ファントム、コーヒーを飲む1
注射器の先から、空気を追い出す。その注射器は、シザーの首元に打たれた。
「これで24時間はぐっすりだ」
瀬尾はそう言って、にやりと笑った。
ここはマスターの隠れ家の一つで、彼はいつもとは違う、簡易的なハンドミルでコーヒー豆を挽いていた。
床には、結束バンドで両手両足を縛られたシザーが、意識を失ったまま倒れていた。
そして、コクチョウのエージェント3人と、AEGISの生体キーであったユキ、そして忍者の末裔である玲奈。この奇妙な空間で、ユキは灰島を見た。
「ちょっと、聞いてもいい?」
コーヒーの芳醇な香りが、部屋を満たす。その静寂を破ったのはユキだった。彼女の視線は、まっすぐに灰島へと向けられていた。
「一番、不思議だったこと。どうして、私が灰島さんの見ているものを見られるようになったの?」
灰島がMI6に拘束され、絶望していたあの時いったい何が起きたのか? 灰島は、カップを静かに置くと答える代わりに、顎でもう一人の男を指し示した。
「……こいつに聞け」
全員の視線が、まるで悪戯が成功した子供のようにニヤリと笑っている瀬尾へと集まる。
「元々、こいつがMI6につかまったのは作戦だったのは分かるよね?」
そうしないと、欲しい情報が得られない状況だったのは理解できるから、ユキも頷く。
「で、そこで得た情報をどうやって入手するか。聞いたところで答えてくれる優しいマダムではないから盗むしかない。というわけで、こいつの目にカメラ機能付きのコンタクトを仕込んだ。起動条件は、こいつの意識レベルが一定以上、下がること」
瀬尾の話に、ユキも玲奈も息をのんだ。
「そう、だから必要以上の自白剤を打った。その反対の手で、中和剤を打ちながらね」
瀬尾は、まるで簡単な手品でもやってのけたかのように、肩をすくめた。
「え? あの時!? 完全に瀬尾さん、裏切ったと思ったのに!!」
声をあげる玲奈に、瀬尾は「うんうん、俺って役者だねぇ」と、暢気にコーヒーを口にする。
その隣で黙って話を聞いていたユキが、静かに質問した。
「……でも、待って。どうやってその映像を、外に送ったの? MI6の施設なのよ? そんな簡単に電波なんて通さないはずだわ」
ユキの指摘はもっともだった。どんな高性能なカメラも、信号を送れなければ、ただのガラクタだ。 その問いに、瀬尾はニヤリと笑うとユキを見た。
「そこがこの作戦の、本当の『賭け』だったのさ」
彼は、コーヒーを一口すすると、続けた。
「そのコンタクトレンズは、ただのカメラじゃない。神崎博士が、個人的に開発していた、試作品の『量子通信インターフェース』だ」
「量子……?」
「ああ。普通の電波じゃない。理論上、どんな電波妨害も受けずに、情報を送ることができる特殊な通信だ。だが、それには一つ大きな問題があった」
瀬尾は、ゆっくりとユキを指さした。
「そのありえない信号を受信できる『アンテナ』が、この地球上に、ただの一つしか存在しなかったんだよ」
「あ……」
ユキは、全てを理解した。
「そう。神崎博士の最高傑作である、君の『脳』だけが、その信号を受信できる唯一の受信機だった。コクチョウでは使い道は無いけど、今回は大いに役に立ってくれたってわけ」
瀬尾がコーヒーをすすりながら得意げに話すと、ユキはカフェオレを口に運びながら静かに「そうだったのね……」と微笑んだ。




