結婚の挨拶
「うっ……」
「ん? どうしたの? あの家だよ」
ある日の昼下がり。陽射しにどこか寂しさが滲み始めた頃、男は道端でふいに立ち止まり、胃のあたりを押さえて小さく呻いた。顔をしかめて見つめる先には、古びた木造の平屋が一軒。隣のアパートの影に半ば覆われひっそりとした気配を漂わせている。隣を歩いていた彼女が首を傾げ、心配そうに男の顔を覗き込んだ。
「あ、ああ……ちょっと緊張しちゃって……」
「もう、大丈夫だよ。お父さん、ほんと優しいから。それにすごく真面目なの。きっと気が合うと思うよ」
「ああ、そうだよね……」
彼は笑顔を作ろうと口角を上げたが、頬の筋肉は強張り、引きつった表情になった。彼女はそんな様子に気づき、明るい声で続ける。
「平気だって。……あっ、そうだ。あの話をしたら、絶対お父さんも好感持ってくれると思うなあ」
「あの話?」
「ほら、昨日スーパーで万引き犯を捕まえたんでしょ?」
「ああ……それか。まあ、結局見逃しちゃったんだけどな」
「ふふっ、優しいよね。そういうところも合うと思うよ」
「そうだといいんだけど……」
この日、彼は彼女の家を訪ね、父親に結婚の挨拶をすることになっていた。
母親は早くに亡くなり、父親が男手一つで彼女を育ててきたという。その苦労を思えば、きっと娘の結婚相手には安定と誠実さを求めるに違いない。だが彼自身はまだスーパーの店員にすぎず、胸の奥には不安が渦巻いていた。
「ただいまー!」
彼女が引き戸をガラリと開け、弾む声を響かせた。彼もその背中に続いて、玄関をくぐる。木の香りがかすかに鼻をくすぐり、廊下の奥から「おお」と低い声が返ってきた。
彼女は小さく頷いた。彼は靴を揃える手に力を込め、ぎこちない動作で家に上がった。二人は居間へと進む。
「おかえりー」
座卓の向こう、畳にあぐらをかいた父親が声をかけた。彼女が嬉しそうに紹介する。
「ただいまっ。あのね、こちらがあたしの彼の……」
「あの、初めま、あっ……」
「あっ」
彼と父親が同時に声を発し、妙な間が生まれた。
「ん? どうしたの? ほら、挨拶、挨拶」
「え、ああ、その……こんにちは。――です」
「どうも、初めまして……父です」
「え?」
「ほら、立ってないで座ってよ」
「あ、ああ……」
彼女に促され、彼は座布団に腰を下ろした。
「ね、お父さん。彼、あたしが話したとおりの人でしょ?」
「え? 話したとおりって、なんだっけ?」
「だから、優しくて真面目で。あたし、この人と結婚――」
「いや!」
父親は突然顔を背け、畳を見つめながら低く唸った。
「……ちょっと、結婚は認められない」
「え、どうして!?」
「どうしてもだ。さあ、君は帰りなさい」
「だからなんでよ! 理由を言って!」
「さて、冷蔵庫にケーキがあるから食べよう。ほら、君は早く帰りなさい」
「そんなのどうでもいいから、どうして結婚しちゃ駄目なのか、ちゃんと理由を――」
「あの、ちょっといい……? お義父さんと話がしたいんだけど」
彼は彼女の顔の前に手を差し出し、言った。
「話? 二人で?」
「そう、男同士というか、当事者同士で……」
「当事者?」
「とにかく、ちょっとその辺をぐるっと回ってきて! さあ、ほら!」
彼は彼女の肩を押し、半ば強引に家から追い出した。戸が閉まると、家全体に静寂が広がった。彼は大きく息を吐き、再び座卓の前に正座した。父親は顔を伏せたまま黙っている。
張り詰めた空気の中、彼が切り出した。
「あの……昨日会いましたよね。スーパーで」
「……はい」
「ですよね! あれ? って思ったんですよ。“初めまして”って言われたから」
「いやー、まあ、ははは……」
「昨日、万引きした人ですよね?」
「……」
「あの?」
「……覚えておいででしたか」
父親はゆっくりと顔を上げ、ぎこちない笑みを浮かべた。
「はい。そりゃもう、昨日の今日ですから、さすがに」
「ですよね……」
「結構、抵抗されましたからね」
「まあ……絶対にバレないと思っていましたから、つい取り乱してしまい……」
「殴られたみぞおち、まだちょっと痛いんですよ」
「まあ、殴ったというか……肘が当たってしまっただけというか……」
「土下座までするとは思いませんでした。しかも泣きながら」
「ええ、娘のことがありますので……」
「あの、昨日おっしゃっていた“男手一つで娘を育てているんです”って、彼女のことですよね? てっきり小学生くらいかと思ってました」
「まあ、自分の子供というのは、いつまで経っても子供に見えるものですからね。君も親になればわかると思うよ」
「何をちょっと上から目線で語っているんですか」
「すみません……」
「まあ、いいですけど……。もしかして、初犯っていうのも――」
「あの」
「はい?」
「娘には、私がおたくのスーパーで万引きしたことは、どうか内緒にしておいてください……! お願いします!」
父親は机に両手をつき、深く頭を下げた。
「それは……」
「お願いします! お願いします!」
「でも……」
「お願いします! なにとぞ! とぞ!」
「まあ……彼女が知ったら悲しむでしょうし、いいですけど……」
「ああ、ありがとう……! あ、帰ってきたみたいだ」
玄関の戸が開き、足音が近づいてくる。彼女が戻ってくると、三人は再び居間で向かい合った。彼女が彼に訊ねる。
「それで、話は終わったの?」
「まあ、うん……」
「その割には、全然打ち解けてないみたいだけど?」
「いや、それはまあ……おいおい、ということで。ですよね?」
「あ、ああ、そうだな……」
「そう、じゃあいいんだね? よかったあ……。あ、ほら、こういうのは男から言わないと。ねっ」と彼女は軽く肘で彼をつついた。
「え? ああ……。お義父さん、お嬢さんと結婚させてください!」
彼は畳に額がつくほど深く頭を下げた。父親はしばし目を閉じ、重苦しい沈黙ののち、低い声で言った。
「それはできない」
「えっ!?」
「はあ!?」
「君に娘はやれない!」
「なんでよ!」
「いや、本当になんでですか……」
「聞くところによると、君はうちの近所のスーパーの店員だそうじゃないか。そんな仕事で娘を食べさせていくのは難しいだろう?」
「私も働くから大丈夫だよ!」
「だいたい、どこで出会ったんだ? やっぱりそのスーパーか?」
「そうだよ。私が彼に一目惚れしたの。転勤でこっちに配属されたんだって」
「なんで来ちゃったのかなあ!」
「ちょっと、どういう意味!?」
「はあ!?」
「君が来るまではうまくやってたのになあ!」
「ちょっと、そんな言い方ないでしょ。いつまでも親子二人ってわけにもいかないじゃない」
「いや、たぶん違う意味で言ってると思う」
「だいたい、スーパーの店員なんてなあ……よくないよ!」
「何がいけないの? お父さんだって普段お世話になってるじゃない」
「なってない。態度が高圧的だし」
「べつに普通でしょ」
「声かけられると心臓に悪いし」
「呼び込み? そんなに大きな声じゃないでしょ」
「もう嫌い!」
「いや、あのお義父さん……」
「いい、私が言うから。あのね、お父さん。彼には夢があるの」
「夢……?」
「うん。彼、警察官を目指してるの。試験を受けて刑事になるんだよね? もちろんスーパーの店員でも私は構わないけど、生活が安定するのは間違いないし、私も精一杯支えるから!」
「いやー! 怖い! 警察なんて怖い怖い怖い!」
「それは、確かに危険もあると思うけど……」
「いや、それも違う意味だと思う」
「駄目だ駄目だ駄目だ! だいたいね、娘を嫁にもらおうというのに、その……礼儀がなってない!」
「どこがよ! ちゃんとしてるじゃない!」
「それは、だから……あー、あれだ、全然頭を下げてなかった!」
「そんなことないでしょ!」
「確かに、昨日のお義父さんに比べたら、頭が高かったかもしれませんけど」
「それに、その……あのスーパーの店員が息子になるなんて、気まずい!」
「なんで!? 顔合わせるのが気恥ずかしいの? だったら他のスーパーに行けばいいじゃない」
「いや、たぶん、そういう問題じゃないと思う」
「とにかく、結婚は許さん!」
「なんでよ!」
「僕は昨日、お義父さんのことを許しましたけどね」
「あのね、お父さん……。彼ね、本当に真面目で正義感が強いの。困ってる人を見たら必ず助けるし、悪いことは見逃さない。こんないい人、めったにいないよ」
「どうだかな……」
「まあ、確かに昨日は見逃してしまいましたけどね」
「他にも、お父さんと共通点がたくさんあると思うよ。ねえ、お願い……お父さん……」
父親はうつむき、拳をぎゅっと握りしめた。しばしの沈黙のあと、ぽつりと呟いた。
「……まあ、確かにな」
「いや、どうなんだろう……」と彼は首を傾げて呟いた。
「娘を想う気持ちは一緒か……。悲しませたくないもんな。なあ!」
「まあ、それは……はい」
「結婚を……認めよう!」
「お父さん、ありがとう!」
「ありがとうございます、お義父さん。まあ、こちらにも多少の抵抗はありますけど……」
「娘をよろしく頼む……!」
「ふふっ、お父さんが泣いてるところ、初めて見たかも」
「僕は二回目かな……」
「あー、よかった……。ふふっ、もらい泣きしたらコンタクトずれちゃった。直してくるねっ」
「あ、うん……」
彼女が廊下の奥へ姿を消すと、父親はそっと彼の隣へ身を寄せ、囁いた。
「……じゃあ、家族になったということで、これからも見逃してくれるね?」
「いや、駄目ですよ」