ファントム、作戦開始【フェーズ2:奈落(アビス)のオークション】 3
隠れ家では、瀬尾が興奮したように叫んでいた。
「おいおい、ファントム! 英露のガチ喧嘩になってきたぞ! どっちも国の存亡を賭けてやがる!」
だが、超大国の争いを、もう一つの超大国が黙って見ているはずがなかった。それまで静観を決め込んでいたアメリカが、ついにオークションのテーブルに着いたのだ。アメリカの狙いは、英露の争いを鎮めることでも、レシピを手に入れることでもない。この混沌とした場を、自国の利益のために支配することだった。
アメリカが『タルタロス』に、中東の砂漠へ向けて爆弾級の入札を投下した。
【入札者:Central Intelligence Agency】
【イランの極秘核開発疑惑に関する決定的証拠について。ナタンズ近郊に存在する、未申告の地下ウラン濃縮施設の詳細な衛星写真と、内部構造の設計図の一部】
「これは……!」
マスターが目を見開く。この情報に最も激しく反応したのは、当然、中東のプレイヤーたちだった。狂信的なテロ組織、そして、イランの核保有を絶対に認められないイスラエルの諜報機関モサドが、堰を切ったようにオークションに参戦する。
【出品者:モサド】
【シリア大統領の極秘の化学兵器貯蔵庫の位置情報】
【出品者:アル=カティーブ旅団】
【サウジアラビアの王族が欧米で行っている背徳的行為の証拠映像】
フランスのDGSE、南米の麻薬カルテル、正体不明のハッカー集団……。 入札ログが滝のように流れ、誰が何を提示しているのか、追いかけることすら困難になっていた。世界のあらゆる悪意と欲望が、この一つのサイトに集約され、互いを食い荒らしている。
「皮肉なものですな」
隠れ家でモニターを眺めながら、マスターが溜息をついた。
「これだけ世界の秘密が暴露され、国家の威信が紙くずのように取引される中で、ただ一つ、ユキくんの『レシピ』だけが価値を上げていく」
その事実が、ユキの喉を締め付けた。
暴露合戦で失った国益や軍事的優位性も、この『レシピ』さえ手に入れれば、全てを取り戻し、さらにお釣りがくる。参加者たちの目は、もはや血走っていた。ユキという少女一人の存在が、世界のパワーバランスをリセットする究極のカードと化していた。
「入札期間は3日。すでに2日過ぎたけど、この情報全部手に入れたら、世界に君臨できんじゃね?」
モニターに滝のように流れる入札ログを眺めながら、瀬尾が軽口を叩く。どれも世界をひっくり返すような情報だが、ここまで溢れてくると、多少なりとも感覚が麻痺してくるのも事実だった。
そんな瀬尾に、灰島は「くだらん」と一蹴した。
「他国の機密情報はどうでもいい。これだけの価値があると裏切り者が認識すれば、そろそろ出てくるはずだ」
そう、この作戦の目的は、あくまで隠れている裏切り者を炙り出し、そいつが持つユキに関する情報を奪い、破壊することだ。
「うーん、まだそれらしい動きはないねぇ」
瀬尾が言うと、灰島はモニターから目を離さずに分析を口にした。
「あと、コクチョウが静かだ」
その呟きに、隠れ家の空気が少しだけ緊張する。ユキを管理し、灰島がかつて所属した、日本の影の諜報組織。彼らがこの地獄のオークションを黙って見ているはずがなかった。
「確かに……。これだけの騒ぎです。とっくに何らかのアクションを起こしてきてもいいはずですが」
マスターの問いに、瀬尾が「いや、動けないんだ」と答えた。
「内部から最高機密である『ユキのレシピ』に関する情報が漏洩したんだ。コクチョウの威信は丸潰れ、全員が尋問対象だからね。下手に動けば自分疑われるから動けない」
灰島は、古巣を知っているからこそ「なるほど」と相槌をうった。
「内部調査で身動きが取れない。裏切り者も例外じゃない。だから大きく動けない、ということだな」
「まあ、そのおかげで、こっちも動きやすいんだけどな」と、瀬尾がニヤリと笑いながら付け加えた。
「どういうことです?」
マスターが尋ねると、瀬尾は少し自慢げに言った。
「先日、俺のところにコクチョウの『上』から連絡があってな。ご大層な『確約書』を渡されたのよ」
「確約書?」 と聞き返すユキに瀬尾は「あぁ」と答える。
「要約すりゃ、こうだ。『当組織は内部調査に専念するため、外部の脅威への対応は、現在『長期休暇中』のファントムに一任する。彼の作戦行動を、組織は公式に黙認する』だとよ」
その言葉に、ユキと玲奈は顔を見合わせる。 灰島は、静かに補足した。
「俺はまだ、正式には退職していない。『有休消化中』の扱いだ。つまり、これは組織からの暗黙の『命令』でもある。お前たち外部の人間を使い、事を収めろ、と。万が一失敗しても、全ての責任は『有休中の職員』である俺個人の暴走ということになる」
「なるほど……。組織は体面を保ちつつ、厄介事を灰島くんに丸投げした、と。実に、食えない人たちですな」
マスターは呆れたように、しかしどこか感心したように言った。
「それじゃあ、ファントムは……」
ユキが心配そうに灰島を見る。組織にいいように使われているだけではないか、と。 だが、灰島は静かに首を振った。
「問題ない。おかげで、背後から撃たれる心配は当分なくなった。俺たちは、今この瞬間、世界で最も自由に動ける部隊だ」
彼は不敵に笑うと、おもむろに立ち上がった。その目には、反撃の光が宿っていた。




