ファントム、弟子をとる
翌朝、午前5時半。
スマホのアラームが鳴る5分前に、玲奈の体は自然と目を覚ました。昨夜の灰島との約束が、無意識のうちに彼女を緊張させていたのかもしれない。
ジャージに着替え、軽く顔を洗ってアパートの外に出ると、ひんやりとした早朝の空気が肌を刺した。
灰島は、すでにそこにいた。玲奈と同じようなラフな格好だが、その佇まいは昨日までとは明らかに違う。無駄な動き一つなく、ただそこに立つだけで、周囲の空気を支配しているかのような錯覚を覚えた。
二人は言葉を交わすことなく、いつものコースを走り出す。アスファルトを蹴る互いの足音だけが、静かな住宅街に響いた。やがて、灰島はコースを外れ、橋の下へと続く脇道へ入っていく。そこは朝靄が立ち込める、静かな河原だった。
「さて、ここならどの監視カメラにも映ることはないからな」
「……いや、なんでそんな監視カメラ意識してんの?」
「するだろ、普通」
「しません! 普通は監視カメラの位置とか、そもそもあるかないかも意識しません!」
「……そうか。まぁ、そんなことはいい」
灰島が立ち止まり、玲奈に向き直る。その瞬間、昨日までの隣人としての空気が完全に消え、彼の瞳に、底の知れない昏い光が宿った。
「まず、恐怖心を捨てろ。お前が躊躇すれば、死ぬのはお前の方だ」
その声は、川のせせらぎよりも静かで、鋭かった。
「人間というのは結構頑丈だ。かと思えば、打ち所が悪ければあっさりと死ぬ。だから、人体について知る必要があるが、まずはお前の力量を知りたい」
灰島はゆっくりと構えを取る。それは、玲奈が祖父から教わったどんな武術の型とも違う、ただ効率的に相手を無力化するためだけの、機能的な姿勢だった。
「……構えろ。最初の課題は、俺を本気で殴れ」
「う、うん」
返事はしたものの、玲奈の足は地面に縫い付けられたように動かない。目の前の男は、昨日まで普通に会話をしていた隣人だ。その顔面に、本気で拳を叩きこむなど、なかなかできるものではない。
というか、全く隙が無い。どこを狙ってもかわされるイメージしか沸かない。
「避けないから、かかってこい」
見透かすような言葉に、玲奈はグッと手を握り腰を落とし、「……行くよ!」と地面をけった。
しなやかな体躯から放たれる、鋭いストレート。しかし、その拳が灰島の顔面に届く寸前、無意識のブレーキがかかる。
パシッ、と乾いた音を立てて、灰島は玲奈の拳をいとも簡単に手のひらで受け止めた。
「……話にならない」
灰島は玲奈の拳を掴んだまま、ため息をついた。
「お前の身体能力は高い。だが、心がまだ覚悟に追いついてない。その拳には殺意も、相手を無力化するという覚悟もない。ただの暴力ごっこだ」
「……っ!」
「いいか。人を気絶させるのは、腕力じゃない。衝撃で脳を揺らすんだ。最も効率的なのは、顎の先端。ここを的確に速く打ち抜くことで、頭部が強制的に回転し、脳が機能を一時停止する」
灰島は掴んでいた手を離すと、自分の顎を指さした。
「ここを思いっきり殴れ。心配するな、お前の打撃程度で俺は死なんし、気も失わん」
「……わかった」
今度こそ、と玲奈は集中する。灰島の言う通り、顎の先端だけを狙う。 シュッ、と空気を切り裂く音と共に、玲奈の拳が放たれた。だが、またしても灰島は動かない。
玲奈の拳は、彼の顎から数ミリのところで、ピタリと止まっていた。
「……なんで避けないのよ」
「避ける必要がないからだ。お前はまだ、俺を殴れない」
見透かしたような言葉に、玲奈は唇を噛んだ。悔しくて、涙が出そうだ。
「……どうすれば、あんたみたいになれるのよ」
なる必要はない、と言ったところで彼女にとって慰めにはならないだろう。灰島は少し考えて、右の手のひらを下に向け、手の甲を顎につけた。
「これなら殴れるか?」
つまり、顎に当てた手のひらを殴れと灰島は言った。
「……出来る、と思う」
「やってみろ。顔を見るな、手だけに集中しろ」
玲奈はコクリと頷き、視界から灰島の顔を消し、ただ、そこにある「的」だけを見つめた。
いける……!
次の瞬間、玲奈の体はバネのようにしなり、腰の回転、肩の押し出し、全ての力が連動した一撃が、音を立てて灰島の手の平に叩き込まれた。
バチンッ!
今までとは比べ物にならない、重く、鋭い衝撃。玲奈自身の腕にも痺れが走る。だが、殴られた側の灰島は、微動だにしない。まるで分厚いコンクリートを殴ったかのような感触に、玲奈は目を見開いた。
「……及第点だな。一般人なら気絶させられるが、少しでも訓練した人間にはスピードもパワーも足りん」
灰島はこともなげに言うと、少し赤くなった手のひらを見つめた。
「今のお前は、腕の力だけで殴っている。それでは威力に限界がある。重要なのは体重を乗せること。踏み込みと同時に、体の軸を回転させ、拳に全身のエネルギーを伝える」
灰島はゆっくりと、手本を見せるようにシャドーの動きをする。それは驚くほど静かで、滑らかなのに、一撃の先に凄まじい破壊力を感じさせた。
ほんの一瞬の動きに、玲奈はひゅっと息をのんだ。
多分、自分が想像している以上に、この男は強い。もしかしたら現役だった祖父よりも……。
「今日はここまでだ。明日は、その感覚を体に叩き込む」
淡々と告げられる言葉に、玲奈はただ頷くことしかできなかった。悔しさと、ほんの少しの光。そして、目の前の男の底知れなさ。
「ねぇ」
「なんだ?」
走りながら、今まで聞けなかったことを聞いてみようと思ったのは、これまでの彼の行動から信用できると思ったからだろう。
「今まで、どんな仕事してたの?」
素朴な質問だが、なかなか聞けなかった質問。
「ただの公務員だ」
「嘘」
「嘘ではない」
そう、灰島の言う通り嘘ではない。彼はれっきとした国家公務員だった。いや、辞表は出しているが、まだ有休消化中で、現役の国家公務員である。
「……言いたくないならいいけど」
きっと言ったところで信じないだろう。信じないとしても、言うことはできない。
『国防直轄調査室』
略してコクチョウは、国家の秘密機関でありごく一部の人間しか知らない。一部の人間以外が知れば、消される。
だから、出来れば近所付き合いをすることも無く、目立つことなく生きていくことを選んだつもりだったのに。
思わず漏れる苦笑いに、玲奈がムッとする。
「いいけどね。分かってるから」
「ほう?」と聞き返せば、玲奈はいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「私の予想は公安。内調かとも思ったけど、小型カメラ使ったりっていうのを考えたら公安よね」
「なるほど」
公安とは、実は内閣直属の公安調査庁と、警察庁をトップとする公安警察の二種類が存在する。前者は国内外の団体に対する情報収集と分析を主な任務とする調査機関であり、後者はテロやスパイ活動などを直接捜査し、取り締まる警察組織だ。玲奈がイメージしているのは、おそらく後者の方だろう。
「まあ、当たりってとこね」
玲奈はどこか得意げに笑う。その笑顔は、年相応の無邪気さを感じさせた。灰島はあえて否定も肯定もせず、曖昧に口の端を上げるにとどめた。
「どうだろうな」
「えー、教えてくれないんだ。ケチ」
「知る必要のないことは、知らない方がいい」
それは、灰島が自分自身に言い聞かせている言葉でもあった。
国防直轄調査室、通称『コクチョウ』の仕事は、公安のそれよりもさらに深く、暗い領域に踏み込む。国家の存亡に関わる脅威を、法の名の下ではなく、時には超法規的な手段を用いて排除する。その存在は、光の下で生きる人間にとっては劇薬でしかない。
「ふーん。でも、悪い人じゃないってことは分かってるから」
玲奈はそう言うと、再び走るペースを上げた。疑いや恐怖ではなく、信頼を口にする彼女に、灰島の胸にチクリと小さな痛みが走る。この少女を、自分のいる世界に引きずり込んではならない。
公安、か。そう見えているうちは、まだいい。
彼女の推測は、的を射ているようでいて、その本質からは絶望的に遠い。それでいい、と灰島は思った。玲奈がその先に踏み込んでこない限り、彼女の日常は守られる。
「ペースを上げるぞ。ついてこい」
「望むところよ!」
並んで走る二人の間には、それ以上言葉はなかった。ただ、アスファルトを蹴るリズミカルな足音だけが、清々しい朝を迎えた静かな住宅街に響いていた。玲奈の隣で、灰島はほんのわずかに口元を緩める。
こうして誰かと走る朝が、存外悪くないと感じ始めている自分に、少しだけ戸惑っていた。




