ファントム、作戦開始【フェーズ1:偽りの福音(ゴスペル)の創造】
隠れ家の空気は、張り詰めていた。作戦の最初の歯車であり、最も重要な部品となる「偽りのレシピ」の創造が始まろうとしていた。主役は、もちろんユキだ。
「……始めるわ」
ユキは、マスターが用意したヘッドセット型のインターフェースを装着し、サーバーと直結された特殊なチェアに深く腰掛けた。彼女の目は閉じられ、長く細い指が、虚空で何かを探るように微かに動いている。
しかし、その表情は苦痛に歪んでいた。自分の設計図を作る。もちろんそれは限りなく本物に近い偽物。だとしても、気分のいいものではない。なにせその作業は、自分が完全に人間ではないことを、否応なく突きつけられる行為だった。
彼女の意識は、物理的な肉体を離れ、膨大な情報の海へとダイブしていく。そこは、光の川が無数に流れ、囁きのようなデータが行き交う、常人には理解不能な世界。彼女は、その中から自らの存在を定義する量子パターン、遺伝子情報、記憶、意識のアルゴリズムを、一本一本の光る糸のように引き出していく。
「ユキくん、無理はするな」
傍らでモニターを監視していたマスターが、マイク越しに優しく声をかける。ユキの脳波を示すグラフが、激しく乱れていた。
「これは、自分の命を切り売りするような作業じゃない。君は、これから生まれるかもしれない『新しい命』を、悪意から守るためのワクチンを作っているんだ。猛毒から、血清を作るようにね」
その言葉が、ユキの意識を繋ぎ止めた。
そう……これは毒。私という呪いを終わらせるための、最高の毒。
彼女の意識が、再び研ぎ澄まされる。紡ぎ出した光の糸を、彼女は慎重に、しかし大胆に編み上げていく。それは、誰が見ても完璧な「ユキのレシピ」だった。
だが、その設計図の根幹、自己増殖を司る染色体の配列の奥深くに、彼女は致死性の「罠」を仕込んだ。
それは、起動後72時間で細胞の連鎖的崩壊を引き起こすタイマー。そして崩壊と同時に、周囲の電子データを無差別に汚染・破壊する悪性の量子ウイルスだ。
それを手にした者は、神の力を手に入れたと思った三日後に、自らのサーバーも、研究施設も、全てが電子の藻屑と化すことを知るだろう。
ユキは、自らの魂のかけらから、世界で最も甘美で、最も危険な毒を作り上げたのだ。




