ファントム、協力する4
その夜、降りしきる雨は、玲奈の決意を隠すには好都合だった。 黒いパーカーのフードを目深に被り、彼女は息を殺して工場の古びたブロック塀に身を潜める。冷たい雨が容赦なく体を打ち、体温を奪っていくが、それ以上に怒りが優先する。
タオのやつれた顔、震える声、そして仲間たちの絶望。その全てが、彼女を行動へと駆り立てていた。
深呼吸を一つ。彼女は助走もつけずに、軽々と塀の上に飛び乗ると、雨音に紛れて音もなく敷地内に着地した。忍者として幼い頃から叩き込まれた身体能力が、彼女を闇夜の亡霊に変える。雨樋を伝って二階の窓枠に手をかけ、僅かな隙間から建物の内部へと滑り込んだ。
「タオが逃げただと!? ふざけるな! 見つけ出して、見せしめにしてやれ! どうせ代わりはいくらでもいるんだ、他の奴らが妙な気を起こす前にやれ!」
怒声は、階下の事務所らしき部屋から響いてくる。玲奈は息を殺し、梁の上からその声の主をうかがった。脂ぎった中年男が、電話口でがなり立てている。あれが工場長だろう。机の上には酒瓶が転がり、部屋には濁った空気が満ちていた。玲奈はスマホを取り出し音声を録音し始めた。
「くそっ! こんなことならさっさと出荷すればよかった!」
「とりあえず、失踪届出しときます」
事務員らしき男にそう言われ、工場長は「くそがっ!」と近くの椅子をけり倒した。
「いっそ2人にしておけ! どうせ出荷するしな!」
「はい」と返ってくる言葉。意味が分からないがそのまましばらく録音をして、寮の方へ移動した。
鼻をつくのは、汗と埃と、そして諦めの匂い。 狭い一部屋に、二段ベッドがぎっしりと並べられ、十数人の若者たちが折り重なるように眠っていた。時折、苦しそうな寝息や、母国語のうわ言が聞こえてくる。
玲奈は、その一人ひとりの顔を見て、再び唇を噛みしめた。自分とそう変わらない年齢の彼らが、なぜこんな目に会わないといけないのか。
部屋の中の惨状を撮影し、音もなくまた移動する。
ここにあるのは、後は工場くらいでそちらものぞいてみたが、今は誰もいなかった。隅にある小さな机を見つけ、その引き出しを開けてみたが、大したものは入っていない。
「やっぱり、事務所だよね」
最初に見た事務所には大きな金庫があった。多分、あれが一番怪しい。
玲奈はまた事務所を目指し移動を始めた。
「ったく、余計な仕事を増やしやがって」
悪態をつきながら、先ほどの事務員が書類に記載していた。玲奈はポケットから小さな包みを取り出し開くと、ふうっと息を吹きかける。すると粉が部屋に舞って事務員に届く。
それはとても小さなもので、事務員は気づくことなく吸い込んで作業を続ける。続けていたのだが、急にうとうとし始めて、そのまま机の上に突っ伏して眠ってしまった。
「うーん、よく効く眠り薬ね」
玲奈は男の頬をツンっとつつくが、何の反応もないことを確認しすると、金庫の前に立ち、舌で唇をぺろりと舐めると「やりますか」と右手に粉の入った小さな瓶を取り出した。
「ダイヤル式か。このタイプは……」と言いながらスマホで同じ金庫を探し、その仕様を確認する。
「良かった、4桁ね。かなり古いタイプ、相当のケチだわ」
そういいながら、金庫のテンキーに狙いを定め、玲奈は慎重に小さな容器を取り出した。中には、微細な銀色の粉末が詰まっている。息を潜め、彼女は容器の口をそっと傾け、霧のように細かい粉をテンキー全体に薄く均一に吹きかけた。
一瞬、変化は見られない。しかし、玲奈が懐から取り出した小型のブロアーで余分な粉を優しく吹き飛ばすと、魔法のような光景が浮かび上がった。
それをじっと見つめ、指紋の動きを観察する。使用している数字は「2」「5」「8」「0」なのはわかる。
4つ必要な暗証番号、使われている数字は4つ、ということは24通りの並びしかない。すべて試してみてもいいが、玲奈は残された指紋の形から「0」が最初だということに気が付いた。
まず、一番小さな数字から試してみる。「0」、「2」、「5」、「8」。
「……まぁ、開くわけないか」
適当にやったところで開くはずもない。玲奈は数字をじっと見つめて「あ」と声を上げた。
「これ、もしかして……」
そう言いながら「0」「8」「2」「5」と思い浮かべた数字を押していく。
カチャっと鍵の開く音に、玲奈は脱力した。
「何よ、これってなんかの記念日か誕生日なの? ったく、危機管理ができてないわ」
毒づきながらも、手は素早く動く。中から出てきたのは、二重帳簿と思われる分厚いファイルで、その中には彼らの勤務時間もしっかり改ざんされた書類も残されていた。玲奈は「ムカつく」と呟きながら撮影した。そして、実習生たちの名前が書かれたパスポートの束、これをスマホで撮影し、データを確保すれば任務完了だ。
「……なに、これ?」
帳簿とは違い、ハードファイルの書類に手をのばした。めくれば、実習生たちの健康診断書が束になって保管されている。
「健康診断は受けさせるんだ。意味わかんない」
そのいくつかもスマホに納め、すべてを元に戻し鍵を閉めた。
さあ、戻ろう。これだけの証拠があれば、警察も動くはずだ。そう考えた瞬間、灰島の顔が浮かんで、玲奈は頭を振った。
冷静に考えれば、これだけの証拠があったとして、どうやって警察に渡せばいいのだろう。警察に写真の入手方法など説明はできない。
「どうし──」
誰かが歩いてくる。その足音に気が付いて、玲奈は机の下に身を隠した。
バンッ! と扉が開かれる。




