ファントム、ミッション実行する1
そして28分後。人の気配を感じ、灰島は立ち上がった。
「なぜインターフォンを鳴らさない?」
玄関のドアを開けるなりそう言えば、招かれた男は「うっ」と声を詰まらせた。
「というか、お前、気配をもっと殺せ。一般市民よりも下手すぎる」
「はぁ!? お前だから気づくレベルだろ!? っていうか、なんで俺がこんな目に……」
部屋に入れてもらい床に座れば、ことりとローテーブルに置かれたのは、お茶とぬか漬けだ。
「……なんだ? これは」
「お茶とぬか漬けだ」
「見ればわかる。これを俺に食えと?」
「それが『もてなし』だろう?」と言いながら、灰島はきゅうりのぬか漬けを口に運んだ。ほどよい歯ごたえ、ほどよい塩味、うまみも相まって複雑な味が口に広がる。これがうまいということなのだろうか?
「……それ、ここの子が持ってきたやつだろ? お前、人が作ったもの食えんの? いや、店とかはそりゃ食ってたけど」
「毒やそれらしい成分は検出されなかった、安心しろ」
「いや、そこまでする必要もないだろうけど」
このアパートに住んでいる人間は、調査対象でも危険人物でもない、普通の住民だから警戒する必要はない。それでも、警戒して一線を譲らないのが『ファントム』だと思っていたのに。
彼が食べるからではない、ただ彼が食べてもいいと思ったものに興味をもってしまった。
「……うまいな、これ」
そう呟くクラブ、ではなく今は『瀬尾』である彼に灰島は「そうか」と返した。
「これがうまいというものか……」
「いや、別にぬか漬けに詳しいわけじゃないけど、普通にうまいだろ、これ」
「そうか、普通にうまい、か」
もう一度食べてもいいと思えるもの、それがうまいという感情なのだろう。となると、もう一度あの店でコーヒーを飲みたいという感情も、きっと同じものだろう。
でも、まだセグレトには行けない。
じとっとした目で灰島を見る瀬尾だが、灰島は顔色一つ変えず続ける。
「仕方ないだろう? 30分以内に駆けつけられる場所に潜伏しているのはセオリーとしてわかっているが、お前相手にその場所を特定するには、俺でも丸3日はかかるだろう。その課程でお前が怪我をしても死にそうになってもそれは結果だ。あぁ、でも殺すつもりはなかったから安心しろ」
「……それ、褒めてる? ってか、半殺しにするぞって脅してるの一緒じゃね?」
「いや、お前の仕事は評価してるし、これはあくまでお願いだ」
これが冗談なら笑えるが、彼の場合冗談ではないから瀬尾は諦めて「で?」と続きを促すことにした。
「ロシア大統領暗殺に手を貸せとでも?」
「それは今度でいい」
本気で殺る気だ。その時が来たら、躊躇なく彼は実行するだろう。
「瀬尾、気づいているよな? 俺が何を探っているか」
「大麻畑だろ? 別に珍しくもないのに、何で見張ってるのか不思議には思ってた」
瀬尾が見張っているのは知っていたが、見られて困ることも無いので放っておいた。この部屋に盗聴器を設置していたのも、同じ理由で放置した。いや、寧ろこれで説明の手間が省けるというものだ。
「あれを摘発してくれ」
「あぁ……、はあ? 何のために!? もしかしてロシアンマフィアでも絡んでたのか? それで泳がせて──」
最終的には、本当にロシア大統領暗殺を考えているのか!? と考える瀬尾の前で灰島は首を振った。
「いや、まだそれはやらせていない」
「はい?」
そうするつもりだったが、すでに破棄した計画だ。
「隣の島に横流しするのがせいぜいだな。背後には確実に反社がいるがそれもどうでもいい」
「確かにどうでもいいな」
地域の小さな反社が何をしようが、どうでもいいことだ。それでは一体何のためにこんな手間をかけて、彼らを見張っていたのか?
「あいつらがそこにいるせいで、睡眠妨害を受けている人がいる」
灰島の言葉に、瀬尾はきゅうりのぬか漬けを口に運びかけた手を止めた。
「はい?」
瀬尾は、自分が聞き間違えたのかとでも言うように、間抜けな声を出した。灰島はそんな瀬尾の反応を気にする様子もなく、淡々と話を続ける。
「夜中の人の出入りや、車のエンジン音で、大貫さんが眠れていない」
「いやいや、何それ。ってか大貫って誰? いや、誰でも良いけど、その程度のことで侵入して監視カメラまで仕込んだわけ? あり得ない。何かあるんだろう? もしかして新しいミッションか? それを俺に手伝わせるつもりで」
「大貫さんは、このアパートの近所に住む一般市民だ。そしてこれは、新しいミッションではない。俺自身の問題だ」
至極真面目な顔でそう告げる灰島に、箸で掴んでいたきゅうりを落としてしまった。




