ファントム、喫茶店へ行く2
「それじゃ、ご馳走様、マスター」と、後から来たのに大貫が先に帰ってしまった。
「ふふ、君には少し甘かったかな。もう一杯どうですか? 付き合ってくれた私からのお礼です」
キウイのサンドイッチは最高に美味しかった。まるで宝石のようなエメラルドグリーンの断面が、見るからに柔らかそうな純白のパンに挟まれている。きめ細やかでしっとりとした食パン、空気をたっぷり含んで軽やかにホイップされた、真っ白なクリーム、そしてみずみずしいキウイ。これが美味しくないはずがない。
美味しい、美味しいのだが、マスターの言う通り、灰島には少し甘く、そして残ったコーヒーでは物足りないのだ。
「いえ、お代はお支払いしますので」
マスターの申し出を断ろうとすると、マスターは首を振る。
「さっきも言ったでしょう? 人の好意は素直に受け取るものですよ」
そう言われては、断る理由が見つからず、灰島はまた「……いただきます」と答えるしかなかった。
「もし良かったら、大貫さんの問題、なんとかなりませんか?」
「はい?」と聞き返すと、マスターは淹れたてのコーヒーをすっと差し出す。
「大貫さん、お子さんも遠くに住んでてね。多分誰にも相談できなかったんじゃないかな」
灰島は、揺れるコーヒーを見つめて、それからマスターに視線を向けた。
「そういうことは役場なり警察なりに任せるべきでは? 僕ではなんの助けにもなりません」
実際、何が問題なのかはもう分かっている。だからこそ、先ほど述べた場所に苦情を伝えればなんとかなるはずだ。そう思ったのに、マスターはまたも首を振った。
「この世の中、年寄りの意見は通りにくいものなのですよ。役場の人間が来ても、近くをぐるっと回って『問題ありませんでした』くらいで終わるでしょうね」
「……」
マスターの言ってることにも納得できる。確かに、かなりの騒音であれば効果はあるかもしれない。家がゴミ屋敷で前を通るだけで異臭を放っているなら、これもすぐに何かしらの対応をしてくれるかもしれない。
けれど、音は生活音ではあるし、人の出入りを禁止なんてこともできない。異臭がするといっても、腐臭や明らかな異臭でない限り、『青臭い』程度では家庭菜園だって苦情の対象だ。
「これもご近所に住んだ縁ですよ」
「え?」と聞き返すと、マスターはにこりと笑う。が、灰島は逆に身構えた。マスターにはこの自分の名前はおろか、初めて入った店だ。しかも灰島の記憶にマスターの顔は無い。なのに、何故彼は灰島が大貫の近所に住んでることを知っているのか?
「玲奈に言われてここに来たのでしょう? 玲奈は私の孫娘なんですよ」
からくりが全て解けて、灰島はスッと肩の力を抜いた。
なるほど、彼女から灰島の情報は伝わっていたのだろう。大家の孫だから、もしかしたらマスターはあのアパートに──。
「あぁ、言っておきますが、あのアパートは玲奈の父方の祖母。私は母方の祖父だから、そうでしたね。名前を名乗らないと」
マスターが一枚の名刺を灰島に差し出した。
『喫茶店 セグレト マスター 音無惣一』
「音無と言います。うちの玲奈がお世話になります」
「あ、いえ。お世話になるのは俺の方で……」
そこまで言って、自分は名刺を持っていないことに気が付いた。
「すみません。灰島平太と申します。が、今は就活中で名刺を持っていないんです」
「いいんですよ、そうですか、就活中でしたか」
はい、と答えながら淹れてもらったコーヒーを口に運ぶ。先ほどとは違う味にピクリと眉を動かせば、マスターは「わかりましたか」と微笑む。
分からないはずがない、先ほどとは対照的な、スモーキーで、どこか湿った土やカカオを思わせる、重厚な香りが立ち込める。差し出されたカップの中身は、光を一切通さない、まさしく闇。 酸味はほとんど感じない。代わりに舌を支配したのは、シロップのようにとろりとした、濃厚な質感。大地の力強さを思わせる複雑な苦味と、それを縁取るダークチョコレートのような甘さ。後味は驚くほど長く、口の中に心地よい重みを残していく。
「スマトラ・マンデリン、ですか?」
灰島がそう答えると、マスターはさらに大きな笑みで「えぇ」と返す。
「スマトラ・マンデリンの深煎りです。いや、さすがですね」
純粋な誉め言葉に、なんとなく照れる灰島。くすぐったい何かが、彼の心臓をくすぐる。
「またお越しください」
帰り際、そう言われ、灰島は躊躇くことなく「はい」と答えた。




