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ファントムの新たな日常 〜元凄腕諜報員は普通に暮らしたいのに、なぜか事件に巻き込まれて無双する〜  作者: 桜瀬ひな


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ファントム、就職する4

 だだっ広い世界じゃない、国でもない、町でもない、ただ自分の手が届く範囲で、この当たり前で平穏な毎日を守りたい。それこそが、自分の欲していた日々。


 そのために、何をすればいいのか、目の前の彼が道を示してくれている。


「……分かりました」


 深く、息を吐いて灰島は言った。


「お世話になります、マスター」


「ようこそ、セグレトへ。君の新しい『職場』であり、新しい『任務』の始まりだ」


 マスターが差し出した手を、灰島はためらうことなく握り返した。その手は、老人のものとは思えないほど硬く、幾多の修練を積んできたことを物語っていた。


 こうして、元・国防直轄調査室所属、コードネーム『ファントム』こと灰島平太の、人生初のアルバイト生活は、彼の意図とは全く違う形で幕を開けた。




 次の日から、灰島は「セグレト」の店員として働き、数日後にはすっかりカウンターの中に馴染んでいた。


 カラーン、と来客を告げる鈴が鳴る。勿論、彼からしてみればその音が鳴る前に、何人か、どんな人物かはすでに把握済みだ。


「ほら、ここだよ」


「ホントだ! いるね!」


 小さな声だがすべて彼の耳に聞こえている。来店したのは、近くの公立高校に通う女子高生3名。校章の色から2年生だ、というところまで分かる。


「いらっしゃいませ。お好きな席にお座りください」


 灰島がそう言うと、彼らは「きゃあ」と小さく叫んで、窓際のボックス席に座った。


「マジイケメン!」


「声もめっちゃいいんですけど!」


 もう一度言うが、聞こえないように話しているつもりでも彼には全部筒抜けだ。いや、聞こえていなくても、読唇術ですべて分かってしまう。


「ふふ、人気者ですね」


 からかうようなマスターの言葉に、「やめてください」と言ったところで止めることはないだろう。


 それにしても、と思いながら食器棚のガラスに映る自分の顔を見る。


 ここ最近、イケメンだと言われることが多いのだが、この顔のどこがいいのだろう? コクチョウにいた時、そんなことを言う人はいなかったし、寧ろ『存在感を無くせ』と注意されていたから、誰かの目に留まるようなことは一切しなかった。


「正直、テレビに出てる俳優さんよりイケメンですよ」


 そんな灰島の心境を読んだのか、そう言われ灰島は小さく首を傾けた。


「……顔の良し悪しなんて、どうやって評価するんですか?」


 人の顔など見分けられたらいい。所詮、目が二つ鼻が一つ口が一つで構成されるパーツだ。骨になってしまえば、さほど違いは無いというのに。


「うーん、そこからですか? では、玲奈を見ても可愛いとは思わなかったのでしょうね。君はもっと世の中を知らないと」


 知っている。恐らく目の前の老人よりも世界情勢は理解しているし、株の上下も分かっているし、次期首相も言い当てることができるくらいには、世の中を知っているはずなのだが……。


「ほら、ご注文、取ってきてください」


 そう言われ、女子高生の席に向かった。


「ご注文は決まりましたか?」


 自分を見上げる女子高生たちの視線が、灰島に集まる。


「あ、あの、私はオレンジジュースと今日のフルーツサンド!」


「あたしは紅茶、えと、ミルクで」


「私は、えと、コーヒー、をお願いします」


 彼女たちの注文に、灰島は「畏まりました」と一礼して、カウンターに戻った。

「コーヒーは君が淹れてみますか?」


 戻るなりマスターにそう言われ、灰島は一瞬躊躇し「分かりました」と、彼が手にしたのはエチオピアのシダモ産。


「うん、いい選です。それは、柑橘系の香りとフルーティーな甘みがあるからきっと気に入ってくれますよ」


 マスターの言葉に頷き、彼は丁寧に豆を挽き始める。


 このコーヒーは、ゆっくりとお湯を注ぐのがポイントだ。お湯は、円を描くように少しずつ、まるで花びらが開くように注ぎ続ける。彼の手つきは静かで確かだ。コーヒーの滴り落ちる音とともに、店内に心地よい香りが満ちていく。


「いい香り」


「あたしもコーヒーにすればよかった!」


 そんな声が聞こえる中、彼は1杯のコーヒーを淹れた。


「お待たせしました」


 テーブルの上には、フルーツサンド、オレンジジュース、紅茶、そしてコーヒーが並ぶ。


「それではごゆっくり」


 一礼するまでの彼の所作は、まるで執事のようにも見えただろう。


「かっこよ……」


 彼女たちの口から零れる言葉に、マスターがカウンターで声を殺して笑っていた。


 彼が淹れるコーヒーは常連客の評判を呼び、物静かで端正な彼目当てに訪れる女性客も少しずつ増えていた。


「想定外だが、許容範囲だ」


 それは、灰島が求めていた「平穏」とは少し違うかもしれないが、それでも心地の良い毎日だった。

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