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コードネーム・ファントムの新たな日常 〜平穏を夢見る元諜報員は、なぜか国家規模の事件に巻き込まれる〜  作者: 桜瀬ひな


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ファントム、隠し子現る3

 静まり返ったオペレーションルームに、どこか気の抜けた、クラブこと瀬尾の声が響き渡る。壁一面に広がるモニターを、彼はコーヒーを片手に気だるげに眺めていた。


「はいはい、こちらクラブ。えーっと、21時07分にターゲットご帰宅。ユキちゃんもご一緒だね。その後は特に動きなし。以前の家族ごっこの続きでもやってんのかねぇ」


 そのあまりに緊張感のない報告に、インカムの向こうで突入部隊を率いるコクチョウが、苛立ちを抑えた声で応える。


『……分かった。5分後に突入する。監視を続けろ』


「りょーかい」


 瀬尾は軽く肩をすくめた。ファントムと呼ばれ、組織の誰もが恐れる灰島。彼の有能さは誰よりも知っている。そんな彼が、まだ部屋に盗聴器が仕掛けられてることに、気づかないはずがない。


 ここから見える部屋の内部には、何の変化もない。普通に考えれば、まだ二人は部屋の中にいるだろう。


「普通なら、ね」


 瀬尾はそう呟いて、コーヒーを口に運んだ。


 時刻は21時30分。


『突入!』


 コクチョウの号令がヘッドセットを震わせたが、瀬尾の意識はモニターに映るデジタルな光の波に注がれていた。「観客」としては、最高の席だ。突入班のカメラが乱れ、特殊部隊が流れ込む様を、彼はどこか他人事のように眺めていた。


「元気だねぇ」


 騒々しい音が一瞬で止み、 沈黙が流れる。そして怒号。


『クラブ! 説明しろ! もぬけの殻だ!』


 鼓膜を劈く怒声に、瀬尾は眉一つ動かさない。


「だから言ったでしょ。ファントムは、そんなお行儀のいい幽霊じゃないって」


 モニターには、主を失った空っぽの部屋が映る。エアコンのLEDだけが虚しく点滅していた。


『貴様っ…!』


「はいはい、ご立腹なのは分かったから。少しだけ静かにして。神様にお祈りの時間なんでね」


 瀬尾はそう嘯くと、コーヒーカップを静かにデスクへ置いた。指がキーボードに触れる。次の瞬間、世界から音が消えた。


 彼の指は鍵盤の上を滑るピアニストのように、超高速で文字列を紡ぎ出す。モニター上の堅牢なセキュリティウォールが、まるで砂の城のように次々と崩落していく。街の監視システム、交通網、通信記録。都市という名の電子の海に、彼はためらいなく深く潜っていく。


『まだか!』


「はいはい、今探してるから、ちょっと静かにしてくださいよ」


 あやすような口調でコクチョウをいなしながら、瀬尾の目はマンションの死角、通用口、地下駐車場の記録を洗い出していた。そして、映像の隅に映り込んだ不審な清掃業者のバンを捉えると、楽しそうに口の端を上げた。


「みーつけた。鬼ごっこは、あんまり得意じゃないんだけどなぁ」


 指先で数回キーを叩き、ハッキングした車両GPSの情報をメインモニターに転送する。地図上を移動する赤い光点を指でなぞりながら、彼は再びインカムに口を寄せた。


「お待たせ。ターゲットは清掃業者のバンで移動中。首都高3号線を南だってさ。あとはそっちで頑張ってよ」


 じゃあ、よろしくね。そう言い残して通信を一方的に切ると、瀬尾は再びコーヒーカップを手に取り、椅子に深くもたれかかった。


「さて、ファントム。これからどうするのかな?」


 誰に言うともなく呟いたその声は、やはりどこまでも楽しそうで、底が知れなかった。




 その場所は、路地裏のさらに奥、錆びついた鉄扉の向こうにあった。 重厚な木材のカウンターと、壁一面に並べられた古書。世界の喧騒から切り離されたような空気が漂う隠れ家。そこにもバーカウンターがあるのはマスターの趣味なのだろう。その彼は、黙ってカウンターでグラスを磨いている。


 ソファに深く身を沈めたユキは、渡されたホットミルクのカップを両手で包み込んでいた。その隣には、まるで暗殺者のような姿の灰島がカーテンの隙間から外を伺っていた。


「大丈夫ですよ。足取りが残るような道は通ってませんし、いざというときの逃走経路も確保していますから」


 トンっと足で床をたたけば、人が一人通れるくらいの通路が足元に現れた。


「他にもありますから、安心してください。こんな年寄りでも時間稼ぎくらいにはなりますよ」


 時間稼ぎどころか、その目の輝きは相手を制圧することさえ厭わない強さがある。


「……ありがとうございます、マスター」


「いいんですよ。言ったでしょう? これも縁です」


 だとすれば、これは本当に感謝すべき縁だ。自分一人なら、どこまでも逃げ切る自信はあるが、彼女を連れてとなると話は違うのだから。


「でも、話したくなければ話さなくても構いません。みんな、いろんな事情がありますから」


 そう言いながら、マスターはエプロンを外してニコリと笑う。


「その奥は寝室になっています。食料は3日分はありますし、言ってくだされば、必要なものは持ってきますので──」


「話してもいいよ」


 しかし凛とした声が、隠れ家の静寂を震わせた。 マスターの言葉を遮ったのは、ソファに座るユキだった。灰島とマスターの視線が、一斉に少女へと注がれる。


 ユキは両手で包んでいたホットミルクのカップをそっとテーブルに置くと、二人をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、年齢不相応の覚悟の色が浮かんでいた。


「ユキ、止めろ」


 巻き込むべきではない。彼女の話をすることもタブーなら、灰島がファントムであることを話すのもタブー。それを知ることで、マスターの存在自体も危ぶまれる。


「ほっほっ、私のことはお気になさらず。自分の身くらいなんとでも出来ます。そこまで老いてはいませんよ」


 灰島の懸念を察してそう返すが、それでも彼の顔が晴れないからマスターはにこりと笑った。


「なら、当ててしまえばいいですね。そうですね、灰島さんは内調か公安かと思いましたが、やることがさらに過激。なので恐らくもっと影の組織、これは私も信じていなかったのですが、コクチョウ、あたりでしょうか?」


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