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コードネーム・ファントムの新たな日常 〜平穏を夢見る元諜報員は、なぜか国家規模の事件に巻き込まれる〜  作者: 桜瀬ひな


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ファントム、協力する5

「くそっ! スマホ忘れちまった!!」


 入ってきたのは、あの工場長だった。その彼が事務所に入るなり、目に入ったのは、机の上に突っ伏して寝ている従業員の姿。


「って、あぁ!? 木下ぁ!! てめぇ、なんで寝てんだよ!!」


 イライラしながら木下の椅子を軽く蹴ったが、彼はバランスを崩し起きることなくそのまま床に倒れこんだ。けれど、木下は目を覚ますことなく、眠り続ける。この状況に工場長は「なんだ?」と訝しむように部屋の中を見回した。


「誰かいるのか!?」


 叫ぶが、玲奈は気配を消したまま動いたりはしない。けれど、逃げることもできない。こちらから攻撃を仕掛けて、気絶させて逃げるか? 気絶しないまでも怪我を負わせてれば、きっと逃げられる。


 けれど、そうすることを想像すると、手が震える。


「――てめぇ、何者だ!」


  背後から、全てを凍りつかせるような声が響いた。濁った目が、玲奈が手にするスマホを捉える。


 絶体絶命。


 経営者の巨体が、獣のように飛びかかってくる。玲奈は咄嗟に身を翻し、体術の構えを取った。証拠だけは、絶対に渡すわけにはいかない。


「このっ、ちょこまかと!!」


 それほど広くもない事務所で、工場長と玲奈の鬼ごっこが始まる。


 こんな奴につかまったりはしない、しないけれど出入り口は工場長の後ろで、この部屋から逃げることもできない。窓は防犯用の網入りガラスで、体当たりしてガラスを割ることはできても、網までは切れたりしない。


 攻撃するしか──。


 そう考えて瞬間、部屋の電気がパッと消えた。


「あ!? 仲間がっ」


 工場長の焦った声が、暗闇に響き渡る。突然の停電に、男は玲奈以外にも侵入者がいると確信したようだ。玲奈もまた、この予期せぬ事態に戸惑い、身を固くした。味方か、それとも別の敵か。


 判断がつかない。


「どこだ! どこにいやがる!」


 工場長が闇雲に手を振り回し、威嚇の声を張り上げる。その巨体が動くたびに、机や椅子にぶつかり、けたたましい音が響いた。玲奈は息を殺し、壁際に身を寄せ、その気配から距離を取る。


 その時だった。


 背後の扉が、ほとんど音を立てずに開いた。そして、闇よりも濃い影が、静かに室内へと滑り込んでくる。玲奈の全身に緊張が走った。しかし、その影から放たれる気配には、不思議なほどの静けさと、凍てつくような冷静さが宿っていた。


「騒々しいな」


 低く、それでいてよく通る声が、工場長の怒声にかぶさるように響いた。その声に、玲奈は息をのむ。聞き間違えるはずがない。


「だ、誰だてめぇ!」


 工場長が声のした方へ振り向いた瞬間、影が動いた。まるで流水のような滑らかな動き。暗闇に目が慣れ始めた玲奈の網膜に、一瞬だけ、影が工場長の巨体の懐に潜り込むのが見えた。


「ぐっ……ぁ……」


 獣のような呻き声が、くぐもって響く。次の瞬間には、ドシン、と重いものが床に崩れ落ちる音がした。それきり、工場長が声を出すことはなかった。


 しんと静まり返った事務所に、雨音だけが戻ってくる。玲奈が呆然と立ち尽くしていると、その影がゆっくりとこちらに近づいてきた。月の光が雲間からわずかに差し込み、その人物の横顔を淡く照らし出す。


「……灰島さん」


 そこに立っていたのは、玲奈がその顔を思い浮かべ、頭を振って否定したばかりの人物、灰島だった。いつもと変わらない無表情。しかし、その瞳は暗闇の中でも鋭く玲奈を捉えていた。


「だから落ち着けと言ったんだ。君ほどの実力があれば、もっと慎重に動けたはずだ」


 静かな叱責。けれど、その声には微かな安堵が滲んでいるのを、玲奈は感じ取った。全身から力が抜け、その場にへたり込みそうになるのを、必死でこらえる。


「な、んで……ここに……」


「激高した君が行きそうな場所は、限られている」


 灰島はこともなげに言うと、懐から取り出した小さなライトで気絶している工場長を照らした。そして、玲奈の持つスマホに目を移す。


「証拠は撮れたか?」


「……うん。帳簿と、みんなのパスポート。それに、健康診断の記録も」


「上出来だ」


 灰島は短く褒めると、玲奈に手を差し伸べた。


「立てるか? 長居は無用だ」


 その手は冷たかったが、不思議なほど安心感があった。玲奈は黙ってその手を取り、立ち上がる。まだ心臓が早鐘を打っている。自分の失態と、予期せぬ救世主の登場に、頭が追いついていなかった。


「あ、あの、証拠は……! このままじゃ、私が不法侵入しただけで……」


 焦ってそう訴える玲奈のスマホを、灰島は半ばひったくるように受け取ると、自身の端末と一瞬だけ重ね合わせる。玲奈の画面に、見たこともない転送バーが一瞬で走り抜け、「完了」の文字がポップアップした。


「は……? え?」


 あまりの早業に、玲奈が間の抜けた声を出す。


「データは受け取った。匿名、かつ複数のルートを経由させて情報を流す。これだけの物証があれば、どんな怠慢な組織でも動かざるを得ない」


 灰島は淡々と、まるで天気の話でもするかのように告げる。玲奈が一人で悩み、命がけで手に入れた証拠の活路を、彼はほんの数秒で確保してしまった。そのあまりの手際の良さに、玲奈は言葉を失う。


「ああ、それと」


 灰島が何かを思い出したように、付け加えた。


「この事務所の監視カメラだが、30分前からお前の侵入前の映像をリピート再生させておいた」


「…………はい?」


 玲奈の思考が、完全に停止した。


「ついでに、そこの路地にある自販機のカメラも同じ処理をしてある。お前がここへ来た痕跡は、物理的には何一つ残っていない」


「…………」


 もはや声も出ない。自分が忍者としての技術を駆使し、雨に打たれ、命がけで潜入したこの数時間は一体何だったのか。


「お前の身体能力は認めるが、現代の潜入任務は物理的な侵入より情報戦が主体だ。顔を隠すだけでは甘い。次に活かせ」


 まるで教官のような口ぶりに、玲奈の中で何かがプツリと切れた。


「……このっ……ムカつくほどのハイスペックイケメン!!」


 静まり返った事務所に、玲奈の叫び声だけが、やけにクリアに響き渡った。


「……それが誉めてるのかけなしてるのかは後で問うことして、まずは出るか」


 灰島に促され、玲奈は頷いた。彼は眠っている事務員と、倒れている工場長を一瞥し、玲奈を連れて事務所を出た。ブレーカーを落としたのは、もちろん彼だった。


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