黒百合の令嬢
王都の北に,夜になると鐘の音が沈む屋敷があった.
エルゼ・グラナート公爵令嬢は,その屋敷で育った.黒い髪,白い肌,笑わぬ唇.舞踏会では「黒百合」と呼ばれ,礼拝堂では「忌み子」と囁かれた.
彼女が十六になる年,王太子アルヴィンとの婚約が決まった.
それは栄誉ではなかった.王家は公爵家の軍を欲し,公爵家は王家の血を欲した.ただそれだけの,冷えた契約だった.
だが王太子は,春のような娘を愛した.
名をリリアという.下級貴族の娘で,栗色の髪と柔らかな声を持ち,誰にでも微笑んだ.彼女が笑うと庭の小鳥が近づき,彼女が泣くと侍女たちが涙ぐんだ.
人々は言った.
「あの方こそ,王妃にふさわしい」
「エルゼ様は,あまりに恐ろしい」
噂はやがて形を得た.
エルゼがリリアの茶に毒を入れた.
エルゼが階段でリリアを突き落とそうとした.
エルゼが呪術師を雇い,リリアを呪った.
どれも事実ではなかった.
だが,事実でないことは,無実を意味しない.
エルゼはリリアを憎んでいた.王太子を奪われたからではない.自分が決して持てなかったものを,リリアが何の代償もなく持っていたからだ.愛される声.許される涙.守られる弱さ.
エルゼは泣かなかった.泣けば父に鞭で打たれた.笑わなかった.笑えば母に「媚びている」と言われた.失敗すれば罰せられ,成功すれば当然とされた.
彼女は正しくあろうとした.
正しさだけが,彼女に許された装飾だった.
断罪の日は,王宮の白い広間で訪れた.
王太子はリリアの手を取り,エルゼを見た.その目に,かつて婚約者へ向けるべき敬意の残滓すらなかった.
「エルゼ・グラナート.お前との婚約を破棄する」
広間がざわめいた.
「リリアへの数々の嫌がらせ,毒殺未遂,呪詛の依頼.証人はそろっている」
証人たちは順に進み出た.侍女,料理番,庭師,神官.誰もが怯えた顔で,しかし確かにエルゼを指した.
エルゼは彼らを眺めた.
不思議なほど,腹は立たなかった.
彼らの怯えは本物だった.彼らは嘘をついているのではない.嘘を信じているのだ.人は,恐れる相手になら,どんな罪でも着せられる.その方が世界はわかりやすい.
「何か申し開きはあるか」
王太子が言った.
エルゼはゆっくりと膝を折った.広間にいる者たちが息を呑む.彼女が頭を下げるなど,誰も想像していなかったのだろう.
「ございます」
声は静かだった.
「私はリリア様を毒殺しようとはしておりません.階段から突き落としてもおりません.呪詛も依頼しておりません」
リリアが震える声で言った.
「では,なぜ私は何度も怖い目に遭ったのですか」
「それは,あなたが王妃になる方だからです」
広間が凍った.
エルゼは顔を上げた.
「王妃になる者は,常に狙われます.毒も,罠も,呪いも,裏切りも.私はそれを,あなたに教えただけです」
リリアの顔から血の気が引いた.
「では,あれは……」
「本物の毒ではありません.階段の手すりには細工しましたが,落ちても死なぬ角度にしてあります.呪術師に頼んだのは呪いではなく,呪いを受けた時の症状を似せる香です」
王太子が怒鳴った.
「狂っている!」
「はい」
エルゼは即答した.
「私は狂っております.この国の王妃教育とは,そういうものです」
誰も言葉を発しなかった.
王家に嫁ぐ娘は,幼い頃から毒を舌にのせられる.痛みに耐え,睡眠を削り,微笑みながら敵を数えることを教えられる.慈悲を示す時も,その結果失われる兵の数を計算しなければならない.
エルゼはそのすべてを学んだ.
リリアは何も知らなかった.
「殿下」
エルゼは王太子を見た.
「あなたは彼女を愛しておられる.ならば,彼女を王妃になどしてはいけなかった」
王太子の唇が震えた.
「黙れ」
「王妃とは,愛される女ではありません.憎まれても国を残す女です」
その時,広間の扉が開いた.
入ってきたのは王妃だった.老いた女ではない.だが,その顔には年齢ではなく,積もった冬のような疲れがあった.
王妃はエルゼを見た.
「もうよい,グラナートの娘」
エルゼは頭を下げた.
「御意」
王太子が愕然とした。
「母上……?」
王妃は息子を見なかった.
「この試験は失敗です」
リリアが小さく悲鳴を上げた.
王妃は淡々と告げた.
「リリア嬢は王妃に耐えられません.殿下もまた,王たる器ではありません.愛を守るために国を誤る者は,愛すら守れぬ」
王太子は蒼白になった.
「では,エルゼは……」
「王妃候補としては合格です」
広間に,低いざわめきが広がった.
エルゼは目を伏せた.
合格.
その言葉は,祝福ではなく判決だった.
王妃が近づき,エルゼの前に立つ.
「お前は,あの娘を殺さなかった」
「殺せば,試験になりません」
「それだけか」
エルゼは少しだけ沈黙した.
そして言った.
「……あの方は,私がなれなかったものです」
王妃の目が,わずかに揺れた.
「そうか」
その夜,王太子は継承権を剥奪された.リリアは修道院へ送られた.表向きには病気療養とされた.
エルゼは,第二王子との婚約を命じられた.
第二王子はまだ十二歳だった.賢く,病弱で,母の背後に隠れる癖のある少年だった.彼は初めてエルゼに会った時,震えながら尋ねた.
「あなたは,僕にも毒を飲ませますか」
エルゼは考えた.
「必要であれば」
少年は泣きそうな顔をした.
エルゼはその顔を見て,ふと,遠い昔の自分を思い出した.泣けば罰せられることをまだ知らない,弱く,愚かで,柔らかな子ども.
「ですが」
彼女は膝を折り,少年と目の高さを合わせた.
「最初に教えるのは,毒の避け方です」
少年は瞬きをした.
「避けられるのですか」
「ええ」
エルゼは初めて,ほんの少しだけ微笑んだ.
「すべてを飲み込む必要はありません」
窓の外で,夜の鐘が鳴った.
王都の北の屋敷では,その音はいつも沈んで聞こえた.けれど王宮の塔から響く鐘は,高く,冷たく,どこまでも遠くへ渡っていく.
エルゼは知っていた.
自分は物語の悪役なのだろう.誰かの春を奪い,誰かの恋を壊し,誰かの涙を踏み越えて,玉座の傍らに立つ女だ.
だが国とは,春だけでは越せない夜を持つ.
その夜を引き受ける者の名を,人はしばしば悪女と呼ぶ.
エルゼ・グラナートは,その名を拒まなかった.
拒めるほど,彼女はもう,子どもではなかった.




