ファントム、城を借りる1
身長は185センチ。無駄なぜい肉も過度な筋肉も見当たらない、さらに整いすぎた顔はいわゆる『美青年』の部類に入るだろう。しかし、少し長めの黒髪と黒縁の眼鏡が、その端正な顔立ちを巧みに隠し、彼の存在感を希薄なものにしていた。
「とりあえずは、住むところからだな」
これまで任務のために定まった住居を持たなかった。『自宅』というものを初めて手にすることに気づき、男は口の端を微かに上げた。
「これが自分の城を持つということか」
意味の分からないことを口にして、男は歩き始めその足を止めた。
「あ、契約には名前が必要か。最後に使った名前は――」
彼の手にあるのは『灰島平太』とかかれた名刺。
「これでいいか」
もう本名は覚えていない、というかあったところで意味がない。なぜなら、今の彼は『灰島平太』以外、何者でもないから。
財布の中には『灰島平太』のマイナンバーカードもあれば、運転免許証もある。
「……これを返せ、などとは言わないだろう、さすがに」
他にも彼には沢山の名前があり、沢山の過去がある。その中には本名も思い出もあるはずだが、彼はそんなものにこだわりも思い入れもない。
「さて、住むなら都心へのアクセスが良く、それでいて程よくのどかな場所がいいな」
『木を隠すなら森の中、人を隠すなら人混みの中』が鉄則だが、それでは気の休まる暇がない。かといって、完全な田舎では人々の繋がりが濃密すぎて、常に見張られているような息苦しさを感じるだろう。
そう考えた末、彼が選んだのは都心から電車で40分ほどの閑静な住宅街だった。
駅を降りてあたりを見回す。階段のそばには駐輪場があり、綺麗に自転車が並ぶ。送迎のロータリーのそばを歩けば、タクシーの運転手たちが他愛のない雑談をしている。そのまま歩けば、ドラッグストアにスーパーがあり、内科と歯科も併設されている3階建ての複合ビル。そこを過ぎれば大通りだ。
「普通、だな」
そう呟いて、彼は微笑んだ。
これこそが彼の望んだ生活環境だ。地べたを這いずり回ることも、地下に潜行する必要もない。豪雪地帯の森で何日も生き抜くことも、監視対象者の屋根裏で息を殺して潜伏し続けることもない。それがどれほど幸せなことか。思わず緩みそうになる頬を引き締め、照れ隠しのように「あそこにしよう」と独りごちた。
道路の向こう側、不動産屋を見つけ、彼は横断歩道を渡った。横断歩道の手前でゆっくりと停止した車に軽く会釈すると、運転手も笑顔で会釈を返してきた。事前の調査通りの治安の良さを、身をもって感じた。
「いらっしゃいませ」
不動産屋に入るとすぐに、受付に座っていた女性が彼に声をかけた。
「どうぞお座りになってください」と席を進められ、窓際にある席に座ると、「私、安西まどかと申します」と、流れるように出される名刺、からの「失礼します」と彼女は腰を掛け、にこりと笑う。おそらく、これが一連のルーティンなのだろう。その淀みないスマートな対応に、灰島は内心感嘆した。
「今日はどのような物件をお探しでしょうか? まずは間取りとご予算をお聞きしてもよろしいですか?」
このあたりの家賃相場は、1LDKで月十万円を少し超える程度。ファミリータイプなら3LDKは欲しいところだが、そうなると二十万円近くになる。もちろん、駅から離れれば多少は手頃になるものの、単身者に広い物件を貸す大家は少ないことも調査済みだ。
「そうですね。予算もさることながら、閑静な住宅街で、周囲に高層ビルがないこと。できれば日当たりが良いのが理想ですが、まあ『普通』であれば高望みはしません」
「『普通』、ですか。さようでしたら、ご希望に沿える物件もいくつかございます。まずは間取りから決めましょうか。お一人でお住まいのご予定でよろしいでしょうか?」
増える予定はないので、灰島が「はい」と答えると、彼女は細い指で分厚いファイルを取り出した。
「やはり駅から近い方がよろしいですよね? こちらはいかがですか?」
パラりとめくった場所にあるのは、少し広めな1LDKの間取りを印刷したプリント。
「駅から徒歩5分、築15年と比較的新しく、ご予算も12万とかなりお買い得な物件かと」
「そこ、5年ほど前に殺人事件が起きた物件ですね。確か、引きこもりの息子を父親が何度も殴打して殺害。私の記憶が正しければ、その父親は懲役5年だったかと」
つらつらと事件の内容を話す灰島に、まどかは「すっ、すみません!!」と慌てて頭を下げた。
「決して告知を忘れていたわけではなく、あのっ、すでに一度入居がありましてっ」
「分かっています。事故物件はその後一度でも入居があれば告知する義務はない、ですよね。別にせめているわけではありません。少し思いだしただけで、事故物件にも偏見はありません」
そう言ってもらえ、まどかは、ほうっと息を吐く。
「あんなことはありましたが、日当たりは最高に良く、朝日も入りますし──」
「あのマンションは東と南側が公園ですよね」
そう口にした灰島の顔に少しばかり不快さを感じ、まどかは気が付いた。
「あ、子供が苦手でしたか。すみません、そうでしたね、閑静な場所がご希望ですものね」
別段、幽霊が出ようがそこに遺体があろうが気になるわけではない。問題なのは、公園が隣にあるということだ。しかもこの公園は芝生がメインで、いざというときの逃走経路には丸見え過ぎて使えない。
「こちらはいかがですか? 徒歩10分と先ほどの物件よりは駅から遠いのですが、周りは完全に住宅街で静かですし、裏手は小高い山になってまして近くに遊歩道もあるんです」
そんなまどかの説明に灰島の眉が小さく動いた。それをまどかが見逃すわけもなく、「お近くには、これとこんな物件も」と畳みかける。
「お時間ありましたら、内見いたしませんか?」
これでにこりと微笑めば、断る客など今まで皆無。
灰島もその話術に心の中で感嘆し、「お願いします」と頭を下げた時、彼女の机の下にある手はグッと握られた。




