とは
私ってなんだろう。
あなたってなんだろう。
言葉ってなんだろう。
感情、感覚、本能ってなんだろう。
もう、わからないよ。
「疲れた」が口癖になってきたとある日の午後。
パソコンのキーボードをカタカタと音を鳴らしながら打ち進め、ディスプレイにアーティスト名とタイトルが表示されて、私はそこでようやく安心する。
音楽を聴いている時だけは現実逃避が出来て、何かから逃げるように頭の中から嫌なこと、苛立ったこと、悲しいこと、悔しいこと、を全て音楽が追いやってくれる。
そのおかげで、私はいつしか音楽家になりたいと思うようになった。
部屋を見渡せばすぐ目に入るギター、ピアノ、ベース、それから電子ドラム。
楽器に包まれたこの部屋が、少し好きで少し嫌い。
音楽をやることのきっかけは、何か辛い感情を消し去るためでしかない。
これから生きるにあたっても絶対的に必要なもの。
つまりは、私のこれからの人生に辛いことは絶対にある、ということ。
だから、音楽について考えると少し嫌になってしまう。
私から離れず、固定された位置で音を放ち続ける曲というものが、羨ましい。
この曲のように、私も誰かから必要とされたい。
誰かに言ったら「そんな理由で」と笑われてしまうかもしれないが、私からしたら大切で芯の通った確実な理由だ。
必要にされたいとは確かに思っているが、思い返してみると生まれてからずっと必要とされなかったわけではない。
ちゃんと、愛情を注いでくれる人は近くにいた。
でも、この人から大切にされてるな、必要とされてるな、と思ったことはない。
必要とされることは、裏返して言ってみれば依存、執着だ。
もっと簡単で簡潔な愛情では私はまだ足りなかった。
たとえ依存でもいいから、必要とされてみたいと思うようにいつしかなった、というかなってしまった。
そんな自分も、少し嫌いだったりする。
「必要に思ってるよ」だなんて言葉じゃなくて、態度で示してほしい。
この人は私がいないと生きていけないんだろうな、と思えるくらいの誰かからの愛が欲しい。
そう思ってしまうのは、果たして駄目なことなんだろうか。
いや、これはきっと、私の愛への執着だ。
執着心というものは案外すぐには取り除けないもので。
自分でたどり着いた答えに対して、果たしてそれが正解なのか?と自問自答するように一日、二日、三日が経とうとしている。
結局愛というものに執着しているのだから、執着心を解いて、愛を受けなくてもひとりで十分生きていけるような強い人にならなければ、という考えに至った。
後にも先にも、私には音楽しかない。
近すぎず、遠すぎず、ちょうどいい距離で私も一生励まし続けてくれればそれでいい。
未来に希望なんか持てないけど、今日という日を生き抜ければそれでいい。
ただの直感に支配されたような考えかもしれないが、長期的な愛よりも永遠な音楽の方が、何倍も何倍も辛い気持ちを解消してくれる気がした。




