ファントム、立ち上がる8
「すまなかった。私は、君を世界の『鍵』にすれば、世界が君を守ってくれると信じていた。だが、人間の欲望は、私の想像を、遥かに超えていたようだ」
彼は、まるでそこにいるかのように、ユキの頭に、そっと手を伸ばすような仕草をした。
「これは、ユキ、君に異常が起きた時のみ起動するようにプログラムした。つまり、君に良くないことが起きたんだね……」
懐かしい父親の声。だが、ゆっくりと感傷に浸っている場合ではない。
「あ、あのね! 今、外では大変なの! だからっ」
これは博士の作り出したAIだ。それが分かっているのに、彼の人差し指がユキの唇に触れて、言葉を止めてしまった。
「ここは量子空間。簡単に言うと、ここでの1時間は現実では1分にも満たない。だから、落ち着いて話してごらん」
処理速度の違いから、時間の流れが違うのだ。それをユキも理解してコクリと頷くと、神崎博士はにこりと笑った。
それから、ユキは自分の身に起こったことを彼に話し始めた。
コクチョウに保護され、神崎博士は殺害されたこと。それからは、ずっとコクチョウに保護されていたが、息の詰まるような生活。
そして、神崎博士の助手であり、コクチョウのエージェントによる裏切りと、ここまでに至った経緯。
「全く、私が彼をコピーしたAIだからこうして落ち着いているけれど、本人が聞いたらかなりヒステリックに喚いただろね」
生前の彼を知っている。まるで子供の様に未知の世界を作り上げた彼は、どこまでも純粋でまっすぐで、感情をあらわにする人だった。
「そうね、でも、年を取ったら今のパパみたいになったのかも」
これは想像でしかない、親子の会話。いや、彼とは遺伝子上、何の関係もないし、しかもこれは現実ですらないけれど、ユキには満たされる何かがあった。
「ユキ、君はどうしたい?」
「……」
そんなことを考えても仕方ない、そう思いながらも何度となく考えてきた。どうしたいのか、何がしたいのか、どうすればいいのか──。
「自由に、なりたい」
「分かった」
即座に返ってくる言葉に、ユキは神崎博士を見上げた。
「分かった? 何言ってるの! そんなことしたら世界がっ」
「私は、世界よりも娘を取るよ。それに、永遠にアップデートし続けるプログラムは存在しない。それに、いまだAEGISに依存しているとは、世界も案外愚鈍だ。」
神崎博士は少し呆れたように、しかし、どこまでも優しく言った。
「AEGISは私が作った。ならば、終わらせるのも私の役目だ。そして、その最後の引き金を引くのは、お前だよ、ユキ」
神崎博士は、ユキの目の前に、一つの光り輝くスイッチを差し出した。
「この『サンセット・プロトコル』を実行すれば、AEGISは全ての進化と外部生体キーとのリンクを永久に停止する。自己修復機能も失い、ただの巨大なデータの『墓標』となるだろう。二度と、君を苦しめることはない」
ユキは頷いた。 彼女は震える指で、その光のスイッチへと、そっと触れた。
「ありがとう、パパ」
「あと、一つだけ」
まるでホログラムのような彼の姿に、ノイズが混じる。
「私が頼んだんだ。彼に、私を殺すよう」
「……」
生体キーが入手できなくても、新しいキーを作ればいい。それを作った神崎ならば、それが可能だと、誰もがそう思うだろう。
「私がいると、ユキ、君が危ない目に合うから」
「……うん」
「それに、ユキは二人もいらないからね」
「……うん」
ゆっくりと、彼の輪郭が曖昧になっていく。
「この裏プログラムも、全部消えるけど、ユキ。君だけは消えない。それが私の──」
彼の姿はただのデジタルデータとなり、光の中に消えていく。
そして、この仮想空間には、ユキだけになってしまった。




