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悪役令嬢

黒百合の令嬢

作者: くるみ
掲載日:2026/05/06

 王都の北に,夜になると鐘の音が沈む屋敷があった.


 エルゼ・グラナート公爵令嬢は,その屋敷で育った.黒い髪,白い肌,笑わぬ唇.舞踏会では「黒百合」と呼ばれ,礼拝堂では「忌み子」と囁かれた.


 彼女が十六になる年,王太子アルヴィンとの婚約が決まった.

 それは栄誉ではなかった.王家は公爵家の軍を欲し,公爵家は王家の血を欲した.ただそれだけの,冷えた契約だった.


 だが王太子は,春のような娘を愛した.

 名をリリアという.下級貴族の娘で,栗色の髪と柔らかな声を持ち,誰にでも微笑んだ.彼女が笑うと庭の小鳥が近づき,彼女が泣くと侍女たちが涙ぐんだ.

 人々は言った.


「あの方こそ,王妃にふさわしい」

「エルゼ様は,あまりに恐ろしい」


 噂はやがて形を得た.


 エルゼがリリアの茶に毒を入れた.

 エルゼが階段でリリアを突き落とそうとした.

 エルゼが呪術師を雇い,リリアを呪った.


 どれも事実ではなかった.

 だが,事実でないことは,無実を意味しない.


 エルゼはリリアを憎んでいた.王太子を奪われたからではない.自分が決して持てなかったものを,リリアが何の代償もなく持っていたからだ.愛される声.許される涙.守られる弱さ.


 エルゼは泣かなかった.泣けば父に鞭で打たれた.笑わなかった.笑えば母に「媚びている」と言われた.失敗すれば罰せられ,成功すれば当然とされた.


 彼女は正しくあろうとした.

 正しさだけが,彼女に許された装飾だった.


 断罪の日は,王宮の白い広間で訪れた.

 王太子はリリアの手を取り,エルゼを見た.その目に,かつて婚約者へ向けるべき敬意の残滓すらなかった.


「エルゼ・グラナート.お前との婚約を破棄する」

 広間がざわめいた.

「リリアへの数々の嫌がらせ,毒殺未遂,呪詛の依頼.証人はそろっている」


 証人たちは順に進み出た.侍女,料理番,庭師,神官.誰もが怯えた顔で,しかし確かにエルゼを指した.

 エルゼは彼らを眺めた.


 不思議なほど,腹は立たなかった.

 彼らの怯えは本物だった.彼らは嘘をついているのではない.嘘を信じているのだ.人は,恐れる相手になら,どんな罪でも着せられる.その方が世界はわかりやすい.


「何か申し開きはあるか」

 王太子が言った.

 エルゼはゆっくりと膝を折った.広間にいる者たちが息を呑む.彼女が頭を下げるなど,誰も想像していなかったのだろう.


「ございます」


 声は静かだった.


「私はリリア様を毒殺しようとはしておりません.階段から突き落としてもおりません.呪詛も依頼しておりません」


 リリアが震える声で言った.


「では,なぜ私は何度も怖い目に遭ったのですか」


「それは,あなたが王妃になる方だからです」


 広間が凍った.

 エルゼは顔を上げた.


「王妃になる者は,常に狙われます.毒も,罠も,呪いも,裏切りも.私はそれを,あなたに教えただけです」


 リリアの顔から血の気が引いた.


「では,あれは……」


「本物の毒ではありません.階段の手すりには細工しましたが,落ちても死なぬ角度にしてあります.呪術師に頼んだのは呪いではなく,呪いを受けた時の症状を似せる香です」


 王太子が怒鳴った.


「狂っている!」


「はい」


 エルゼは即答した.


「私は狂っております.この国の王妃教育とは,そういうものです」


 誰も言葉を発しなかった.

 王家に嫁ぐ娘は,幼い頃から毒を舌にのせられる.痛みに耐え,睡眠を削り,微笑みながら敵を数えることを教えられる.慈悲を示す時も,その結果失われる兵の数を計算しなければならない.

 エルゼはそのすべてを学んだ.

 リリアは何も知らなかった.


「殿下」


 エルゼは王太子を見た.


「あなたは彼女を愛しておられる.ならば,彼女を王妃になどしてはいけなかった」


 王太子の唇が震えた.


「黙れ」


「王妃とは,愛される女ではありません.憎まれても国を残す女です」


 その時,広間の扉が開いた.

 入ってきたのは王妃だった.老いた女ではない.だが,その顔には年齢ではなく,積もった冬のような疲れがあった.


 王妃はエルゼを見た.


「もうよい,グラナートの娘」


 エルゼは頭を下げた.


「御意」


 王太子が愕然とした。


「母上……?」


 王妃は息子を見なかった.


「この試験は失敗です」


 リリアが小さく悲鳴を上げた.

 王妃は淡々と告げた.


「リリア嬢は王妃に耐えられません.殿下もまた,王たる器ではありません.愛を守るために国を誤る者は,愛すら守れぬ」


 王太子は蒼白になった.


「では,エルゼは……」


「王妃候補としては合格です」


 広間に,低いざわめきが広がった.

 エルゼは目を伏せた.

 合格.

 その言葉は,祝福ではなく判決だった.

 王妃が近づき,エルゼの前に立つ.


「お前は,あの娘を殺さなかった」


「殺せば,試験になりません」


「それだけか」


 エルゼは少しだけ沈黙した.

 そして言った.


「……あの方は,私がなれなかったものです」


 王妃の目が,わずかに揺れた.


「そうか」


 その夜,王太子は継承権を剥奪された.リリアは修道院へ送られた.表向きには病気療養とされた.

 エルゼは,第二王子との婚約を命じられた.


 第二王子はまだ十二歳だった.賢く,病弱で,母の背後に隠れる癖のある少年だった.彼は初めてエルゼに会った時,震えながら尋ねた.


「あなたは,僕にも毒を飲ませますか」


 エルゼは考えた.


「必要であれば」


 少年は泣きそうな顔をした.

 エルゼはその顔を見て,ふと,遠い昔の自分を思い出した.泣けば罰せられることをまだ知らない,弱く,愚かで,柔らかな子ども.


「ですが」


 彼女は膝を折り,少年と目の高さを合わせた.


「最初に教えるのは,毒の避け方です」


 少年は瞬きをした.


「避けられるのですか」


「ええ」


 エルゼは初めて,ほんの少しだけ微笑んだ.


「すべてを飲み込む必要はありません」


 窓の外で,夜の鐘が鳴った.

 王都の北の屋敷では,その音はいつも沈んで聞こえた.けれど王宮の塔から響く鐘は,高く,冷たく,どこまでも遠くへ渡っていく.


 エルゼは知っていた.

 自分は物語の悪役なのだろう.誰かの春を奪い,誰かの恋を壊し,誰かの涙を踏み越えて,玉座の傍らに立つ女だ.


 だが国とは,春だけでは越せない夜を持つ.

 その夜を引き受ける者の名を,人はしばしば悪女と呼ぶ.


 エルゼ・グラナートは,その名を拒まなかった.

 拒めるほど,彼女はもう,子どもではなかった.

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