ファントム、隣人を知る
当分、瀬尾の監視は続くのだろう。確かに今はまだ有休消化中で『コクチョウ』に身を置く状態なのだから仕方ない。そう考えながら灰島はアパートに戻ってきた。
部屋の前、撒いたはずの砂が動いている。彼はドアの取っ手に手をかけた状態で辺りを警戒するが、気になる気配はない。瀬尾だろうか? いや、それならさっき伝えてきたはず──。
「おはよう!」
「──っ、おはよう、ございます」
突然背後を取られたことにも驚いたが、いきなりかけられる挨拶にも驚いた。それでも何とか平静を装い挨拶を返す灰島に、挨拶した彼女はニカっと笑った。
「あはは、驚いたでしょ? 私、気配を消すの得意なの!」
「それは素晴らしい特技、ですね」
気配を消す、というのは特技になるのだろうか? いや、ある意味、この男の背後を取れたのだから、かなりの手練れ、ということになるのだが、目の前の彼女からは悪意も殺意も感じられない。
「でしょ? みんな驚くんだよね。この間なんて、2階のお爺ちゃん、心臓止まっちゃってさ」
そう言って笑うのだが、これは笑い話なのだろうか?
彼女は恐らく10代後半、長い黒髪は160センチ程度の彼女の腰まで伸びている。大きな目は興味津々に灰島を観察し、メイクらしいメイクはしていないが、リップだけを塗った艶やかな唇が半月を描く。
「砂は掃いたから。私、ここの管理人の孫なの。で、朝はここの清掃のバイトしてるの」
「そうですか。ありが」
「もう砂、撒かないでね」
「……撒いていませんよ。子供のいたずらか何かでしょう」
警戒する色も見せずに返すと、彼女は「そ?」と言いながら手に持った箒で、すいっと二人の間を掃いた。
「私、紅林 玲奈 。よろしくね、灰島さん」
管理人の孫なら、しかもここの清掃を任されているのなら名前を知っていてもおかしくはないだろう。だから、灰島もにこりと笑って軽く頭を下げる。
「こちらこそ、ご挨拶が遅れました。後ほど改めて挨拶いたしますが、まずはよろしくお願いいたします」
これからお世話になるのだ、挨拶は重要だろう。
「あー、うん。お隣はおばあちゃんなんだけど入院中だから挨拶はいらないですよ。その隣はチャラいホスト崩れなんで昼間に挨拶したら怒鳴られるから。その隣に大学生男子がすんでるけど、これまた挨拶はいらないかな? いつ家にいるか分からないくらい帰って来ないし。灰島さんの2階には誰も住んでないし、その隣はこの間死にかけたお爺ちゃん。ちょっと頑固だから挨拶しても無視されちゃうかも。その隣は看護婦さんで、これまたいつが日勤か分かんないんだよね。で、その隣が私」
このアパートは小さいながらもエントランスがある。そのエントランスから一番近いのが管理人の部屋だろう。管理人といっても、窓があるわけでもなく、繋がるのはインターフォンだけ。その前を過ぎると2階に続く階段があり、その奥に1階住居が3戸並び、2階住居は4戸ある。1階には小さいながらも庭があり、2階にはベランダがある。防犯的には、庭は無い方がいいのだろうが、ちゃんとフェンスも用意され普通に住むには問題ないだろう。
そして、ここの住民を一気に説明され、灰島は「そうですか」とそれを記憶した。
「分かりました、折を見てご挨拶します。会えなければ気持ちだけ玄関前に置かせてもらいます」
都会ではないとはいえ、人との付き合いが希薄な現代、こんなのは珍しくもなんともない。寧ろ無関心の方が心地よいというものだ。
「うん、それでいいと思う、あ、これ回覧板ね」
「回覧板……」
もはや絶滅危惧されているのでは? 思えるような回覧板が灰島の手に渡った。
「ほら、人付き合いは稀薄でも情報は共有しなきゃでしょ? でもみんなとライン交換なんて絶対スルーされそうだし、なんでこれだけは回してるの」
「なるほど」
携帯の情報をむやみに渡すよりは安全、と言えるかもしれない。
「それで、これはどこに渡せば」
「あ、そっか。えっと、灰島さんは一番最後になっちゃうから、表の道路の向かい側に『大貫』さんて家があるの。読んでサインしたら、そこのポストに入れてもらえる?」
すべて了承し、紅林と別れた。
部屋に入り回覧板を開く。そこにあるプリントには『月末ゴミ拾いキャンペーンについて』や、『会費からの寄付のお知らせ』など、『普通』のお知らせばかりだった。
そういえば、と部屋を見渡せば殺風景以外の何物でもない。
「回覧板を回すついでに、買い物に行くか」
誰に言うでもなく、そう呟くと回覧板にサインしてまた部屋を出て行った。
彼女に言われた通り、『大貫』とかかれた表札のある家の新聞受けに回覧板を音も立てずに落とした。
それから、街に向かって歩き始める。まずは電化製品が必須だろう。まずは照明、エアコンに電子レンジ、IHコンロに洗濯機に掃除機、このあたりは『普通』の家なら必ずあるものだろう。PCは専門店でスペックの高いものを選ばねば。
そんなことを考えながら、一人暮らし用のセットを見つけ立ち止まった。
「……これで十分だな」
そもそも、最高級の家電は必要ない。これまで家電の無い生活でも困ったことはないのだから。
それからホームセンターに向かった。備え付けのクローゼットは確認済みなので、箪笥等の家具は必要ない。けれど、ベッドくらいは必要だろうと店内を歩いていると、『安眠』の文字に彼の足が止まった。
「いいな……」
湿った地面でもなく、固い床板の上でもない、『安眠』出来るスプリングの上で眠れる高揚感に、彼は「これをください」と即決した。
その後、日用雑貨を買い集め両手に荷物を抱える。
「……これでは咄嗟の時に」
対応できない、と思ったがその考えに彼は笑った。
もう、自分に『咄嗟の出来事』などは起きない。だから両手に荷物をもって歩いても、なんの問題もないのだ。
「帰るか」
そう、帰る家がある。その事実に彼はわずかに口の端を上げて、あのアパートに向かって歩き出した。




