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ファントム、喫茶店へ行く1

 足を止め、彼は今朝のことを思い出した。


「……コーヒー、いいかもしれん」


 紅林玲奈に教えてもらった喫茶店を目指して、灰島はまた歩き出す。


 ランニングでは走らなかった狭い路地、その路地を認識はしていたがその先までは確認していなかった。


 玲奈が教えてくれた喫茶店の名前は「セグレト」。これはイタリア語で「秘密」という意味だ。確かに狭い路地の奥にある喫茶店に相応しい名前かもしれない。そう思いながら、灰島は店のドアを開いた。


 カラーン……


 昭和の喫茶店で見かけたような、古びた呼び鈴が来客を告げる。


「……いらっしゃい。お好きな席にお座りください」


 カウンターの向こうから、マスターと思われる老紳士が声をかけた。


 年は70くらい、身長160センチで痩せ型、この年代からすると標準より少し小柄だろう。けれど真っ白なシャツに蝶ネクタイ、ピシッとアイロンのかけられたスラックスから、彼の仕事に対する誠実さが滲み出ている。


 灰島は言われた通り、自分で席を決めようとしたが、『お好きな席へ』と言われて、脚が止まってしまった。


 窓に近い方が景色がいいだろうか? いや、窓付近は狙われやすいからダメだ。なら、奥の席か? いや、そうなるといざという時、逃走ルートが確保できなくなる。ならば中央か? 今は客がいないからいいが、周りを囲まれるのは落ち着かないし、やはり身動きが取りにくい。


 そんなことを悩んでいると、マスターが手招きをする。


「よろしければ、カウンター席へどうぞ」


 マスターは口元に静かな笑みをたたえながら、ネルドリップの準備をしていた。


「ブレンドは3種。おすすめはグアテマラの中煎りです。少し変わった焙煎でしてね」


 灰島は黙って頷き、カウンター席に腰を下ろした。


 焙煎は深くない。が、やや長め。その細かさに、思わず息を整えた。


 ……炭酸のようなガス抜き。敢えて2日目の豆……?


「ええ、鋭いですね。今日のこれは“二日寝かせ”。少し甘さが乗ってきます」


 言葉に出したわけではない。だがマスターは、まるで彼の思考を読んだかのように答えた。


 ネルを温める動作すら美しい。布の締め具合、湯の温度、回しかた――全てに意図があった。


 お湯は95℃。一投目で蒸らしきらず、細く、時計回りに落としていく。


 灰島の視線が釘付けになる。


 重心を低く保ち、手首の柔らかさで制御……。なんと無駄のない動きだろうか。


 一杯のカップが目の前に差し出される。口に含むと、滑らかな酸味と、控えめなカラメルの甘さ。そして、後味にほのかに残るナッツ。


「……この抽出で、この甘みを残すのは並大抵じゃない」


 珍しく、灰島が言葉を漏らすと、マスターは笑みを深めた。


「やっぱり、只者じゃなかったですね」


 その言葉に灰島はいつでも行動できるよう身構えるが、マスターは笑みを浮かべたまま。


「絶対にあなたはコーヒー好きだと思ったのです。良かった、この味を理解してくださる方で」


 そう言われ少し拍子抜けしたが、灰島は「いえ、好きというわけでは」と首を振った。


「少しだけその製法に興味があっただけで……」


「それだけお詳しければ、それは好きと言う意味ですよ」


 くすぐったい言葉に、少しだけ居心地が悪そうな顔をすると、「それではどうぞごゆっくり」と、マスターはカウンター内の道具を丁寧に手入れを始めた。


 その所作が、たまに聞こえる食器の音が心地よく、灰島は言われるままにコーヒーを堪能することにした。


 カラーンと鈴が鳴り、来客を告げる。


「いらっしゃい、大貫さん」


 その名前に、灰島はわずかに視線を来店した客にやった。『大貫』はつい先日回覧板を回したご近所さんだ。


 大貫は灰島から2つ離れたカウンター席に座るなり、大きくため息をついた。


「どうしたのですか? 目の下にクマ飼って」


 マスターの声に横を見ると、大貫は目にクマをつけてもう一度ため息を落とした。


「それがさ、マスター。うちの裏の空き家に若い子が入ってきたんだけど……」


 大貫家の裏には、築40年ほどの二階建て一軒家が建っている。そこに友達とシェアしたいという若者が入居したらしい。


 大家はこの近所には住んでいないらしく、灰島も世話になった不動産屋に丸投げ状態。仲介料を払う分、いつまでも空き家よりは、と思い若者の提案を受け入れて今に至るのだという。


「一体何人でシェアしてるのか知らないけどさ、四六時中、人の出入りがあって落ち着かないんだよね。真夜中でも車で出入りがあってさぁ」


「そりゃ落ち着いて寝ていられませんね。そんな煩いのですか?」


 そう聞くと、大貫は首を横に振る。


「酒飲んで大騒ぎするなら怒鳴り込もうと思ってるんだけど、ただ出入りするドアの開け閉め音や、車のエンジン音がね。それじゃ、文句も言えないよ」


 生活音だけで騒音とは言い難く、訴えられないと大貫はこぼす。


「誰に会っても挨拶もないし、しかもずっと部屋はカーテンで締め切ってるし、きみが悪いよ。それにエアコンは24時間運転してて、裏庭に出るとなんだか変な匂いまでするんだよね」


 大貫が話す状況に、灰島は眉をぴくりと動かした。


「へぇ、ペットでも飼っているんですかね」


 誘導するかのようなマスターの相槌に、大貫は「うーん」と唸る。


「動物臭じゃ無いなぁ。知り合いが犬を飼ってたけどあれとは違うよ。そもそも鳴き声なんて聞こえないしね。臭いは、そうだなぁ、なんだか青臭いというかさぁ」


 その発言に、灰島は確信した。


「それは困りましたね。どこに相談したものか……」


 マスターの言葉に、「だよねぇ」と大貫もカウンターに頬杖をついた。


「ま、今はコーヒーでも飲んで落ち着いてください。なにか食べますか?」


「そうだねぇ」と、大貫は常連らしく「じゃ、いつもので」と頼むと、彼の前にはフルーツサンドが出てきた。


「これ、多いから一つ上げるよ」


「え?」と驚く灰島に、大貫は「いいから」とキウイの挟まれたサンドイッチを差し出した。


「初めて見る顔だね。今日は休みかなにかかい? 休みの日はね、美味しいものを食べるべきだよ」


「あ、いえ、でも──」と断ろうとする灰島に、「もらってください」と間に入ったのはマスター。


「人の好意はね、素直に受けるものですよ。そしてあなたもその好意を誰かにしてあげればいい。それで世の中回るんだから」


 マスターがそう言うと、大貫は笑う。


「そんなたいそうなもんじゃないよ。この間、病院の先生に甘いものは控えるようにって言われてね。でも食べたいものは食べたいだろ? でもちょっとだけ控えたい。けど、こんな美味しいサンドイッチを残すのは勿体ないじゃないか」


「そう言ってもらえて嬉しいですねぇ。というわけで」


 ずいっと目の前に置かれて、灰島は仕方なく「……いただきます」とフルーツサンドをいただくことにした。

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