ファントム、就職する1
数日後。
朝のランニング中、大貫家の裏の家の前に、見慣れない黒いセダンが数台停まっているのが見えた。スーツ姿の男たちが家に出入りし、段ボール箱を運び出している。派手なパトカーのサイレンもなく、全てが静かに、そして粛々と進められていた。
灰島は、その光景を横目に、何もなかったかのように自分の部屋へと入っていく。
昼過ぎ、地元のニュースサイトをチェックすると、小さな記事が一つ。
『県内4箇所で大麻草栽培、グループ5人を逮捕。詳細な情報提供により、組織を一網打尽』
記事はごく短く、世間の大きな注目を集めることもないだろう。瀬尾はいつもいい仕事をする。今度訪ねてきたら、コーヒーでも淹れてやろう。
「あぁ、一緒に行くのもいいかもな」
瀬尾にもあのコーヒーを味わって欲しい、そんなことを考えた。
一つのミッションが終わった。
終わったら行こうと決めていた。だから、その日の午後、灰島は再び「セグレト」のドアを開けた。
カラーン、と懐かしい鈴の音が鳴る。
「いらっしゃい」
マスターの穏やかな声に迎えられ、彼は迷うことなくカウンター席に腰を下ろす。その2席向こうには、先日とは打って変わって晴れやかな顔をした大貫が座っていた。
「マスター、ニュース見た? ほら、この間話してたうちの裏の家! どうやら悪いことをしていたみたいで、この間お巡りさんが来て、みんな捕まったんですよ」
大貫は興奮した様子で話す。
「おかげで、最近は夜もぐっすり眠れてさぁ。いやー、やっぱり世の中、悪いことはできないもんですねえ」
マスターはチラリと灰島を見て、「そうですか。それは良かったですね」とだけ相槌を打った。
大貫は、近くに座る物静かな青年が、その平穏を取り戻した張本人であることなど、夢にも思っていない。それでいいし、話す気もない。
「この間のお兄さんだね。良かったら今日も半分くらい貰ってよ」
差し出されるフルーツサンド。今日のフルーツはイチゴだ。灰島は前回とは違い、笑顔で「ありがとうございます」と受け取った。
「ほう! お兄さん、イケメンだね! この近くに住んでるの?」
その質問に答えたのは、灰島ではなくマスターだった。
「大貫さん、彼、灰島さんってお名前でね、うちの孫娘がいるアパートに最近越してきてんだよ」
その答えに「え? そうなの? 世間って狭いねぇ」と笑う。
「それじゃご近所だ。これからよろしくね」
そう言われ、灰島も「こちらこそ、よろしくお願いします」と頭を下げた。
「今日も前と一緒でいいかな?」
灰島以外の客が誰もいなくなった喫茶店。まるで常連に向けるようなマスターの言葉に、灰島はくすぐったさを覚えながら「お願いします」と返す。
淹れる銘柄を尋ねるまでもない。豊かな香りが立ち上る、グアテマラの中煎りだ。
「縁、というのも、なかなか悪くないものでしょう?」
静かに微笑むマスターに、灰島は何も答えなかった。
ただ、カップを手に取り、一口含む。滑らかな酸味と、カラメルのような甘さ。後味に残るナッツの香り。
窓の外では、学校帰りの小学生の笑い声が聞こえる。車の通りも少なく、穏やかな時間が流れている。かつて自分がいた、血と硝煙の世界とはあまりにもかけ離れた、平凡な日常。
灰島は、そのコーヒーの温かさをゆっくりと味わいながら、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……悪くない」
その口元には、ごくわずかな、しかし確かな笑みが浮かんでいた。




