇の名将として有名な太田道灌、史料を読むと上杉顕定への感情が重すぎる。




