ファントム、辞めるってよ
「では」
そう言って、彼は『辞表』と書かれた封筒を机の上に置いて踵を返す。
「ま、待て! ファントム!」
それが彼のコードネーム。
日本では表向きスパイ行為は存在しないとされているが、非公式ながら実在する組織がある。
それが『国防直轄調査室』、略してコクチョウだ。
つい先程までファントムもそこに所属していたのだが、今回の任務を最後に辞表を提出。晴れて自由の身になった――、はずなのだが……。
ちなみに、今回の任務は来日した米国大統領の暗殺の阻止。相手は中東の反政府組織で、遠隔操作による小型爆弾によるものだったが、彼の活躍により事なきを得た。
その彼の足が止まり、振り返る。
「分かっています。退職の申告は三カ月前まで、でしたね。大丈夫です、有給休暇を充当すれば問題ありません」
「そうではない! 一体何が不満で辞めるんだ! 給料か? 休みが足りないか?」
必死になってそう呼び止める上司に、彼は「そうですね」と少し思案顔を見せた。
「強いて言うなら、『普通の人間に戻りたい』というところでしょうか」
「……はぁ!? お前は妖怪人間か昭和のアイドルか!!!!」
そんな叫び声を聞きながら、ファントムと呼ばれた男は薄暗い廊下を歩いて行った。
けれど、彼は知らなかったのだ。『普通』の生活を送るというミッションの難易度の高さを──。




