16:4 - 一人欠けた退却路にて
「らしいって……いや俺もイガラシさんも犬人種なんだしガスとかには敏感じゃないスか、その俺らがよく分かんないんだったらソレもう思い違いなんじゃ?」
「ま、匂いの上ではよく分かんなかったのは事実だけどな。嗅覚担当はあくまでヴィトのおっさんだし」
「はぁ⁉︎ 俺が信用なんねぇってか、あ? ……っつっても理屈はよく分かんなかったけどよぉ」
「オイこらおっさん、叫ぶんじゃねェ」
相変わらずおっさんはブー垂れている。もはやイノシシってかブタな気もしたが、注意喚起はイスルギのヤツがやったので俺は黙っておく。
「……それより、イガラシはどーした?」
そしてイスルギはなおもケンゴたちを問いただした。
「そうだ、おかしいんスよ。ヤソジマとトツカは見ての通りなんスけど、イガラシだけ確認取れてなくてヤバいかもしんねェ。アイツは見張り地点にいませんした。三つある内の一番目のトツカ・三番目のヤソジマがそれぞれ狙われずにそのままだったんで、その間の地点で張ってたイガラシのやつフツーに立ちションにでも行ってんのかって油断して二番目の地点でアイツ待ってたんスけど……でも穴の奥をさらにガス攻めしてきてるっつー話がホントなら……」
「最悪そこのティートとかいうの以外の敵方に襲撃食らった恐れもアリか……イヤでも待て、だとすりゃ何で二人は無事なんだ? そもそもケンゴが三つある見張り地点から無事にここまで引き返して来れんのも違和感あんな……とにかくイガラシ探すぞ。話はそれからだ」
「いや、その必要はなさそうだよ」
焦りを滲ませるイスルギとケンゴとは対照的に、落ち着いた様子のイヴが冷静に声を掛ける。
「ほらこれが落ちてた、ターボライター。たしかイガラシくんは煙草吸うんだよね? こないだアキと谷底に落ちたとき、狼煙の火をつけるのに彼のライターを使ったって聞いてるよ」
イヴの右手には微かな明かりを受けて鈍色に光るライターがあった。汚れ具合から見てなかなか使い込まれているらしい。
「……ターボライターなんてうっかり落とすような代モンじゃねェし、あのヘビースモーカーが自分で捨てる以外にこんなモン落とすとも思えねェ。クソッ、連れてかれたな……」
「おいお前、イヴっつったよなオッサン‼︎ てめぇがロープの見張りに俺ら使ったからイガラシのヤツ連れ去られたんじゃねぇのか⁉︎ 一体どう落とし前——
表情から見ても明らかにイスルギの焦りが募っていく中、突然火が付いたかのようにトツカが声を張り上げる。マズい、ってかヤバい。存在そのものに慣れて忘れてしまっていたがコイツらだってヤクザなんだった。
「馬鹿野郎テメェ、だから叫ぶなっつってんだろうが……音量落とせ。つか、落とし前もクソも元々“そう”なってもいい覚悟あるヤツしかここにはいねェんじゃなかったか? それにまだ死んだって決まったワケでもねェ。そのへんの話は地上に戻るまで置いとけや、お前が死ぬぞ」
一方のイスルギはというと、一度どこかで聞いた覚えのある、地の底から響くような怒声で静かに言う。紛れもない殺気だ。……正直、チンピラの怒鳴り声より数倍ヤバいと思った。しかしヒートアップしたトツカの耳にそのような気配の機微は聞こえないらしい。
「イヤ待って下さいよ! イスルギさ——
見るからに気が立っていた若者にとって上司のその反応は不服だった。むしろ心から尊敬していたからこそ、一瞬失望の念もかすめさえする。この男はまだ余所者の肩を持つのか? 本来なら絶対服従がヤクザの掟だがそんなスジの通ってないことがあってたまるか、と抗議しようとしたその時。
一瞬だった。
振りかぶりといった予備動作の全くない直線的な動きで、イスルギの手がトツカの眉間に突きつけられる。鋭く固い何かが薄皮に食い込み、小さな刺し傷から血が一筋垂れて顎までつたっていった。突きつけられた機械義手からは微かなモーターの駆動音が聞こえ、その手先にはどこから出したのか折りたたみ式のサバイバルナイフがしっかりと握られている。突き刺すスピードから考えて、負わせた傷がこの程度で済んでいるというのは俄かに信じ難い。俺の目には正直速すぎて、隠し持っていたナイフを取り出したのか義手の内部に仕込まれていたのかすらも分からなかった。
殺気を全く感じ取っていなかったトツカにとっては目の前に突然刃物が突きつけられたように見えたわけで、ナイフというよりは標本のピンで刺されたようにその場から身じろき一つ出来ずにいる。
そしてイスルギは顔色も何一つ変えず、刃先を真っ直ぐ右斜めにスライドさせた。
「ひっ……」
向かって右、つまり左目の直前で刃先を止めてからイスルギは義手の手首部分に刃を収める。
手の中の得物はバタフライナイフみたいな機構らしい。トツカは腰を抜かしたかのように後ろにへたり込んだ、というか本当に抜かしそうになったんだろう。このまま漏らすんじゃないかと思うほど怯えて引き攣った顔は酷く青ざめていた。




